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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第8章 正解のあとに残るもの

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第84話 中心軸の揺らぎ

 ここはレイアノーティア。

 中心は、揺れてはならない。


 希望は、中心へ集める。

 恐怖も、中心へ集める。

 祈りも、期待も、感謝も、すべて中心へ流す。


 そうすれば、世界は安定する。


 勇者とは、そのために置かれた光だ。


 だが。


 光が、自分の意思で揺れた時。


 世界は、その揺れを異常と呼ぶ。



 高塔の上。


 エヴァンの視界に、異常値が走っていた。


【勇者精神安定値:低下】

【中心軸揺らぎ検知】

【構造従属率:変動】

【交代処理:保留中】


 数値は流れ続けている。


 だが、今までのようには揃わない。


 勇者は倒れた。


 死は、処理されるはずだった。


 次の中心へ移行するため、世界は交代処理へ向かうはずだった。


 だが。


 フィーによって、死は保留された。


 コムギによって、人々の意思は戻り始めた。


 トンヌラによって、勇者の役割にひびが入った。


 小さな異常が、互いに絡み合っている。



 ノインが静かに言う。


「勇者の意思干渉値、上昇しています」


 その声は冷静だった。


 だが、告げている内容は穏やかではない。


「外部命令ではありません。救助要請への反応でもありません」


「役割維持による反射でもありません……本人の意思による変動です」


 リリカが小さく笑った。


「“自分で決めよう”としてるのね」


 エヴァンの瞳が細くなる。


「想定外だ」


 指先が動く。


 空間に浮かぶドラグノフの内部式が、再び書き換えられていく。


【再生速度:上方修正】

【攻撃出力:制限解除】

【恐怖波長:最大域】

【勇者接触率:再上昇】


「均衡、再調整」


 冷たい声だった。


 それは怒りではない。


 怒りであれば、まだ分かりやすい。


 これは、処理だった。


 狂った数式を、正しい値へ戻すための処理。



 空が裂けた。


 ドラグノフの咆哮が、今までと違う。


 音ではない。


 圧だった。


 瓦礫が震える。

 空気が重く沈む。

 炎の色が、さらに濃くなる。


 街そのものが、上から押し潰されているようだった。


 避難列の人々が、思わず足を止める。


「な、何だ……?」


「また、圧が強くなった……?」


 せっかく戻りかけていた呼吸が、再び乱れかける。


 コムギが叫ぶ。


「止まらないでください!」

「水を持っている人は、隣へ!」

「食べられる人は、今食べて!」


 声は震えている。


 だが、止まらない。


 フィーは青白い顔のまま、サトウの命を保留し続けている。


 胸を押さえ、歯を食いしばる。


「まだ……大丈夫」


 その言葉は誰かを安心させるためというより、自分の身体へ言い聞かせているようだった。


 クラウスの糸が震える。


「空間圧が変わりましたね」


 目が細まる。


「これは、露骨ですよ」



 戦場。


 ドラグノフが翼をたたむ。


 巨体が空中で沈み込む。


 狙いは、ただ一点。


 倒れた勇者。


 サトウだ。


 レオンが盾を構え直す。


「来るぞ!」


 バル・サンが魔法陣を展開する。


「軌道、一直線」

「防御貫通率、上昇しています」

「このままでは――」


 リディアがサトウの回復を続けながら叫ぶ。


「まだ動かせません!」


 フィーの手が震える。


 命の保留は続いている。


 だが、サトウはまだ立てない。


 剣も握れない。


 勇者として、何もできない。



 ドラグノフが突進する。


 空が裂ける。


 竜というより、落ちてくる災害だった。


 誰もが一瞬、思った。


 終わりだ、と。


 その瞬間。


「くぁ」


 ぽめが鳴いた。


 小さく。


 いつも通りに。


 だが、その声だけが、不自然なほどはっきりと響いた。



 空気が、止まる。


 ドラグノフの巨体が、空中でわずかに固まった。


 完全に止まったわけではない。


 時間を止めたわけでもない。


 ただ、終わりへ流れ込むはずだった一瞬が、薄く引き延ばされる。


 黄金の瞳が、かすかに揺れた。


 数秒。


 ほんの数秒。


 だが、決定的な数秒だった。



 トンヌラは、その数秒を逃さなかった。


 サトウを見る。


 倒れた勇者。


 助けられた勇者。


 自分を勇者でなければならないと縛り続けてきた青年。


 その時。


 トンヌラが、静かに腕を組んだ。


 いつものように。


 この場に似合わないほど、大仰に。


「覚悟、完了……」


 それは命令ではなかった。


 勇者へ向けた問いだった。


 トンヌラは静かに言い、続けた。


「お前は決められた勇者だ」


 サトウの目が揺れる。


 呼吸はまだ荒い。


 身体は動かない。


 だが、意識だけはトンヌラを見ていた。


「人々は、お前を必要とした」


「世界は、お前を中心に置いた」


「お前も、それに応えてきた」


「だが」


 トンヌラの声が、低くなる。


「お前の気持ちはどうだ?」


 サトウの喉が震える。


「僕の……」


「今、どうしたい?」



 遠くで、子どもの泣き声が聞こえる。


 瓦礫の下で、誰かが呻いている。


 コムギが水を回している。


 フィーが震えながら命を留めている。


 リディアが祈りを続けている。


 レオンが盾を構え、バル・サンが魔法陣を支えている。


 クラウスが崩れかけた流れを繋いでいる。


 ぽめは、丸い。


 街はまだ燃えている。


 誰もが、何かをしている。


 勇者だけが、倒れている。



「周りは関係ない」


 トンヌラは言った。


「期待も、役割も、感謝も、責任も、いったん捨てろ」


 サトウの瞳が揺れる。


「お前は、この人たちを救いたいか?」


 静寂。


 炎の音だけが遠くなる。


「本当の勇者になりたいか?」



 サトウの胸が震えた。


 決められてきた。


 期待に応えてきた。


 必要とされるように動いてきた。


 勇者だから、救う。


 勇者だから、戦う。


 勇者だから、前に立つ。


 そうやって、自分を保ってきた。


 その奥に、自分の意思があったのか。


 分からない。


 分からなかった。



(俺は)


 息を吸う。


 痛い。


 胸が焼ける。


 フィーが命を留めてくれているのが分かる。


 リディアが回復してくれているのが分かる。


 レオンが守ってくれているのが分かる。


 自分は今、助けられている。


 それは恐ろしかった。


 勇者ではなくなるようで。


 必要とされなくなるようで。


 だが。


 助けられているからこそ、初めて見えたものがある。


 自分一人が中心でなくても、世界は終わらない。


 誰かが街を支えている。


 誰かが命を繋いでいる。


 誰かが水を渡している。


 誰かが、まだ終わっていないと言い張っている。



(救いたい)


 その言葉は、義務ではなかった。


 期待に応えるためでもない。


 歓声が欲しいわけでもない。


 必要とされたいだけでもない。


 ただ。


 瓦礫の中で泣く子どもを見た。


 膝をつきながら手を離さないフィーを見た。


 水を回すコムギを見た。


 盾を構えるレオンを見た。


 震えながら祈るリディアを見た。


 計算しながらも必死に戦線を維持するバル・サンを見た。


 そして。


 何もできないと言いながら、言葉だけで人を立たせる男を見た。


 だから。


 声になる。


「僕は……」


 震えが止まる。


「救いたい」



 高塔。


 エヴァンの視界に数値が跳ねた。


【勇者意思確定値:上昇】

【構造従属率:低下】

【中心軸:自律化兆候】


 ノインが呟く。


「中心軸、自律化……?」


 リリカが目を細める。


「命令じゃないのね」


 エヴァンの指が止まる。


「中心は、中心として機能すればいい」


 声が低くなる。


「意思など、余計だ」



 戦場。


 サトウの瞳が変わった。


 恐怖が消えたわけではない。


 責任が消えたわけでもない。


 傷が癒えたわけでもない。


 ただ、その奥に別のものが宿る。


 義務ではない。


 反射でもない。


 役割への従属でもない。


 自分の意思。


 サトウは、かすれた声で呟いた。


「覚悟、完了……」


 その言葉が、足元に落ちる。


 それを聞いたトンヌラは、応える。


「お前は、選ばされた勇者じゃない」


「自分の意思で立つ、《ブレイブロード》サトウだ」


 柔らかい金の光が、瓦礫の隙間から広がった。


 眩しい光ではない。


 人々を従わせる光でもない。


 誰かに選ばれた証の光でもない。


 その人自身が、もう一度立つための光だった。



《勇者:サトウ》


 水晶もない。


 職業判定もない。


 だが、世界の奥で何かが震えた。


 勇者という役割に、ほんの一瞬だけ別の意味が混ざる。


 勇者だから救うのではない。


 救いたいから、勇者になる。



 トンヌラはサトウを見る。


「誰の指示でもない」


「誰の期待でもない」


「お前の意思で、未来を決めろ」


 サトウは、ドラグノフを見た。


 まだ立てる身体ではない。


 だが、剣に手が伸びる。


 レオンが叫ぶ。


「無茶です!」


 サトウは首を横に振る。


「無茶じゃない」


 血を吐くような声。


「選んだだけだ」


 フィーの目が見開かれる。


 リディアの光が強まる。


 バル・サンが魔法陣を組み直す。


 レオンが盾を前へ出す。


 彼ら全員が、サトウの無謀を止めるのではなく、支える方向へ動いた。


 勇者を中心に戻すためではない。


 彼が選んだから、支える。



「俺が、救う」


 サトウが言った。


 その言葉は、以前と似ていた。


 けれど、意味はまったく違っていた。


 必要とされたからではない。


 求められたからでもない。


 失望されたくないからでもない。


 自分で選んだから。



 ぽめの鳴き声で引き延ばされていた時間が、ほどける。


 ドラグノフの拘束が解ける。


 巨体が再び動き出す。


 炎が迫る。


 だが、サトウは目を逸らさない。


 レオンの盾が一瞬、竜の圧を受け止める。


 バル・サンの魔法陣が、突進の軌道をわずかにずらす。


 リディアの光が、サトウの足に力を戻す。


 フィーの《代命猶予》が、死への落下をまだ留めている。


 コムギの補給で立ち上がった兵士たちが、避難列をさらに後ろへ押し出す。


 全員が、ほんの一瞬を作る。


 その一瞬に、サトウが踏み込んだ。


 剣が振り抜かれる。


 白ではない。


 柔らかい金の軌跡。


 竜の鱗を削る。


 再生が追いつく。


 だが、初めてドラグノフが後退した。


 ほんの一歩。


 たった一歩。


 それでも。


 古竜王が、勇者の意思に押された。



 トンヌラはそれを見る。


(自分で立ったな)


 胸の奥で、何かが静かに熱を持つ。


 サトウは息を荒げながら、剣を支えに立っている。


「今まで……」


 声が震える。


「俺は、自分で決めたことがあったか?」


 答えは、出ない。


 だが。


 今は、違う。


 サトウはもう一度、呟いた。


「覚悟、完了……」


 空が割れる。


 ドラグノフが咆哮する。


 戦いは、次の段階へ移る。



 高塔。


 エヴァンの視界に、新たな文字が浮かぶ。


【均衡崩壊予兆】


 ほんのわずか。


 だが、確かに。


 計算が狂った。



 ここはレイアノーティア。


 役割は人を縛る。


 だが。


 覚悟は、人を解放する。



 第84話 了

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