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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第8章 正解のあとに残るもの

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第85話 神話の竜を断ち切る剣で

 ここはレイアノーティア。

 神話は、演算の外で生まれる。


 役割は、記録できる。

 能力は、分類できる。

 勝率は、計算できる。


 だが。


 人が自分で選んだ瞬間にだけ生まれるものは、時々、世界の式を踏み越える。



 高塔。


 エヴァンの視界に、新たな演算式が展開されていた。


【勇者自律率:上昇】

【中心軸:不安定化】

【構造従属率:低下】

【再調整必要】


 エヴァンは、静かに指を動かす。


 ドラグノフの内部構造が、さらに書き換えられていく。


【再生速度:理論上限突破】

【攻撃出力:制限解除】

【因果補正:勇者側失敗率固定】

【神話級討伐確率:極小】


「勝てない構図へ固定」


 淡々とした声だった。


「中心は、揺れてはならない」


 ノインが数値を確認する。


「ドラグノフの再生値、危険域です」


「問題ない」


 エヴァンは答える。


「勇者が自律する方が危険だ」


 リリカが細く息を吐く。


「世界を守るために、世界を少し壊すのね」


「壊さないための調整だ」


 エヴァンは振り向かない。


「必要な破損は、破壊ではない」


 その声には、揺れがなかった。


 だからこそ、冷たかった。



 空気が変わった。


 ドラグノフの鱗が、黒く染まっていく。


 赤黒ではない。


 光を吸い込むような、深い黒。


 割れた鱗の隙間から、赤い熱が漏れている。


 再生が速すぎる。


 斬られる前から、斬られた後を埋めようとしている。


 焼かれる前から、焼けた部分を戻そうとしている。


 矛盾した存在が、物理の形を無理やり保っている。



 バル・サンが魔法陣越しに数値を見る。


 顔が強張った。


「……なんだこれは。ありえない」


 レオンが盾を構え直す。


「つまり?」


「削っても、戻ります」


「なら、戻る前に削る」


「それでも足りません」


 バル・サンの声が低くなる。


「これは、物理的に不可能です」


 リディアがサトウへ光を注ぎながら、唇を噛む。


「そんな……」


 フィーは青白い顔のまま、サトウの命を保留し続けている。


 《代命猶予》の淡い膜が、まだ胸元に残っていた。


 だが、長くはない。


 フィーの呼吸は浅い。


 コムギが水袋を抱えたまま叫ぶ。


「フィー、飲めますか!」


「今は……無理」


「じゃああとで絶対飲んでください!」


「うん」


 返事はか細い。


 けれど、フィーは手を離さなかった。



 サトウは剣を握っていた。


 膝は震えている。


 視界は滲む。


 胸の奥には、まだ死に引かれる重さがある。


 自分の身体なのに、自分のものではないようだった。


 それでも、立っている。


 立たせてもらっている。


 レオンが前にいる。

 リディアが治している。

 バル・サンが計算している。

 フィーが死を保留している。

 コムギが街を支えている。

 クラウスが流れを繋いでいる。

 トンヌラが、こちらを見ている。


 自分一人では、立てない。


 それを認めた瞬間。


 不思議と、剣は少し軽くなった。



 ドラグノフが咆哮する。


 黒い鱗が開き、炎が溢れた。


 炎というより、巨大な終わりだった。


 触れた場所を焼くのではない。


 そこにあったはずの未来ごと、焦がすような熱。


 避難列が揺れる。


 コムギが叫ぶ。


「止まらないでください!」

「水を持ってる人は、隣へ!」

「食べられる人は、今、口に入れて!」


 人々は動く。


 怖いまま。


 震えたまま。


 それでも、動く。


 その姿を見て、サトウの目がわずかに強くなる。



 トンヌラが、サトウへ歩み寄った。


「問うぞ」


 低い声だった。


「あいつを倒したいか」


 サトウは、ドラグノフを見た。


 恐怖はある。


 死にかけた身体は、逃げろと叫んでいる。


 だが。


「倒したい」


 迷いはなかった。


 トンヌラは続ける。


「みんなを守りたいか」


「守りたい」


 即答だった。


「誰かに求められたからじゃないな」


「ああ」


「勇者だから、じゃないな」


 サトウの手が、剣を握り直す。


「違う」


 呼吸が震える。


「俺が、そうしたい」


 トンヌラは頷いた。


「なら、やってみせろ」



 サトウの足元に、淡い光が浮かぶ。


 それは、最初から色の名前を拒んでいるような光だった。


 古い文字が、瓦礫の隙間を走る。


 王国の魔法陣ではない。


 勇者召喚の紋章でもない。


 もっと深い場所。


 世界が物語になる前に刻まれた、神話層の印。


 バル・サンが息を呑む。


「これは……解析不能」


 クラウスの瞳が細まる。


「因果の下層が、開いていますね」


 リディアは祈りを止めない。


 レオンは盾を構えたまま、サトウの前を空けた。


 フィーは歯を食いしばる。


「まだ……保てます」


 コムギが声を張る。


「みんな、下がって! でも走りすぎないで!」


 ぽめは、丸かった。


 いつも通りに丸い。


 だが、その丸さの周囲だけ、世界が静かだった。



 トンヌラは、腕を組む。


 胸を張る。


 こんな状況に似合わないほど、大仰に。


 そして、叫んだ。


「その意思で示せ!」


 ドラグノフの黒い炎が迫る。


 サトウは剣を構える。


「神話の竜を屠る、勇者の剣を!」



 サトウが、息を吸った。


 それは、勇者としての呼吸ではなかった。


 人間としての呼吸だった。


 恐怖を吸い込む。


 痛みを吸い込む。


 助けられた事実を吸い込む。


 自分一人では立てない弱さを吸い込む。


 その全部を抱えたまま、剣を垂直に構える。


 剣から、光が立ち上がった。


 雲を突き抜けるような光。


 けれど、眩しさではなかった。


 それは、一本の線だった。


 選んだ者が進むための、ただ一つの線。


 サトウは踏み込む。


 身体は壊れかけている。


 足は震えている。


 胸の傷はまだ痛む。


 それでも、踏み込む。


 レオンが盾で竜の圧を受ける。


 バル・サンが軌道をずらす。


 リディアが命を繋ぐ。


 フィーが死を遅らせる。


 コムギが街を立たせる。


 クラウスが崩れかけた流れを縫う。


 トンヌラが名を定義する。


 全員が、その一瞬を作った。


 その一瞬を、サトウが選ぶ。


 トンヌラは、静かに、名を告げた。


竜神話断章アポカリプス・オブ・ドラグニールだ」


 声は大きくなかった。


 叫びではない。


 だが、世界の奥まで届いた。



 剣が振り下ろされた瞬間、そこにいる全てのものが見た。


 世界が縦に裂けるような斬撃。


 竜の肉を斬ったのではない。


 鱗を砕いたのでもない。


 骨を断ったのでもない。


 ドラグノフが“古竜王である理由”へ届いた。


 神話として積み重ねられた暴力。


 誰も勝てないという前提。


 災害として恐れられてきた歴史。


 その中心を、剣が通った。



 ドラグノフの黄金の瞳が、初めて揺れる。


 恐怖だった。


 竜が、恐怖した。


 再生が止まる。


 黒い鱗に走っていた熱が、消える。


 炎が途切れる。


 翼が崩れる。


 巨体が、粒子のようにほどけていく。


 咆哮はなかった。


 断末魔もなかった。


 ただ、神話が終わる音だけがした。


 とても静かな音だった。



 高塔。


 エヴァンのモノクルに、亀裂が走った。


 乾いた音が響く。


【演算不能】

【補正失敗】

【調整断絶】

【神話層:切断】


 エヴァンの声が、初めて揺れた。


「……神話層、切断?」


 指が止まる。


「馬鹿な」


 ノインも沈黙している。


 リリカは、街の方を見たまま、小さく呟いた。


「今のは……綺麗だったね」


 エヴァンは答えない。


 割れたモノクルの奥で、瞳だけが冷えていく。



 戦場。


 ドラグノフは消えた。


 黒い炎も、圧も、再生の気配もない。


 空に残った雲が割れ、青が少しだけ見えた。


 街の人々は、すぐには声を出せなかった。


 勝った。


 そう言えばいいはずだった。


 勇者が竜を倒した。


 それは間違いなく、勝利だった。


 だが、目の前で起きたものは、ただの勝利ではなかった。


 何かが断ち切られた。


 誰もが、理由も分からずそう感じていた。



 サトウの身体から、淡い光が立ち上っている。


 柔らかい金のようで、炎のようでもあった。


 だが、それはすぐに揺らぎ始める。


 燃え尽きるように。


 静かに。


 サトウの膝が落ちた。


 剣が、石畳に音を立てて転がる。


「……終わった」


 かすれた声。


 リディアが駆け寄る。


「サトウ様!」


 レオンが肩を支える。


 バル・サンがすぐに状態を確認する。


「勇者因子が、急速低下」


 その声には、戸惑いがあった。


「今の一撃で、ほぼ燃え尽きています」


 フィーの《代命猶予》も、ゆっくり薄れていく。


 命は、もう落ちていない。


 リディアの回復が追いついている。


 フィーは力が抜けたように息を吐いた。


 クラウスが支える。


「お疲れ様です」


「……まだ、疲れてないです」


「それは嘘ですね」


「はい」


 小さく答えたあと、フィーは目を閉じた。



 コムギが、街の方を見ていた。


 避難列は崩れていない。


 人々は、まだ水を回している。


 パンを分けている。


 竜が消えても、すぐには止まらない。


 生き残るために動き始めた身体は、まだ動き続けている。


「……終わった、んですよね?」


 コムギが呟く。


 トンヌラは空を見る。


 青がある。


 だが。


 高塔の気配は、消えていない。


「ドラグノフはな」


 短く答える。


 コムギはそれ以上聞かなかった。



 サトウは、レオンに支えられながら、空を見上げていた。


 身体は動かない。


 力も残っていない。


 剣を握ることすら、今は難しい。


 それなのに、不思議と呼吸は楽だった。


 勝ったからではない。


 褒められたからでもない。


 必要とされたからでもない。


 自分で選んだ。


 その事実だけが、胸の奥に残っている。


「俺は……」


 声が震える。


「自分で、振ったんだな」


 トンヌラは答えない。


 ただ、少しだけ口元を上げた。



 高塔。


 エヴァンは割れたモノクルを外した。


 手の中で、硝子片が光る。


 その瞳は冷たい。


 だが奥に、今までなかった揺らぎがある。


「中心軸、再定義が必要だ」


 静かに言う。


「勇者機能は、不安定化した」


 ノインが尋ねる。


「修正しますか」


「する」


 エヴァンは答える。


 声は戻っていた。


 冷たく、整っている。


「だが、修正対象は勇者だけではない」


 視線が、トンヌラへ向く。


「ネームレス」


 その名を、初めて明確な敵意と共に呼んだ。


「お前が、中心を壊している」



 トンヌラは空を見上げていた。


 何かを感じたのか、わずかに目を細める。


 ぽめが足元で欠伸をした。


「くぁ……」


 丸い。


 あまりにも丸い。


 それでも、トンヌラは知っている。


 この丸い獣が鳴かなければ、今の一撃はなかった。


 何をしたのかは、分からない。


 分からないままでいい。


 今は。



 ここはレイアノーティア。


 神話は、与えられるものではない。


 演算を断ち切った瞬間、


 それは“事実”になる。


 サトウは初めて、役割ではなく、自分の意思で振るった。


 そして。


 勇者の神話は、一度だけ燃えた。


 再現不能。


 だが確実に。


 世界を断ち切った。



 第85話 了

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