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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第7章 正しき正解の外側

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第78話 足りない手

 ここはレイアノーティア。

 できることがあっても、足りないものはある。


 意志があれば、人は動ける。

 声があれば、人は向きを変えられる。

 手を伸ばせば、届く命もある。


 だが、意志だけでは水は増えない。

 声だけでは傷は塞がらない。

 手だけでは、すべてを抱えきれない。



 街の混乱は、少しずつ形を変えていた。


 さっきまで、人々はただ逃げていた。


 空を見上げ、竜の影に怯え、どちらへ走ればいいのかも分からず、瓦礫の前で立ち尽くしていた。


 だが今は違う。


 北側の路地へ向かう者。

 怪我人を運ぶ者。

 倒れた荷車を押して道を開ける者。

 子どもを抱き、煙の薄い方へ走る者。


 動き始めている。


 それだけで、街はまだ終わっていないように見えた。



「そこの壁には近づかないでください」


 クラウスが言った。


 焦りのない声だった。


「崩れます」


 言い終わるより先に、焼けた壁が内側へ沈み込む。


 石と木材が、重い音を立てて落ちた。


 数人が息を呑む。


「……今の、どうして」


「見えたからです」


 クラウスはそれ以上説明しない。


 すぐに別の場所へ目を向ける。


「次はあちらです。煙が流れます。布で口を覆って、低く進んでください」


 人々が従う。


 信じたからではない。


 信じるしかなかったからだ。


 勇者のような光ではない。

 王の命令でもない。

 それでも、今その声は人の足を動かしていた。



 フィーは瓦礫のそばに膝をついていた。


 煙を吸った老人の背に手を当てる。


「ゆっくり」


 かすれた声で言う。


「私の声に合わせてください」


 老人の呼吸は浅い。

 喉が焼け、肺が乱れている。


 フィーはその乱れを読む。


 呼吸の波。

 血の流れ。

 痛みで固まった筋肉。

 恐怖で縮んだ身体。


 それらを、ひとつずつほどいていく。


「吸って」


 老人が息を吸う。


「吐いて」


 吐く。


 小さな呼吸が、少しだけ深くなる。


「大丈夫」


 フィーは笑った。


「まだ、歩けます」


 老人は涙を浮かべながら頷いた。


 そばにいた若い男が肩を貸す。


 また一人、避難列へ戻っていく。



 トンヌラは瓦礫を押していた。


 重い。


 当然のように重い。


 火で脆くなった梁は、持ち上げようとすると崩れる。

 無理に引けば、別の瓦礫を巻き込む。


「力任せに動かさないでください」


 クラウスが言う。


「分かっている」


「今、力で押そうとしました」


「見ていたのか」


「見えました」


「嫌な目だな」


「便利でしょう」


 軽口を返す余裕は、少しだけあった。


 トンヌラは息を吐き、瓦礫の隙間を見た。


 ここを押せば崩れる。

 ここを支えれば、人ひとりは通れる。

 ここはもう無理だ。


 戦場ではない。


 それでも、判断は続く。


「左を少し上げる」


「三秒です」


「十分だ」


「十分ではありません」


「うるさい。やるぞ」


 トンヌラが押す。

 クラウスが崩れる流れを縫うように指を動かす。


 瓦礫がわずかに浮いた。


「今だ!」


 閉じ込められていた少年が、腹這いで抜け出す。


 すぐに別の大人が引き寄せた。


 助かった。


 その瞬間、支えを失った梁が崩れ落ちる。


 砂埃が舞う。


 トンヌラは咳き込みながら、少年が無事に立っているのを見た。


「……次だ」


 休む暇はなかった。



 空では、勇者パーティがドラグノフを街の中心から離そうとしていた。


 サトウの剣が白く走る。

 レオンの盾が炎を受ける。

 リディアの祈りが防衛線を繋ぐ。

 バル・サンの魔法陣が、竜の軌道をずらす。


 正しい戦いだった。


 おそらく、あそこにいる誰よりも正しい。


 だからこそ、街の中心に残された人々の視線は、時折そちらへ向いた。


「勇者様は……?」


「まだ戦ってる」


「なら、大丈夫だ」


 そう言って、自分を保とうとする。


 その気持ちは分かる。


 だが、今ここに落ちている瓦礫は、勇者の名前だけではどかない。


 今ここで浅くなっている呼吸は、勇者の光だけでは整わない。


 トンヌラは声を張った。


「空を見るな!」


 人々が振り向く。


「足元を見ろ!」


 自分でも乱暴な言い方だと思った。


 だが、止めない。


「今こけたら、後ろが詰まる!」

「動けるやつは、隣を見ろ!」

「一人で逃げるな! 二人で動け!」


 クラウスが即座に補う。


「老人と子どもは壁側へ。荷を持つ人は外側へ」

「煙が濃い場所では走らないでください」

「転倒すれば避難列が止まります」


 言葉が重なり、逃げる流れが少しずつ整っていく。


 だが、整うほどに見えてくるものもあった。


 水が足りない。

 食べ物が足りない。

 人を運ぶ手が足りない。

 休ませる場所が足りない。

 泣き叫ぶ子どもを抱える腕が足りない。


 すべてが、足りない。



 フィーの手が、わずかに震えた。


 次の負傷者に触れようとして、指先が止まる。


「フィー」


 トンヌラが呼ぶ。


「大丈夫です」


 即答だった。


 だが、声が薄い。


 フィーはもう一度、負傷者の胸へ手を当てた。


 呼吸を読む。

 鼓動を拾う。

 乱れた生命の波を整える。


 けれど、周囲にあまりにも多くの命がある。


 泣く声。

 呻く声。

 痛みを堪える息。

 恐怖で乱れる鼓動。

 命が薄くなる気配。


 全部が、流れ込んでくる。


「……っ」


 フィーの膝が落ちた。


 トンヌラが駆け寄る。


「フィー」


「大丈夫……です」


 また同じ答え。


 だが、今度は笑えなかった。


 フィーの瞳の焦点が、少し合っていない。


「流れが」


 かすれた声。


「多すぎる」


 クラウスが顔をしかめる。


「情報過多ですね」


「何だそれは」


「生命反応を拾いすぎている」


 クラウスは周囲を見る。


「この状況で、彼女の感覚は広がりすぎています。救える命と、救えない命と、間に合う命と、間に合わない命が同時に入り込んでいる」


 フィーは唇を噛んだ。


「まだ……見えるんです」


 声が震える。


「あそこも」

「あっちも」

「まだ、呼吸がある」


 彼女は瓦礫の向こうを見ていた。


 トンヌラには見えない。


 だが、フィーには見えている。


 届くかもしれない命が、多すぎるほどに。


「行かないと」


 フィーが立とうとする。


 膝が揺れる。


 トンヌラは肩を掴んだ。


「全部は無理だ」


 言ってしまった。


 その言葉が、フィーの目に刺さるのが分かった。


 トンヌラ自身にも刺さった。


 全部は無理。


 正しい言葉だ。


 だから嫌だった。



 炎が落ちた。


 遠くの通りが赤く染まる。


 悲鳴。


 避難列が乱れかける。


「走るな!」


 トンヌラが叫ぶ。


 だが、恐怖は声より速い。


 人々が押し合う。


 倒れかけた女を、隣の男が支える。

 その男も足を取られる。

 後ろが詰まる。


 クラウスが動く。


「右へ流してください!」

「そこに集まると詰まります!」


 指示は正しい。


 だが、人の身体が追いつかない。


 疲れている。

 喉が渇いている。

 足が震えている。

 子どもは泣き、大人も泣きそうになっている。


 フィーが立ち上がろうとする。


 だが、また膝が落ちる。


 トンヌラの拳が震えた。


(間に合わない)


 喉が乾く。


(足りない)


 声も。

 手も。

 水も。

 食べ物も。

 休む場所も。

 誰かを立たせるものが、何もかも足りない。



 ぽめが、瓦礫の上で丸くなっていた。


 この状況で寝ている。


「お前は……」


 トンヌラは呆れかけて、言葉を飲んだ。


 ぽめの周囲だけ、ほんの少し空気が静かだった。


 終わりではない。


 なぜか、そんな気がした。


 理由はない。


 ただ、まだ終わっていない。


 そう思わせる丸さだった。



 その時だった。


 遠くから、奇妙な影が疾走してくる。


 小柄。


 子どもみたいに小柄な体。


 だが背負っているのは、巨大なリュック。


 跳ねるように走っている。


 いや、走っているというより、リュックに振り回されながら前へ飛んでいる。


 がしゃん。


 がしゃん。


 瓶と鍋と水袋が、背中でまとめて跳ねる音。


 リュックの口からは、おたまが飛び出している。


 その影が、煙を突っ切って叫んだ。


「どいてくださーい!」


 高い声。


 場違いなほど、まっすぐな声だった。


「通ります!」

「補給です!」

「あと、ちょっとこぼれます!」


 人々が思わず振り向く。


 小柄な身体。

 必死の足取り。

 煤で汚れた顔。

 けれど、目だけは妙に明るい。


 背中のリュックには、水袋。

 乾いたパン。

 塩の小袋。

 栄養剤の小瓶。


 そのすべてを背負って、彼女は全力でこちらへ突っ込んでくる。


 トンヌラは目を見開いた。


「……コムギ?」


 コムギは勢いを殺しきれず、瓦礫の手前で滑り込むように止まった。


 そして、即座に巨大なリュックを下ろす。


 どん、と地面が鳴る。


 コムギは息を切らしながら、胸を張った。


「補給、到着です!」



 ここはレイアノーティア。


 足りない手は、いつも遅れてやってくる。


 けれど、届いたなら。


 そこから、戦線はもう一度つながる。



 第78話 了

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