第76話 正義の衝突
ここはレイアノーティア。
正解は、時に刃になる。
誰かを救うため。
戦線を守るため。
多くを生かすため。
正しさ。
どれも間違っていない。
だからこそ、ぶつかった時に深く刺さる。
⸻
炎の余熱が、街を覆っていた。
焼けた石畳。
崩れた壁。
焦げた木材の匂い。
煙の向こうで、誰かが泣いている。
ドラグノフはまだ空にいる。
翼を広げ、街を見下ろしている。
その存在だけで、人の呼吸を奪うほどの圧があった。
勇者サトウは、地面に片膝をついていた。
すぐに立とうとしている。
立たなければならないと、体が分かっている。
だが、立ち上がるまでのほんの数秒が、戦場では長すぎた。
「サトウ様!」
リディアが叫ぶ。
けれど、その手前で瓦礫の下から呻き声が聞こえた。
崩れた建物の影。
焼け焦げた柱の下。
誰かがまだ生きている。
リディアの足が、一瞬だけ迷った。
勇者を癒やすべきか。
負傷者へ向かうべきか。
その迷いより早く、フィーが膝をついた。
「待って」
小さな声だった。
だが、確かな声だった。
フィーは瓦礫のそばに両手をかざす。
脈を読む。
呼吸を拾う。
乱れた生命の波を、ゆっくり揃える。
焦げた肺が、わずかに動いた。
止まりかけていた鼓動が、細く戻る。
フィーの額に汗が滲む。
「まだ、届きます。あなたは勇者様を」
その声は震えていた。
けれど、手は止まっていなかった。
⸻
「余計なことをするな!」
鋭い声が飛んだ。
レオンだった。
盾を構えたまま、彼はフィーを睨んでいる。
「戦線が乱れる!」
その声に怒りはある。
だが、ただの怒りではない。
焦り。
責任。
これ以上崩せないという切迫。
それらが混ざっていた。
バル・サンが冷静に続ける。
「民間人の過度な介入は、戦略的に非効率。次の攻撃で、防衛範囲が分散します」
リディアが唇を噛む。
「でも……まだ生きています」
バルは答える。
「生存者一名への救護で、広場全域の防衛確率を下げるべきではありません」
正しい。
あまりにも正しい。
だから、フィーの手が一瞬だけ止まりかけた。
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サトウが立ち上がった。
息は乱れている。
肩も上下している。
だが、それでも勇者は立つ。
「今はドラグノフを止めるのが最優先だ」
声は穏やかだった。
穏やかであろうとしていた。
「ここで戦線が崩れれば、救える命も救えなくなる」
サトウはフィーを見た。
「頼む。下がってくれ」
その言葉は、まだ優しかった。
だが、フィーは手を離せなかった。
目の前に命がある。
まだ届く命がある。
自分の手なら、ほんの少しだけ戻せる命がある。
それを、戦線という言葉で置いていくことはできなかった。
「すみません」
フィーは小さく言った。
「でも、この人はまだ、生きています」
サトウの目が揺れた。
それは、怒りではない。
むしろ、痛みだった。
勇者だって、助けたい。
倒れている人間を見捨てたいわけではない。
だが今、自分が見なければならないのは空だった。
街全体だった。
黒い竜だった。
ひとりを見るために全体を落とせば、もっと多くが死ぬ。
それが、勇者の正しさだった。
「感情で動くな」
サトウの声が、少し硬くなった。
「君の判断で戦線が崩れれば、もっと多くの人が死ぬ」
そして、最後に言ってしまう。
「……余計なことはするな」
⸻
空気が凍った。
フィーの肩が、ほんの少し震える。
トンヌラの中で、何かが静かに切れた。
「……そんな言い方はないだろ」
低い声だった。
トンヌラが前へ出る。
戦えるわけではない。
ドラグノフへ届く力もない。
盾になることもできない。
それでも、前へ出た。
サトウが視線を向ける。
街道で会った男。
何もしていない男。
何者でもない男。
「君は」
サトウの声は低い。
「戦局を理解していないなら、口を出すな」
その一言で、周囲がざわついた。
「あいつ、誰だ?」
「勇者様に逆らうのか?」
「また余計なことを……」
声が耳に入る。
トンヌラの胸が軋む。
(まただ)
必要とされない側。
正しい形に入れない側。
何をしても、説明できない側。
だが、引かない。
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「必要とされることが、正義か?」
トンヌラは静かに言った。
サトウの目が、わずかに揺れる。
「当然だ」
サトウは答えた。
「救える命を救う。それが勇者だ」
「選んでるんじゃないか」
トンヌラの声が強まる。
「助ける命と、捨てる命を」
「違う」
サトウが即座に返す。
「優先順位を決めているだけだ」
「全員を救えないなら、より多くを救う」
「それが間違いか?」
間違いではない。
トンヌラにも、それは分かる。
分かるから、余計に腹が立った。
「見ろ、周りを」
トンヌラの声がさらに激しくなる。
「お前たちだけで、この人々を全部救えるのか」
レオンが一歩前に出る。
「言葉を選べ!」
盾の縁が震えている。
レオンも怒っている。
だが、それ以上に守ろうとしている。
サトウの背を。
街を。
勇者という中心を。
トンヌラは止まらなかった。
「お前は……必要とされなくなるのが怖いだけじゃないのか」
⸻
空気が裂けた。
サトウの拳が震える。
図星だったのか。
侮辱だったのか。
本人にも、すぐには分からなかった。
「……無責任だ」
低い声。
「何も背負わず、理想だけを語る」
サトウはトンヌラを見る。
「君は何を背負っている」
「誰に必要とされている」
「何を守れる」
問いが、刃のように飛ぶ。
トンヌラは答えられない。
戦えない。
癒やせない。
守れない。
正しい役目なら、何ひとつ持っていない。
それでも、退くことだけはできなかった。
「背負うかどうかは俺が決める」
トンヌラは言った。
「お前に決められることではない」
サトウの目が細まる。
「なら、決めた結果を見せろ」
その言葉は、冷たかった。
だが、逃げ場のない正論でもあった。
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その時、ドラグノフの影が広場へ落ちた。
喉奥に炎が集まっている。
バルが叫ぶ。
「次弾、広場中央!」
「レオン!」
サトウが声を飛ばす。
「受けます!」
レオンが盾を構える。
リディアが障壁を重ねる。
フィーはまだ負傷者の呼吸を繋いでいる。
クラウスが割って入った。
「やめてください」
冷静だが、強い声だった。
「このままでは全滅します」
バルが即座に判断する。
「戦況不利。一時撤退が妥当です」
レオンが歯を食いしばる。
サトウが空を睨む。
撤退。
その言葉を、勇者が口にすることの重さを、彼は知っていた。
それでも、言うしかなかった。
「一時撤退」
苦い決断だった。
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ドラグノフが咆哮する。
その背後で、街が崩れる。
悲鳴。
火。
倒れる影。
人々が走る。
勇者パーティが退避経路を作り、レオンが盾で炎を受け、リディアが負傷者を引き上げる。
フィーが救った者は、かろうじて息をしていた。
だが、別の場所では、助けられなかった命がある。
トンヌラは立ち尽くした。
助けられた命。
助けられなかった命。
救えたかもしれない命。
その全部が、同じ街の中にある。
なのに世界は、どれかを数値に変えようとする。
⸻
遠くの塔。
その影に、エヴァンが立っている。
静かに。
まるで、最初からこうなることも織り込み済みだったように。
「人口減少率、許容上限内」
淡々とした声。
「恐怖値、適正域」
「勇者信頼値、一時低下」
「回復可能」
「調整継続」
トンヌラには、その声が聞こえたわけではない。
だが、分かった。
この戦場のどこかで、誰かがこれを“許容”している。
命が減ることを。
街が焼けることを。
勇者が揺らぐことを。
フィーの優しさが余計だと言われることを。
必要な範囲だと、整理している。
⸻
トンヌラの拳が震える。
(こんなの)
勇者は正しい。
レオンも正しい。
リディアも正しい。
バルも正しい。
フィーも正しい。
構造も正しいのだろう。
調整も、世界を保つためには必要なのだろう。
だが。
だが、それでも。
「……ふざけるな」
初めてだった。
魔物への怒りではない。
勇者への怒りでもない。
もっと奥。
この世界を、正しさの名で整えようとするものへ向けた、明確な憤りだった。
「こんな世界、間違ってる」
小さく。
だが、確かに。
クラウスが隣で、ほんの少しだけ目を細める。
その言葉が、何かの始まりであることを理解した顔だった。
トンヌラは、燃える街を見た。
フィーが救った命を見る。
サトウが背負った正しさを見る。
レオンが守ろうとした線を見る。
リディアの迷いを見る。
バルの冷静さを見る。
そして、その全部を数値に変えようとする見えない手を見る。
「なら」
トンヌラは息を吸った。
「俺がやる」
声は大きくない。
だが、もう逃げてはいなかった。
「やってやるさ」
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ここはレイアノーティア。
正しさは秩序を守る。
だが――
秩序は、必ず誰かを切り捨てる。
勇者とネームレス。
正解と未定義。
その溝は、決定的に開いた。
⸻
第76話 了
第7章 完




