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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第9章 役に立たない場所の歌

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第89話 音のない講演

 ここはレイアノーティア。

 勇者の光が遠ざかった日から、世界は少しだけ静かになった。


 大きな勝利の歌はない。

 誰もが安心して叫べる名前もない。

 ただ、残された者たちの呼吸だけが、街のあちこちに残っている。


 その静けさの中で、何かを始める者がいる。



 アンタイトルの炊き出しは続いていた。


 メルグラフから届いた鍋が、広場の中央に据えられている。

 湯気が上がる。

 乾燥肉と穀物の匂いが、煤の匂いに少しずつ混ざっていく。


 エリシアは、ぎこちない手つきで椀によそっていた。


 慣れてはいない。

 手元も危なっかしい。

 量も少しずつ違う。


 だが、目は逃げていなかった。


「熱いので、気をつけてください」


 そう言って、子どもへ椀を渡す。


 子どもは受け取り、少し戸惑ってから頭を下げた。


「ありがとう」


 エリシアは小さく笑った。


「こちらこそ」


 その返しに、子どもが首を傾げる。


 フィーが、その様子を見てやわらかく目を細めた。



「どうして、ここまで?」


 フィーが問う。


 責める声ではなかった。


 純粋な疑問だった。


 エリシアは手を止める。


 少し考えてから、静かに答えた。


「私、何もできなかったんです」


 視線は下がらない。


「立つこともできなかった。歩くことも、誰かの役に立つこともできなかった」


 彼女の声は、思っていたより落ち着いていた。


「生きているだけで精一杯でした」


 トンヌラは少しだけ顔を上げる。


 エリシアは続ける。


「でも、音楽が聞こえたんです」


「音楽?」


 コムギが水袋を抱えたまま聞き返す。


 エリシアは頷いた。


「ミラさんの」



 メルグラフ中央広場。


 そこには人が集まっていた。


 勇者の帰還を祝うためではない。

 新しい物流政策を聞くためでもない。

 魔物討伐の報告でもない。


 壇上に立っていたのは、ミラだった。


 ギターは背負っている。


 だが、弾いてはいなかった。


 歌わない。


 ただ、立っている。


 それだけで、集まった人々は少し戸惑っていた。


 勇者の光が前線から遠ざかり、世界の中心が揺らいだあと。

 人々は、分かりやすい言葉を欲しがっていた。


 大丈夫だという言葉。

 安全だという保証。

 次の勇者が現れるという噂。


 けれどミラは、そのどれも言わなかった。


「勇者がいなくなったら終わり?」


 声はよく通った。


 広場のざわめきが、少し沈む。


「違うでしょ」


 ミラは腕を組むでもなく、胸を張るでもなく、ただまっすぐ前を見る。


「勇者は一人。でも、生きてる人は何万人もいる」


 誰かが息を呑んだ。


「勇者が斬ったものは大きい。あれは本当にすごい。そこは否定しない」


 ミラは少しだけ口元を歪める。


「でも、勇者がいないと立てないなら、あたしたちはずっと誰かの背中だけ見てることになる」



 エリシアは、広場の後ろでその話を聞いていた。


 最初は怖かった。


 勇者の光が遠ざかった世界で、音楽の話をするなんて、あまりにも無力に思えた。


 食べ物が必要な人がいる。

 薬が必要な人がいる。

 家を直さなければならない人がいる。


 そんな中で、音楽に何ができるのか。


 そう思った。


 けれど、ミラはその疑問から逃げなかった。


「音楽は腹を満たさない」


 正面から言った。


「傷も塞がらない。魔物も倒せない。崩れた家も直せない」


 広場の空気が、少し重くなる。


「でも」


 ミラはギターの弦に指を触れた。


 まだ鳴らさない。


「立ち上がる理由は作れる」


 その言葉は、すぐには広がらなかった。


 拍手も起きない。


 けれど、広場のどこかで、誰かの呼吸が変わった。


 エリシアはそれを覚えている。


 自分の胸にも、同じものが落ちたからだ。



 ミラは長く語った。


 歌わなかった。


 自分がどれほど音楽を信じているか、という話でもなかった。

 音楽が世界を救う、という大げさな話でもなかった。


 ただ、生きている人間が、もう一度自分の拍で立つことについて話していた。


「泣いててもいい」

「怖くてもいい」

「逃げた日があってもいい」

「誰かを羨んでもいい」


 ミラは言う。


「でも、立つ時の拍は、自分で決めていい」


 最後に、ミラはようやくギターを構えた。


 弾いたのは、短い一節だけだった。


 歌というより、呼吸に近い音。


 強くない。

 派手でもない。

 人を鼓舞する行進曲でもない。


 それでも、広場の空気は確かに変わった。


 音が終わったあと、拍手はすぐには起きなかった。


 少し遅れて、誰かが手を叩いた。


 それに、また一人が続いた。


 大きな歓声ではない。


 けれど、エリシアには十分だった。



 アンタイトル。


 エリシアは、空になった椀を重ねながら言った。


「私は、その言葉で立てたんです」


 小さく笑う。


「音楽が何かを治してくれたわけではありません」


 自分の足を見る。


「でも、立とうと思えました」


 それから、アンタイトルの街へ視線を向ける。


「だから今度は、私が誰かを立たせたい」


 トンヌラは腕を組む。


(音楽で世界を救う、か)


 勇者とは違う。


 剣でもない。

 魔法でもない。

 補給でも、調律でも、因果の縫合でもない。


 だが。


 理由を作る力。


 それは確かに、ミラらしい。



 クラウスが静かに言う。


「彼女らしいですね」


 視線は遠い。


「直接的な力ではない。ですが、確実に因果を揺らす」


「因果を?」


 エリシアが聞き返す。


 クラウスは微笑む。


「人が立つ理由が変われば、その後に選ぶ行動も変わります」


 椀を受け取った子どもが、別の子どもへ湯気の立つスープを運んでいる。


「小さな変化です」


 クラウスは続ける。


「ですが、小さな変化ほど、後から大きく効くことがあります」


 トンヌラは黙っていた。


 ミラの音が、誰かを立たせた。


 その結果、メルグラフの令嬢がアンタイトルへ来た。


 支援物資が届いた。


 座り込んでいた冒険者が立った。


 そういう流れを、クラウスは見ているのだろう。


 トンヌラには、まだそこまでは見えない。


 だが、分かることはある。


 ミラの音は、届いている。



「今、どこにいる」


 トンヌラが問う。


 エリシアは頷いた。


「メルグラフでの講演は、今日で終わりです」


「その後は」


「西へ向かうと聞きました」


 その言葉に、フィーの表情が少し強張った。


「西……」


「はい」


 エリシアも不安そうに目を伏せる。


「勇者の光が届きにくくなった地域を回るって」


 コムギが鍋の蓋を押さえながら、眉を寄せた。


「危ないです」


「そうですね」


 クラウスも否定しない。


「治安も不安定でしょう。勇者という中心が揺らいだ地域では、不安が表に出やすい」


 フィーが低く言う。


「音楽を嫌う人もいるかもしれません」


 エリシアは頷く。


「それでも、行くって」


 少しだけ、困ったように笑う。


「怖いから行く、って言っていました」


 トンヌラは鼻で笑った。


「あいつらしい」



 その夜。


 アンタイトルの空は暗かった。


 だが、以前の夜とは違う。


 支援の灯りが、いくつか灯っている。


 鍋の火。

 補修現場のランタン。

 簡易診療所の小さな明かり。

 見張りの焚き火。


 まだ弱い。


 だが、街は完全な闇ではなくなっていた。


 トンヌラは、壊れたギルドの前に立っている。


 ぽめは足元で丸くなっていた。


「……すぴ」


 どこでも寝る。


 それも一つの強さかもしれない。


 そう思いかけて、トンヌラは思考をやめた。



 エリシアが、そっと近づいてきた。


「トンヌラさん」


「なんだ」


「……ありがとうございます」


 何に対してかは、言わなかった。


 葡萄のことか。

 アンタイトルへ来たことか。

 ミラへ向かおうとしていることか。


 あるいは、その全部か。


 トンヌラは視線を逸らす。


「俺は何もしていない」


「でも、みんなが選びました」


 エリシアは言う。


「あなたがいたから」


 その言葉に、トンヌラは何も返せなかった。


 遠くで誰かが笑う。


 弱い笑い声。


 だが、昨日まではなかった音だ。



「ミラさんに、伝えてください」


 エリシアが言う。


「音は届いていますって」


 トンヌラは短く頷いた。


「伝える」


「お願いします」


 エリシアは深く頭を下げた。


 その姿はまだ細い。


 だが、もう天蓋の下で眠っていた少女ではなかった。


 誰かに助けられたままの者ではなく、誰かを支えに来た者だった。



 翌朝。


 一行はアンタイトルを出る。


 街はまだ不完全だ。


 崩れた壁もある。

 空白の依頼板もある。

 座り込んだままの者もいる。


 だが、止まってはいない。


 コムギは出発直前まで塩の配分に口を出していた。


「塩は大事ですから! 本当に雑に使わないでください!」


 フィーは怪我人の様子をもう一度見てから戻ってくる。


 クラウスはアルディウスと短く言葉を交わし、何かの帳面を受け取っていた。


 ぽめは、いつの間にかトンヌラの足元にいる。


 誰も驚かない。



 メルグラフへ向かう街道。


 空は薄く曇っていた。


 風が、砂と灰を少しだけ運んでくる。


 クラウスが小さく呟く。


「勇者という中心が揺らいだ世界で、音楽は危うい」


 トンヌラは前を見たまま答える。


「危ういから、行く」


 クラウスは少しだけ笑う。


「分かりやすいですね」


「褒めてるのか」


「少しだけ」


 フィーが空を見上げる。


「届いているなら、無事でいてほしいです」


 コムギが頷く。


「ミラさんなら大丈夫……と言いたいですけど」


 少し間を空けて。


「心配です」


 トンヌラは何も言わなかった。


 ただ、歩く。


 ミラの音を追って。



 遠く。


 かすかに、風に何かが混じった気がした。


 まだ旋律ではない。


 不安と期待のざわめき。


 街の声。

 人の呼吸。

 届くかどうか分からない音の気配。


 トンヌラは顔を上げる。


 その先に、ミラがいる。


 歌うだけでは足りない世界で、歌おうとしている女がいる。



 ここはレイアノーティア。


 剣がなくても、世界は動く。


 だが――。


 動かす者は、いつも危うい。



 第89話 了

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