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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第8章 正解のあとに残るもの

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第79話 補給という光

 ここはレイアノーティア。

 強さだけでは、守りきれない。


 剣は敵を斬る。

 盾は攻撃を受ける。

 魔法は傷を塞ぐ。


 けれど、人が立ち続けるために必要なものは、それだけではない。


 水。

 塩。

 食べ物。

 糖分。

 そして、まだ動けると思えるだけの小さな熱。



「補給、到着です!」


 コムギは巨大なリュックを下ろした。


 どん、と地面が鳴る。


 小柄な身体が、その反動で少し跳ねた。


 頬は煤で汚れている。

 肩で息をしている。

 髪も少し乱れている。


 それでも、目だけは妙に明るかった。


 トンヌラは思わず言う。


「……本当に来たのか」


「来ました!」


 コムギは胸を張った。


「ちょっと遅れましたけど、水とパンと塩と栄養剤と、あと使えそうなお鍋を回収してきました!」


「鍋はいるのか」


「いります!」


 即答だった。


「鍋は人を安心させます!」


 理屈は分からない。


 だが、コムギが言うと妙に説得力があった。



 コムギはすぐにしゃがみ込む。


 動きが変わった。


 さっきまでリュックに振り回されていた小柄な身体が、補給品を前にした瞬間、驚くほど迷いなく動き始める。


 水袋。

 乾いたパン。

 塩の小袋。

 小瓶に入った栄養剤。

 甘い香りのする携帯食。


 次々と地面に並べていく。


「水、回してください!」


 周囲の人々が固まる。


「え、あの」


「煙を吸った人からです!」

「子どもとお年寄り優先!」

「泣いてる子には、まず口を湿らせてください!」

「一気に飲ませない! 少しずつ!」


 声が飛ぶ。


 高くて、よく通る声だった。


 フィーが顔を上げる。


「コムギさん……」


「フィー!」


 コムギは駆け寄り、腰の小瓶を差し出した。


「飲んで!」


「でも、怪我人が」


「あなたが倒れたらもっと困ります!」


 はっきり言った。


「今のフィーは、命の調律係です!」

「その調律係が倒れたら、全員困ります!」


 フィーの手が止まる。


 コムギは小瓶を押しつけた。


「飲んでください。補給担当からのお願いです」


「お願い……」


「はい。かなり強めのお願いです」


 フィーは少しだけ笑いそうになった。


 それから、小瓶を受け取る。


 一口。


 喉が動く。


 甘さと塩気と、少し薬草の苦みが広がる。


「……あ」


 フィーの霞んでいた視界が、わずかに晴れた。


 呼吸が戻る。


 手の震えが、少しだけ落ち着く。


 コムギは大きく頷いた。


「はい、次!」


「次?」


「次の人を見てください!」


 フィーは小さく息を吸う。


 そして、頷いた。


「……うん」



 街はまだ混乱していた。


 ドラグノフの咆哮が遠くから響くたび、人々の肩が跳ねる。


 空を見上げ、足を止める者がいる。

 泣き出す子どもがいる。

 座り込んだまま動けなくなる老人がいる。


 そこへ、コムギが走る。


「はい、水!」


 泣いていた子どもの手に、小さな木の杯を持たせる。


「飲んでください。泣くのは飲んでからでもできます!」


 子どもはしゃくり上げながら水を飲む。


「えらい!」


 コムギは即座に言った。


「水飲めました! すごいです!」


 褒め方が大げさだった。


 だが、子どもの顔が少しだけ戻る。


 次に、震えている兵士の前へ行く。


「あなたも!」


「俺は大丈夫だ」


「大丈夫な人は、大丈夫って言う余裕がありません!」


「いや、俺は」


「飲んで!」


 小瓶を押し込む。


 兵士は勢いに負けて、栄養剤を飲んだ。


 むせる。


「まずい……」


「効いてます!」


「味と効き目は別です!」


 コムギはもう次へ走っていた。



 トンヌラは瓦礫の前で、その様子を見ていた。


 水が回る。

 塩が回る。

 パンが割られる。

 栄養剤が渡る。


 それだけで、人の流れが変わっていく。


 さっきまで泣き叫んでいた子どもが、母親の袖を引いて歩き出す。

 座り込んでいた男が、隣の老人に肩を貸す。

 喉を押さえていた女が、布で口元を覆い、北側の路地へ向かう。


 劇的な奇跡ではない。


 傷が一瞬で消えたわけでもない。

 瓦礫が勝手にどいたわけでもない。

 ドラグノフが弱くなったわけでもない。


 ただ、人が少しだけ動けるようになった。


 それだけだった。


 だが今は、その“それだけ”が大きかった。



「クラウス!」


 コムギが叫ぶ。


「水袋の残量、どれくらいですか!」


 クラウスが即座に見る。


「多く見積もって、あと二十人分」


「少ない!」


「事実です」


「じゃあ一口ずつです!」


「十分な水分補給にはなりません」


「ゼロよりいいです!」


 コムギは迷わない。


「喉を湿らせるだけでもいいです!」

「全部飲まない! 次の人にも回す!」

「塩は少しずつ! 倒れそうな人は栄養剤を優先!」


 クラウスが少しだけ目を細める。


「配分判断が早いですね」


「補給担当ですから!」


 コムギは胸を張る暇もなく、次の袋を開けた。



 フィーの動きも変わっていた。


 さっきまで、すべての命の乱れが一度に押し寄せていた。


 だが今は違う。


 水を飲んだ者。

 塩を口にした者。

 少しだけ呼吸を取り戻した者。

 誰かに肩を借りて歩き始めた者。


 生命の波が、ほんの少し整い始めている。


 だから、フィーも届く命が、見えやすくなる。


「次は、あの人を」


 フィーが言う。


 クラウスが避難列を見る。


「右側の男性ですね」


「胸が浅い。煙を吸っています」


 コムギが水を持って走る。


「了解です!」


 トンヌラが瓦礫の隙間を広げる。


「通れるか」


「通ります!」


 コムギは小柄な身体で、瓦礫の隙間をすり抜けた。


 リュックが引っかかる。


「ひえー!」


「リュックを置け」


「これは命です!」


「なら命が引っかかってるぞ」


「たしかに!」


 ようやくリュックを外し、また走る。


 こんな状況なのに、ほんの一瞬だけ、近くの兵士が笑った。


 その笑いはすぐ消えた。


 だが、確かにあった。



 空で、勇者と竜が再び衝突する。


 爆音と衝撃波。


 街が揺れた。


 避難列が乱れかける。


 だが、今度は完全には崩れなかった。


「しゃがんで!」


 誰かが叫ぶ。


「子どもを壁側へ!」


 別の誰かが続く。


「水、まだあるか!」


「こっち一口分なら!」


 声が回る。


 誰かが誰かを見る。


 誰かが誰かを支える。


 クラウスの瞳が細まった。


「士気が、異常な早さで回復しています」


 トンヌラはコムギを見た。


 小さな身体で走り回っている。


 水を渡し、パンを配り、塩を分け、栄養剤を押し込み、泣いている子を褒め、震えている兵士を叱る。


 大きな魔法ではない。


 剣でもない。


 だが、街が崩れ切らない理由の一つが、そこにあった。


「コムギ」


 トンヌラが声をかける。


 コムギは振り向く。


「はい!」


「できるだけ多くの人を助けるぞ」


 コムギは一瞬だけ、ぴたりと止まった。


 それから、満面の笑みを浮かべる。


「当たり前です」


 胸を張る。


「誰一人、見逃しません」


 そしてまた走り出す。


「私は、ミリタリー・サスティナーですから!」


 リュックを背負い直しながら、振り返る。


「ね、団長!」


「団長ではない!」


 反射のように返す。


 その瞬間。


 周囲の空気が、わずかに張った。


 水を飲んだ兵士の背筋が伸びる。


 泣いていた子どもが、母親の手を握って立ち上がる。


 瓦礫に座り込んでいた老人が、ゆっくりと息を整える。


 消耗が完全に戻ったわけではない。


 傷が癒えたわけでもない。


 ただ、折れかけていた心が、もう一度だけ持ち直した。



 遠くの塔。


 エヴァンの視界に、小さな誤差が灯る。


「精神安定指数、上振れ」


 淡々とした声。


 だが、ほんの一瞬だけ間があった。


「避難効率、微増」

「人口減少率、微減」

「補給系介入」


 数値はまだ、想定内。


 そう判断できる範囲だった。


 だが、そこに揺れは生まれていた。


「……想定誤差内」


 エヴァンはそう結論づけた。


 だが視線は、コムギから離れなかった。



 戦場では、サトウがドラグノフの炎を斬り払っていた。


 白い光が赤黒い空を裂く。


 レオンが盾を構える。

 リディアが祈る。

 バル・サンが魔法陣を重ねる。


 勇者は竜を止める。


 その一方で、街の中では人が水を渡している。


 パンを分けている。

 塩を舐めて、息を整えている。

 震える膝を支えている。


 誰も英雄とは呼ばない。



 フィーが立ち上がった。


 まだ目は揺れている。


 けれど、さっきよりはっきりしている。


「……いけます」


 コムギが振り返る。


「いけますね!」


「うん」


 フィーは小さく頷く。


「命の流れが、見える」


 クラウスが避難路を示す。


「次は西側です。煙が薄い今のうちに抜けます」


 トンヌラは声を張った。


「街を守るぞ!」


 炎の中。


 勇者が竜を止める。


 別の場所で。


 仲間が街を支える。



 ここはレイアノーティア。


 剣が敵を断つなら。


 補給は、命を繋ぐ。


 そして。


 調整はまだ計算通りだと、誰かは思っている。


 だが、誤差は確実に積み上がっている。



 第79話 了

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