第75話 正解の揺らぎ
ここはレイアノーティア。
破壊は、平等だ。
誰が正しいか。
誰が必要とされているか。
誰が役目を持っているか。
そんなものを、災は見ない。
ただ大きく。
ただ強く。
ただ、そこにあるものを壊していく。
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古竜王ドラグノフ。
その巨体は、街の空を覆い尽くしていた。
赤黒い鱗には、溶岩のような亀裂が走っている。
一枚一枚が城門のような厚みを持ち、剣も矢も、そこへ触れる前から意味を失っていくように見えた。
黄金の瞳が、ゆっくり瞬く。
そこに怒りはない。
憎しみもない。
人間を見下す意思すらない。
ただ――上位。
圧倒的に、上にいるものの静けさだけがあった。
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翼を広げる。
それだけで屋根が吹き飛び、石畳が浮き、逃げる人々の足が止まる。
尻尾が振られる。
石造りの塔が、飴細工のように崩れた。
一歩。
地面が陥没する。
声が出ない。
兵士が剣を落とす。
母親が子を抱いたまま固まる。
商人が荷車の前で座り込む。
恐怖は、音を奪う。
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その中心で、サトウが前に出た。
「構えろ!」
声は揺れない。
レオンが盾を展開する。
リディアが祈りを重ねる。
バル・サンが魔法陣を広げ、竜の飛行軌道と魔力流を同時に読む。
勇者パーティは、乱れていなかった。
完璧だった。
少なくとも、人の側が組めるものとしては。
「正面は俺が取る」
サトウが剣を構える。
「レオン、防御を左へ寄せろ」
「承知」
「リディア、負傷者への回復より先に障壁維持」
「……はい」
「バル」
「再生速度は未知数です。初撃で胸部の鱗を割るのが最適かと」
「わかった」
迷いはない。
決断は速い。
陣形も正しい。
役割も噛み合っている。
人々がその背中を見て、少しだけ息を取り戻す。
「勇者様……」
誰かが呟いた。
その声に、サトウは応えるように一歩踏み込んだ。
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ドラグノフの喉奥が赤く光る。
炎が落ちる。
レオンが盾を掲げた。
「受けます!」
巨大な炎が、白銀の盾に叩きつけられる。
熱が広場を焼き、地面の水分が一瞬で蒸発した。
レオンの足が石畳にめり込む。
だが、退かない。
サトウはその炎の横を走った。
白い軌跡。
剣が、竜の胸を裂く。
鱗が砕け、赤黒い血が飛んだ。
確かな手応えがあった。
人々の顔に、わずかな希望が戻る。
「通った!」
「勇者様の剣が!」
だが。
裂けた肉が、内側から蠢いた。
砕けた鱗が、音を立てて戻っていく。
割れた骨が、肉の奥で組み直される。
血が地面へ落ちる前に、傷口そのものが閉じていく。
レオンが息を呑む。
「……再生している」
バルが即座に解析する。
「自己回復速度が異常すぎる」
額から汗が落ちた。
「通常竜種の範囲を超えています。持久戦は不利」
リディアが祈りを続けながら、顔を青ざめさせる。
「なら、どうすれば」
サトウは剣を握り直した。
「塞がる前に、もっと深く斬るしかない」
答えは単純だった。
そして、勇者らしい答えだった。
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サトウが再び踏み込む。
連撃。
一撃目で鱗を割る。
二撃目で肉を裂く。
三撃目で骨へ届かせる。
白い光が、竜の胸元で何度も弾けた。
レオンが炎を防ぐ。
リディアが焼けた傷を癒やす。
バルが次の動きを読み、魔法陣で竜の足場を崩す。
正しい。
すべてが正しい。
勇者パーティは、間違えていなかった。
いつもならそれでよかった。
削れても、戻る。
裂けても、塞がる。
崩しても、立つ。
ドラグノフは、ただその場に在り続けた。
まるで、正しい手順そのものを無効化するために置かれた災厄のように。
⸻
街の人々が見ていた。
誰も逃げきれていない。
逃げる足を止めてしまった者もいる。
勇者がいる。
だから大丈夫なはずだ。
そう信じたかった。
けれど、目の前の光景は、その信仰を少しずつ削っていく。
「勇者が……押されてる?」
誰かが言った。
小さな声だった。
だが、その一言で空気が変わった。
安心が揺れる。
期待が震える。
光へ向けていた視線に、初めて不安が混じる。
サトウの耳にも、その声は届いていた。
届いてしまった。
(応えなきゃならない)
胸の奥で、冷たいものが走る。
必要とされている。
期待されている。
ここで倒さなければならない。
そうでなければ。
そうでなければ、自分は――。
「サトウ!」
レオンの声。
ドラグノフの爪が迫っていた。
サトウは反応する。
剣で受ける。
だが、重い。
体が弾かれ、石畳を削りながら後退した。
それでも倒れない。
倒れない顔をする。
「問題……ない」
声を出す。
誰かを安心させるために。
自分に言い聞かせるように。
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その頃――。
高い塔の影に、エヴァンが立っていた。
街の混乱を見下ろす位置。
戦場から近すぎず、遠すぎない場所。
背後には、淡い光の紋が浮かんでいる。
その視線は、戦場を見ているようで、戦場を見ていない。
人の叫び。
建物の崩壊。
血を流す者。
逃げ遅れた子供。
勇者の焦り。
それらは、彼の前で数値として流れていた。
「発生確率、想定範囲内」
淡々と告げる。
「人口減少率、許容内」
「物流停滞、短期」
「恐怖値、上昇」
「絶望過多、未到達」
街の崩壊。
死傷者の増加。
勇者への信仰の揺らぎ。
すべてが、均衡の範囲内だった。
エヴァンの指先が、わずかに動く。
空気が揺らいだ。
ほんの僅か。
誰にも見えない程度に。
だが、ドラグノフの傷の塞がる速度が、さらに上がる。
「勇者、拮抗状態維持」
エヴァンは静かに言う。
「勝利過多を避け、絶望過多も避ける」
「恐怖は必要」
「崩壊は不要」
「均衡維持」
感情はない。
正しさだけがある。
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彼の視線が、街区の端へ流れる。
そこでは、ガルドが防衛線を支えていた。
赤い残光が、崩れかけた建物の前に揺れている。
魔物の侵入を弾き、瓦礫の落下を受け止め、人々の逃げる時間を稼いでいる。
「ガルド、街区防衛中……か」
「過剰介入傾向」
だが、エヴァンは止めない。
「許容範囲内」
次に、視線は別の場所へ動く。
瓦礫のそば。
煙の中。
そこに、トンヌラがいた。
剣を振るってはいない。
魔法も使っていない。
竜に届いてすらいない。
ただ、人の流れを見ている。
崩れる場所を見ている。
どこで何が歪むのかを、必死に見ようとしている。
「ネームレス」
エヴァンの目が、ほんの少しだけ細まる。
「未干渉」
いや。
わずかに沈黙。
「現時点では、誤差レベル」
そう結論づける。
だが、その声にはほんの僅か、迷いに似た間があった。
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戦場では、ドラグノフが翼を広げていた。
空が燃える。
炎が渦を巻く。
バルが叫ぶ。
「上空に魔力が集中しています!直撃すれば」
杖を握る手に力がこもる。
「広場全域が焼けます!」
リディアが祈りを強める。
「障壁を張ります!」
レオンが盾を構える。
「正面は受ける!」
サトウは、剣を握る手に力を込めた。
炎が落ちる前に、斬る。
それしかない。
勇者ならできる。
勇者なら、ここで止める。
そうでなければならない。
サトウは跳んだ。
白い剣光が、空へ伸びる。
炎と剣が衝突する。
熱が弾け、光が広場を焼いた。
人々が目を伏せる。
次の瞬間。
サトウの体が吹き飛ばされた。
地面を転がる。
石畳が砕け、砂煙が上がる。
街が、凍りついた。
⸻
勇者が倒れた。
その事実が、一瞬で広がる。
誰かが息を呑む。
誰かが泣きそうな声を漏らす。
誰かが、信じたくないものを見るように目を見開く。
サトウは、すぐに起き上がろうとした。
腕が震える。
膝が笑う。
それでも立とうとする。
立たなければならない。
必要とされているから。
だが、体が一瞬だけ遅れた。
その瞬間、一人の女が、勇者の方へ走り出した。
その女を、トンヌラは知っている。
そのまっすぐさを。
自分より他人の命を優先してしまう姿勢を。
危険だと分かっていても、倒れた誰かへ手を伸ばさずにいられないことを。
「フィー……」
助けに行くべきか。
止めるべきか。
任せるべきか。
その迷いが、ほんの一瞬、足を止めた。
フィーは止まらない。
リディアも、サトウの方へ視線を向けている。
レオンはドラグノフを見ている。
バルは戦況を読んでいる。
全員が正しい場所を見ていた。
だからこそ、全員の正しさが少しずつ噛み合わなくなっていた。
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ドラグノフが、低く喉を鳴らす。
勇者はまだ立ち上がりきっていない。
防衛は崩れていないが、揺れている。
救護は必要だが、戦線から目を離せない。
すべてが正しい。
すべてが必要。
なのに、どれか一つを選べば、どれかが遅れる。
トンヌラは、その光景を見ていた。
勇者が正しい。
レオンも正しい。
リディアも正しい。
バルも正しい。
フィーも正しい。
正しいものばかりが並んでいる。
それなのに、街は壊れている。
人は倒れている。
恐怖は広がっている。
そして高い塔の影で、エヴァンはまだ静かに戦場を見ている。
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ここはレイアノーティア。
完璧な世界で、
完璧じゃないのは人の心だけ。
だから世界は、人の心を誤差として扱う。
だが、その誤差だけが、
時に正解を揺らがせる。
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第75話 了




