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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第7章 正しき正解の外側

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第76話 正義の衝突

 ここはレイアノーティア。

 正解は、時に刃になる。


 誰かを救うため。

 戦線を守るため。

 多くを生かすため。


 正しさ。


 どれも間違っていない。


 だからこそ、ぶつかった時に深く刺さる。



 炎の余熱が、街を覆っていた。


 焼けた石畳。

 崩れた壁。

 焦げた木材の匂い。

 煙の向こうで、誰かが泣いている。


 ドラグノフはまだ空にいる。


 翼を広げ、街を見下ろしている。

 その存在だけで、人の呼吸を奪うほどの圧があった。


 勇者サトウは、地面に片膝をついていた。


 すぐに立とうとしている。

 立たなければならないと、体が分かっている。


 だが、立ち上がるまでのほんの数秒が、戦場では長すぎた。


「サトウ様!」


 リディアが叫ぶ。


 けれど、その手前で瓦礫の下から呻き声が聞こえた。


 崩れた建物の影。

 焼け焦げた柱の下。

 誰かがまだ生きている。


 リディアの足が、一瞬だけ迷った。


 勇者を癒やすべきか。

 負傷者へ向かうべきか。


 その迷いより早く、フィーが膝をついた。


「待って」


 小さな声だった。


 だが、確かな声だった。


 フィーは瓦礫のそばに両手をかざす。


 脈を読む。

 呼吸を拾う。

 乱れた生命の波を、ゆっくり揃える。


 焦げた肺が、わずかに動いた。

 止まりかけていた鼓動が、細く戻る。


 フィーの額に汗が滲む。


「まだ、届きます。あなたは勇者様を」


 その声は震えていた。

 けれど、手は止まっていなかった。



「余計なことをするな!」


 鋭い声が飛んだ。


 レオンだった。


 盾を構えたまま、彼はフィーを睨んでいる。


「戦線が乱れる!」


 その声に怒りはある。

 だが、ただの怒りではない。


 焦り。

 責任。

 これ以上崩せないという切迫。


 それらが混ざっていた。


 バル・サンが冷静に続ける。


「民間人の過度な介入は、戦略的に非効率。次の攻撃で、防衛範囲が分散します」


 リディアが唇を噛む。


「でも……まだ生きています」


 バルは答える。


「生存者一名への救護で、広場全域の防衛確率を下げるべきではありません」


 正しい。


 あまりにも正しい。


 だから、フィーの手が一瞬だけ止まりかけた。



 サトウが立ち上がった。


 息は乱れている。

 肩も上下している。

 だが、それでも勇者は立つ。


「今はドラグノフを止めるのが最優先だ」


 声は穏やかだった。


 穏やかであろうとしていた。


「ここで戦線が崩れれば、救える命も救えなくなる」


 サトウはフィーを見た。


「頼む。下がってくれ」


 その言葉は、まだ優しかった。


 だが、フィーは手を離せなかった。


 目の前に命がある。

 まだ届く命がある。

 自分の手なら、ほんの少しだけ戻せる命がある。


 それを、戦線という言葉で置いていくことはできなかった。


「すみません」


 フィーは小さく言った。


「でも、この人はまだ、生きています」


 サトウの目が揺れた。


 それは、怒りではない。


 むしろ、痛みだった。


 勇者だって、助けたい。

 倒れている人間を見捨てたいわけではない。


 だが今、自分が見なければならないのは空だった。


 街全体だった。


 黒い竜だった。


 ひとりを見るために全体を落とせば、もっと多くが死ぬ。


 それが、勇者の正しさだった。


「感情で動くな」


 サトウの声が、少し硬くなった。


「君の判断で戦線が崩れれば、もっと多くの人が死ぬ」


 そして、最後に言ってしまう。


「……余計なことはするな」



 空気が凍った。


 フィーの肩が、ほんの少し震える。


 トンヌラの中で、何かが静かに切れた。


「……そんな言い方はないだろ」


 低い声だった。


 トンヌラが前へ出る。


 戦えるわけではない。

 ドラグノフへ届く力もない。

 盾になることもできない。


 それでも、前へ出た。


 サトウが視線を向ける。


 街道で会った男。

 何もしていない男。

 何者でもない男。


「君は」


 サトウの声は低い。


「戦局を理解していないなら、口を出すな」


 その一言で、周囲がざわついた。


「あいつ、誰だ?」


「勇者様に逆らうのか?」


「また余計なことを……」


 声が耳に入る。


 トンヌラの胸が軋む。


(まただ)


 必要とされない側。

 正しい形に入れない側。

 何をしても、説明できない側。


 だが、引かない。



「必要とされることが、正義か?」


 トンヌラは静かに言った。


 サトウの目が、わずかに揺れる。


「当然だ」


 サトウは答えた。


「救える命を救う。それが勇者だ」


「選んでるんじゃないか」


 トンヌラの声が強まる。


「助ける命と、捨てる命を」


「違う」


 サトウが即座に返す。


「優先順位を決めているだけだ」

「全員を救えないなら、より多くを救う」

「それが間違いか?」


 間違いではない。


 トンヌラにも、それは分かる。


 分かるから、余計に腹が立った。


「見ろ、周りを」


 トンヌラの声がさらに激しくなる。


「お前たちだけで、この人々を全部救えるのか」


 レオンが一歩前に出る。


「言葉を選べ!」


 盾の縁が震えている。


 レオンも怒っている。

 だが、それ以上に守ろうとしている。


 サトウの背を。

 街を。

 勇者という中心を。


 トンヌラは止まらなかった。


「お前は……必要とされなくなるのが怖いだけじゃないのか」



 空気が裂けた。


 サトウの拳が震える。


 図星だったのか。

 侮辱だったのか。

 本人にも、すぐには分からなかった。


「……無責任だ」


 低い声。


「何も背負わず、理想だけを語る」


 サトウはトンヌラを見る。


「君は何を背負っている」

「誰に必要とされている」

「何を守れる」


 問いが、刃のように飛ぶ。


 トンヌラは答えられない。


 戦えない。

 癒やせない。

 守れない。


 正しい役目なら、何ひとつ持っていない。


 それでも、退くことだけはできなかった。


「背負うかどうかは俺が決める」


 トンヌラは言った。


「お前に決められることではない」


 サトウの目が細まる。


「なら、決めた結果を見せろ」


 その言葉は、冷たかった。


 だが、逃げ場のない正論でもあった。



 その時、ドラグノフの影が広場へ落ちた。


 喉奥に炎が集まっている。


 バルが叫ぶ。


「次弾、広場中央!」


「レオン!」


 サトウが声を飛ばす。


「受けます!」


 レオンが盾を構える。


 リディアが障壁を重ねる。


 フィーはまだ負傷者の呼吸を繋いでいる。


 クラウスが割って入った。


「やめてください」


 冷静だが、強い声だった。


「このままでは全滅します」


 バルが即座に判断する。


「戦況不利。一時撤退が妥当です」


 レオンが歯を食いしばる。


 サトウが空を睨む。


 撤退。


 その言葉を、勇者が口にすることの重さを、彼は知っていた。


 それでも、言うしかなかった。


「一時撤退」


 苦い決断だった。



 ドラグノフが咆哮する。


 その背後で、街が崩れる。


 悲鳴。

 火。

 倒れる影。


 人々が走る。


 勇者パーティが退避経路を作り、レオンが盾で炎を受け、リディアが負傷者を引き上げる。


 フィーが救った者は、かろうじて息をしていた。


 だが、別の場所では、助けられなかった命がある。


 トンヌラは立ち尽くした。


 助けられた命。

 助けられなかった命。

 救えたかもしれない命。


 その全部が、同じ街の中にある。


 なのに世界は、どれかを数値に変えようとする。



 遠くの塔。


 その影に、エヴァンが立っている。


 静かに。

 まるで、最初からこうなることも織り込み済みだったように。


「人口減少率、許容上限内」


 淡々とした声。


「恐怖値、適正域」

「勇者信頼値、一時低下」

「回復可能」

「調整継続」


 トンヌラには、その声が聞こえたわけではない。


 だが、分かった。


 この戦場のどこかで、誰かがこれを“許容”している。


 命が減ることを。

 街が焼けることを。

 勇者が揺らぐことを。

 フィーの優しさが余計だと言われることを。


 必要な範囲だと、整理している。



 トンヌラの拳が震える。


(こんなの)


 勇者は正しい。

 レオンも正しい。

 リディアも正しい。

 バルも正しい。

 フィーも正しい。


 構造も正しいのだろう。

 調整も、世界を保つためには必要なのだろう。


 だが。


 だが、それでも。


「……ふざけるな」


 初めてだった。


 魔物への怒りではない。

 勇者への怒りでもない。


 もっと奥。


 この世界を、正しさの名で整えようとするものへ向けた、明確な憤りだった。


「こんな世界、間違ってる」


 小さく。


 だが、確かに。


 クラウスが隣で、ほんの少しだけ目を細める。


 その言葉が、何かの始まりであることを理解した顔だった。


 トンヌラは、燃える街を見た。


 フィーが救った命を見る。

 サトウが背負った正しさを見る。

 レオンが守ろうとした線を見る。

 リディアの迷いを見る。

 バルの冷静さを見る。


 そして、その全部を数値に変えようとする見えない手を見る。


「なら」


 トンヌラは息を吸った。


「俺がやる」


 声は大きくない。


 だが、もう逃げてはいなかった。


「やってやるさ」



 ここはレイアノーティア。


 正しさは秩序を守る。


 だが――

 秩序は、必ず誰かを切り捨てる。


 勇者とネームレス。


 正解と未定義。


 その溝は、決定的に開いた。



 第76話 了


第7章 完

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