第78話 足りない手
ここはレイアノーティア。
できることがあっても、足りないものはある。
意志があれば、人は動ける。
声があれば、人は向きを変えられる。
手を伸ばせば、届く命もある。
だが、意志だけでは水は増えない。
声だけでは傷は塞がらない。
手だけでは、すべてを抱えきれない。
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街の混乱は、少しずつ形を変えていた。
さっきまで、人々はただ逃げていた。
空を見上げ、竜の影に怯え、どちらへ走ればいいのかも分からず、瓦礫の前で立ち尽くしていた。
だが今は違う。
北側の路地へ向かう者。
怪我人を運ぶ者。
倒れた荷車を押して道を開ける者。
子どもを抱き、煙の薄い方へ走る者。
動き始めている。
それだけで、街はまだ終わっていないように見えた。
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「そこの壁には近づかないでください」
クラウスが言った。
焦りのない声だった。
「崩れます」
言い終わるより先に、焼けた壁が内側へ沈み込む。
石と木材が、重い音を立てて落ちた。
数人が息を呑む。
「……今の、どうして」
「見えたからです」
クラウスはそれ以上説明しない。
すぐに別の場所へ目を向ける。
「次はあちらです。煙が流れます。布で口を覆って、低く進んでください」
人々が従う。
信じたからではない。
信じるしかなかったからだ。
勇者のような光ではない。
王の命令でもない。
それでも、今その声は人の足を動かしていた。
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フィーは瓦礫のそばに膝をついていた。
煙を吸った老人の背に手を当てる。
「ゆっくり」
かすれた声で言う。
「私の声に合わせてください」
老人の呼吸は浅い。
喉が焼け、肺が乱れている。
フィーはその乱れを読む。
呼吸の波。
血の流れ。
痛みで固まった筋肉。
恐怖で縮んだ身体。
それらを、ひとつずつほどいていく。
「吸って」
老人が息を吸う。
「吐いて」
吐く。
小さな呼吸が、少しだけ深くなる。
「大丈夫」
フィーは笑った。
「まだ、歩けます」
老人は涙を浮かべながら頷いた。
そばにいた若い男が肩を貸す。
また一人、避難列へ戻っていく。
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トンヌラは瓦礫を押していた。
重い。
当然のように重い。
火で脆くなった梁は、持ち上げようとすると崩れる。
無理に引けば、別の瓦礫を巻き込む。
「力任せに動かさないでください」
クラウスが言う。
「分かっている」
「今、力で押そうとしました」
「見ていたのか」
「見えました」
「嫌な目だな」
「便利でしょう」
軽口を返す余裕は、少しだけあった。
トンヌラは息を吐き、瓦礫の隙間を見た。
ここを押せば崩れる。
ここを支えれば、人ひとりは通れる。
ここはもう無理だ。
戦場ではない。
それでも、判断は続く。
「左を少し上げる」
「三秒です」
「十分だ」
「十分ではありません」
「うるさい。やるぞ」
トンヌラが押す。
クラウスが崩れる流れを縫うように指を動かす。
瓦礫がわずかに浮いた。
「今だ!」
閉じ込められていた少年が、腹這いで抜け出す。
すぐに別の大人が引き寄せた。
助かった。
その瞬間、支えを失った梁が崩れ落ちる。
砂埃が舞う。
トンヌラは咳き込みながら、少年が無事に立っているのを見た。
「……次だ」
休む暇はなかった。
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空では、勇者パーティがドラグノフを街の中心から離そうとしていた。
サトウの剣が白く走る。
レオンの盾が炎を受ける。
リディアの祈りが防衛線を繋ぐ。
バル・サンの魔法陣が、竜の軌道をずらす。
正しい戦いだった。
おそらく、あそこにいる誰よりも正しい。
だからこそ、街の中心に残された人々の視線は、時折そちらへ向いた。
「勇者様は……?」
「まだ戦ってる」
「なら、大丈夫だ」
そう言って、自分を保とうとする。
その気持ちは分かる。
だが、今ここに落ちている瓦礫は、勇者の名前だけではどかない。
今ここで浅くなっている呼吸は、勇者の光だけでは整わない。
トンヌラは声を張った。
「空を見るな!」
人々が振り向く。
「足元を見ろ!」
自分でも乱暴な言い方だと思った。
だが、止めない。
「今こけたら、後ろが詰まる!」
「動けるやつは、隣を見ろ!」
「一人で逃げるな! 二人で動け!」
クラウスが即座に補う。
「老人と子どもは壁側へ。荷を持つ人は外側へ」
「煙が濃い場所では走らないでください」
「転倒すれば避難列が止まります」
言葉が重なり、逃げる流れが少しずつ整っていく。
だが、整うほどに見えてくるものもあった。
水が足りない。
食べ物が足りない。
人を運ぶ手が足りない。
休ませる場所が足りない。
泣き叫ぶ子どもを抱える腕が足りない。
すべてが、足りない。
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フィーの手が、わずかに震えた。
次の負傷者に触れようとして、指先が止まる。
「フィー」
トンヌラが呼ぶ。
「大丈夫です」
即答だった。
だが、声が薄い。
フィーはもう一度、負傷者の胸へ手を当てた。
呼吸を読む。
鼓動を拾う。
乱れた生命の波を整える。
けれど、周囲にあまりにも多くの命がある。
泣く声。
呻く声。
痛みを堪える息。
恐怖で乱れる鼓動。
命が薄くなる気配。
全部が、流れ込んでくる。
「……っ」
フィーの膝が落ちた。
トンヌラが駆け寄る。
「フィー」
「大丈夫……です」
また同じ答え。
だが、今度は笑えなかった。
フィーの瞳の焦点が、少し合っていない。
「流れが」
かすれた声。
「多すぎる」
クラウスが顔をしかめる。
「情報過多ですね」
「何だそれは」
「生命反応を拾いすぎている」
クラウスは周囲を見る。
「この状況で、彼女の感覚は広がりすぎています。救える命と、救えない命と、間に合う命と、間に合わない命が同時に入り込んでいる」
フィーは唇を噛んだ。
「まだ……見えるんです」
声が震える。
「あそこも」
「あっちも」
「まだ、呼吸がある」
彼女は瓦礫の向こうを見ていた。
トンヌラには見えない。
だが、フィーには見えている。
届くかもしれない命が、多すぎるほどに。
「行かないと」
フィーが立とうとする。
膝が揺れる。
トンヌラは肩を掴んだ。
「全部は無理だ」
言ってしまった。
その言葉が、フィーの目に刺さるのが分かった。
トンヌラ自身にも刺さった。
全部は無理。
正しい言葉だ。
だから嫌だった。
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炎が落ちた。
遠くの通りが赤く染まる。
悲鳴。
避難列が乱れかける。
「走るな!」
トンヌラが叫ぶ。
だが、恐怖は声より速い。
人々が押し合う。
倒れかけた女を、隣の男が支える。
その男も足を取られる。
後ろが詰まる。
クラウスが動く。
「右へ流してください!」
「そこに集まると詰まります!」
指示は正しい。
だが、人の身体が追いつかない。
疲れている。
喉が渇いている。
足が震えている。
子どもは泣き、大人も泣きそうになっている。
フィーが立ち上がろうとする。
だが、また膝が落ちる。
トンヌラの拳が震えた。
(間に合わない)
喉が乾く。
(足りない)
声も。
手も。
水も。
食べ物も。
休む場所も。
誰かを立たせるものが、何もかも足りない。
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ぽめが、瓦礫の上で丸くなっていた。
この状況で寝ている。
「お前は……」
トンヌラは呆れかけて、言葉を飲んだ。
ぽめの周囲だけ、ほんの少し空気が静かだった。
終わりではない。
なぜか、そんな気がした。
理由はない。
ただ、まだ終わっていない。
そう思わせる丸さだった。
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その時だった。
遠くから、奇妙な影が疾走してくる。
小柄。
子どもみたいに小柄な体。
だが背負っているのは、巨大なリュック。
跳ねるように走っている。
いや、走っているというより、リュックに振り回されながら前へ飛んでいる。
がしゃん。
がしゃん。
瓶と鍋と水袋が、背中でまとめて跳ねる音。
リュックの口からは、おたまが飛び出している。
その影が、煙を突っ切って叫んだ。
「どいてくださーい!」
高い声。
場違いなほど、まっすぐな声だった。
「通ります!」
「補給です!」
「あと、ちょっとこぼれます!」
人々が思わず振り向く。
小柄な身体。
必死の足取り。
煤で汚れた顔。
けれど、目だけは妙に明るい。
背中のリュックには、水袋。
乾いたパン。
塩の小袋。
栄養剤の小瓶。
そのすべてを背負って、彼女は全力でこちらへ突っ込んでくる。
トンヌラは目を見開いた。
「……コムギ?」
コムギは勢いを殺しきれず、瓦礫の手前で滑り込むように止まった。
そして、即座に巨大なリュックを下ろす。
どん、と地面が鳴る。
コムギは息を切らしながら、胸を張った。
「補給、到着です!」
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ここはレイアノーティア。
足りない手は、いつも遅れてやってくる。
けれど、届いたなら。
そこから、戦線はもう一度つながる。
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第78話 了




