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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第9章 役に立たない場所の歌

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第88話 帳尻の外へ

 ここはレイアノーティア。

 役に立たないと呼ばれた場所にも、風は吹く。



 アンタイトル。


 壊れた看板。

 傾いた酒場。

 半分だけ崩れた石畳。


 ドラグノフの影は去った。


 だが、残ったのは静けさではない。


 空白だった。


 冒険者は減った。

 勇者の姿もない。

 依頼板には、新しい紙がほとんど貼られない。


 ギルドの前には、武器を持ったまま座り込む者がいた。


 剣を手放せない者。

 盾を下ろせない者。

 けれど、どこへ向かえばいいのか分からない者。


 トンヌラは、その前を歩いていた。


 腕を組み、ゆっくりと。


(夢を追う場所だったはずだろ)


 誰に聞かせるでもなく、胸の奥で呟く。


(全員が、何かを目指していたはずだ)


 名を上げる。

 強くなる。

 金を稼ぐ。

 誰かを見返す。

 別の人生を始める。


 理由はばらばらでも、ここには前へ進もうとする熱があった。


 だが今は違う。


 勇者という中心が消えたあと、残された者たちは、自分たちの立ち方を見失っている。


 役割がなくなった瞬間、人は立つ理由まで失う。


 それは、思っていたよりもずっと静かな崩壊だった。



「団長」


 フィーが静かに呼んだ。


 団長ではない、と言いかけてやめる。


 フィーの視線の先。


 道の向こうから、馬車列が近づいていた。


 一台ではない。


 二台でもない。


 十台近い馬車が、ゆっくりとアンタイトルへ入ってくる。


 荷台には布がかけられている。


 その布に描かれている紋章を見て、クラウスの目が細まった。


 金の斑点を持つ、葡萄の印。


「メルグラフ……」


 コムギが目を丸くする。


「かなりの量ですね」


「ただの見舞いではありませんね」


 クラウスが言った。


 ぽめは、足元で丸い。


「……くぁ」


 興味があるのかないのか、分からない鳴き声だった。



 馬車が止まる。


 最初に降りたのは、整えられた髭の男だった。


 アルディウス・ヴァン=メルグラフ。


 かつて物流と効率を何より重んじていた男。


 数字で世界を見て、維持できないものを切り捨てようとしていた男。


 だが今の彼の立ち姿に、以前のような誇示はなかった。


 アルディウスは、アンタイトルの街並みを見渡した。


 壊れた建物。

 座り込む冒険者。

 煤で汚れた子ども。

 空っぽの依頼板。


 そのすべてを見て、深く息を吸う。


 そして、頭を下げた。


「支援物資を持ってきた」


 ざわめきが起こる。


 馬車の布が外されていく。


 穀物袋。

 乾燥肉。

 塩。

 薬草。

 簡易用の建材。

 布と油。

 水袋。

 鍋。


 コムギの目が、物資の量を一瞬で追う。


「これだけあれば、少なくとも数日は持ちます」


 声に、少しだけ安堵が混じった。


 これは施しではない。


 街を動かすための量だった。



 続いて馬車から降りた少女がいた。


 エリシア。


 以前、天蓋の下で横たわっていた少女。


 命の流れが薄く、世界から切り捨てられかけていた少女。


 その彼女が今、自分の足で地面に立っている。


 まだ少し細い。

 歩みも早くはない。


 だが瞳は、はっきりと前を見ていた。


「……こんにちは」


 小さく微笑む。


 アンタイトルの人々は戸惑っていた。


 なぜ、メルグラフがここへ来るのか。


 なぜ、あの病弱だった令嬢が、自分の足でこの街に立っているのか。


 誰も、すぐには理解できない。



 アルディウスが口を開いた。


「効率を追えば、ここは切り捨てる場所だった」


 静かな声だった。


「復旧に費用がかかる。冒険者は減っている。勇者の中心からも外れた。物流上の優先度も高くはない」


 誰も口を挟まない。


 それはひどく冷たい言い方だった。


 だが、アルディウスは逃げずに続けた。


「以前の私なら、数字を見てそう判断した」


 目を伏せる。


「だが私は、間違えた」


 街を見る。


「数字は正しくても、救われないものがあると知った」


 その言葉に、クラウスの指がわずかに動いた。


 帳尻が、崩れた。


 いや。


 崩れたからこそ、選んだ。


 メルグラフの支援は、合理だけでは説明できない。


 だが、ただの感情でもない。


 失ったかもしれない娘の命。

 届いた葡萄。

 助けられた呼吸。

 そのすべてを受け取った者が、自分の意思で帳尻の外へ出た。


 そういう選択だった。



 エリシアが一歩前に出る。


 トンヌラを見る。


「あの時、助けてもらいました」


 深く頭を下げる。


「あの恩は、忘れていません」


 トンヌラは眉をひそめた。


「俺は、何もしていない」


「でも、来てくれました」


 エリシアは顔を上げる。


「命が間に合うか分からない場所まで、来てくれました」


 トンヌラは黙った。


 葡萄を取りに行ったのは、フィーであり、コムギであり、クラウスであり、ガルドであり、そこにいた皆だった。


 自分は、ただその場にいた。


 そう思う。


 だが、目の前の少女は違う見方をしている。


 助けられた側の記憶は、助けた側の言い訳では変わらない。


 それが、妙に重かった。



 エリシアはアンタイトルの街を見る。


「だから今度は、私が」


 小さな身体で、まっすぐ立っている。


「ここを、もう一度“夢を追える場所”にしたいんです」


 その言葉に、座り込んでいた冒険者の一人が顔を上げた。


 夢。


 その単語は、今のアンタイトルには少し眩しすぎた。


 だが、不思議と浮いてはいなかった。


 むしろ、忘れられていた名前を呼ばれたように、街の空気がほんの少し動いた。



 トンヌラは腕を組んだまま黙っていた。


(俺は何もしていない)


 そう思う。


(ガルドが立った。クラウスが選んだ。フィーが繋いだ。コムギが支えた)


(俺は、名を与えただけだ)


 だが。


 目の前で、誰かが選んでいる。


 アルディウスは効率の外へ出た。

 エリシアは助けられた側で終わらず、支える側へ立った。

 アンタイトルの人々は、その支援を受け取るかどうかを、今まさに選ぼうとしている。


 なら。


 それを否定する理由はない。


「好きにしろ」


 短く言う。


 エリシアが一瞬きょとんとする。


 そして、笑った。


「はい」



 支援は始まった。


 炊き出し。

 建物の補修。

 簡易診療所。

 崩れた路地の片づけ。

 物資の分配。


 コムギはあっという間に物資の山へ走っていった。


「水袋はこっちです!」

「乾燥肉はすぐ全部出さないでください!」

「塩は管理します! 雑に配るとあとで困ります!」


 メルグラフの使用人たちが、最初は戸惑い、すぐに従い始める。


 フィーは怪我人のところへ向かう。


 クラウスは補修する建物の順番を見ている。


 ぽめは、日当たりのいい瓦礫の上で丸くなった。


「……すぴ」


 緊張感はなかった。


 だが、その丸さに、子どもが一人近づいた。


 恐る恐る手を伸ばし、ぽめの毛に触れる。


 ぽめは動かない。


 子どもが、小さく笑った。


 それだけで、街の空気が少しだけ柔らかくなる。



 すぐに明るくなったわけではない。


 壊れたものは、まだ壊れたままだ。


 失われたものは、戻ってこない。


 それでも。


 座り込んでいた冒険者が、ゆっくりと立ち上がった。


 荷袋を運ぶ子どもがいる。


 鍋の火を見て、誰かが腹を鳴らす。


 その音を聞いて、別の誰かが笑う。


 弱い笑いだった。


 だが、確かに笑いだった。



 フィーがトンヌラの横に戻ってきた。


「少し、呼吸が楽になりましたね」


「ああ」


 トンヌラは短く答える。


 クラウスが空を見る。


「観測の気配はありません」


 その言い方に、トンヌラは視線を向けた。


「ないのか」


「今は」


 クラウスの瞳は細い。


「ただ、糸は揺れています」


「どういう意味だ」


「調整外の選択です」


 クラウスは、アルディウスとエリシアを見る。


「小さい。ですが、確実に帳尻から外れた」


 トンヌラは何も言わなかった。


 帳尻。


 この世界は、やたらとそれを合わせたがる。


 誰かが助かれば、どこかが削れる。

 何かが増えれば、何かが減る。

 勇者がいれば、冒険者は減る。

 効率を保つために、夢は切り捨てられる。


 だが今。


 メルグラフの馬車はここにある。


 エリシアは立っている。


 アルディウスは頭を下げた。


 誰かが選んだことで、帳尻から外れたものが、ほんの少しだけ形を持った。



 トンヌラは空を見上げる。


(全員が夢を追える世界)


 かつて口にした言葉が、胸の奥でかすかに揺れた。


 まだ遠い。


 あまりにも遠い。


 だが――。


 不可能ではない気がした。


 それは希望というほど綺麗なものではない。


 ただ、壊れた石畳の隙間から吹いた、細い風のような感覚だった。



 エリシアが近づいてきた。


「トンヌラさん」


「なんだ」


「ミラさんを、知っていますか?」


 唐突だった。


 トンヌラは視線を落とす。


「知っている」


 フィーが少しだけ笑う。


「とても、よく知っています」


 クラウスも薄く微笑んだ。


「騒がしい方ですね」


「ロックな方です!」


 遠くからコムギの声が飛んできた。


 どうやら聞こえていたらしい。


 エリシアは少し驚いて、それから笑った。


「今、メルグラフで講演をしているんです」


 トンヌラが眉をひそめる。


「講演?」


「はい」


 エリシアは頷く。


「勇者の光が消えた後の世界で、音楽に何ができるのかを話しているって」


 少しだけ、嬉しそうに。


「歌うだけじゃないんですって」



 風が吹く。


 トンヌラのマントが揺れる。


 ミラ。


 腹が立つくらいまっすぐで、うるさくて、勝手で。


 それでも、自分の音で立つ女。


 勇者の光が消えた世界で、音楽に何ができるのか。


 そんな問いを、あいつは抱えている。


 なら、放っておけるはずがない。


「行くぞ」


 それだけ言う。


 フィーが頷く。


 クラウスが微笑む。


「ええ」


 コムギが物資の山から顔を出す。


「待ってください! 塩の配分だけ終わらせます!」


「早くしろ」


「こういうのは大事なんです!」


 ぽめは欠伸をした。


「……ふぁ」



 アンタイトルの奥で、子どもの笑い声がもう一つ聞こえた。


 まだ弱い。


 だが、確かだ。



 ここはレイアノーティア。


 帳尻は、必ずしも回収されない。


 選択は、時に計算を裏切る。


 そして――。


 夢は、役に立たない場所から始まることもある。



 第88話 了

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