第74話 影が落ちる
ここはレイアノーティア。
守られている時、人は強い。
守ってくれる誰かがいる。
倒してくれる誰かがいる。
大丈夫だと言ってくれる誰かがいる。
その安心は、人を前へ進ませる。
だが――
安心は、時に人から備えを奪う。
⸻
アークレイドの朝は、静かだった。
勇者サトウは南方へ向かっている。
大型魔窟の最終処理。
周辺に残った魔物の掃討。
街道へ流れる前に、危険を潰すための遠征。
その知らせは、前日から街中に広まっていた。
「勇者様が向かったなら安心だ」
「南方もこれで落ち着くな」
「最近は本当に平和になった」
人々は、そう言って笑っていた。
街は動いている。
商人は荷を運び、子供は走り、店先では野菜が並ぶ。
ギルドの掲示板には、討伐ではなく護衛や復旧補助の依頼が揺れている。
平和だった。
少なくとも、そう見えていた。
⸻
トンヌラとクラウスは、ギルド近くの通りを歩いていた。
ぽめはいつも通り、足元で丸く歩いている。
「勇者は南か」
トンヌラが呟く。
「ええ」
クラウスは淡々と答えた。
「南方魔窟の最終処理。合理的な配置です」
「街は手薄になるな」
「普通なら、そう考えます」
その言い方に、トンヌラは横目を向ける。
「普通なら?」
「ええ。ですがこの世界では、勇者がいない時ほど、勇者の必要性が確認されることがあります」
クラウスの声は低かった。
「ガルドさんの件と同じです」
トンヌラは足を止めかけた。
勇者がいない時だけ、魔物発生率が上がる。
ガルドが立てば、下がる。
あまりにも都合がいい配置。
「……嫌な話だな」
「はい」
クラウスは短く答えた。
その時だった。
空が焼けた。
⸻
赤い光が、雲の奥で膨らんだ。
一瞬遅れて、轟音。
地面がわずかに震える。
人々が、空を見上げた。
「……何だ?」
「雷か?」
「いや、晴れてるぞ」
遠方の山脈の向こうで、雲が裂ける。
次の瞬間。
炎が空を横切った。
翼。
尾。
爪。
巨大な影が、街の上へ落ちてくる。
⸻
大きな翼を持った、巨大な黒い竜だった。
⸻
その姿を見た瞬間、誰もが理解した。
これは、街が相手にしていいものではない。
「古竜王だ……」
誰かが、掠れた声で呟いた。
「もう何十年も現れなかったはずなのに、なぜ……」
古竜王ドラグノフ。
レイアノーティアにおいて、これ以上の暴力は存在しない。
そう語られる、最上位の魔物だった。
竜が咆哮した。
窓ガラスが割れる。
石畳が震える。
荷馬車の馬が暴れ、子供が泣き出す。
「勇者様は!?」
「南方だ!」
「戻れるのか!?」
安心は、一瞬で恐怖へ変わった。
人々は走り出す。
だが、どこへ逃げればいいのか分からない。
空にいる相手から、どちらへ逃げれば安全なのか。
誰も知らなかった。
⸻
クラウスが瞬時に空を見た。
「着弾予測、南西区画」
トンヌラは反射的にそちらを見る。
住宅街。
市場の裏手。
朝の時間なら、まだ人が多い。
「行くぞ」
「戦えませんよ」
「知ってる」
トンヌラは走り出した。
戦えない。
分かっている。
竜を斬る力などない。
炎を防ぐ盾もない。
祈りで命を繋ぐこともできない。
それでも、走らない理由にはならなかった。
⸻
南西区画では、すでに屋根が崩れていた。
炎そのものは直撃していない。
だが、衝撃波だけで古い建物が歪み、壁に亀裂が入っている。
人々が逃げ惑う。
「こっちへ!」
トンヌラは声を張った。
瓦礫の落ち方。
人の流れ。
逃げ遅れた者の位置。
山で見続けてきたものが、頭の中でばらばらに浮かぶ。
構造は分からない。
だが、歪みは見える。
「あの路地は駄目だ! 壁が落ちる!」
叫んだ直後、路地の上部から石材が崩れ落ちた。
逃げ込もうとしていた男が足を止める。
「右へ回れ!」
クラウスが横で補足する。
「荷車を倒してください。壁代わりにします」
近くの商人が戸惑いながらも荷車を倒す。
逃げる人々が、その陰を抜けていく。
トンヌラは次の声を探す。
どこが危ない。
どこがまだ通れる。
誰が止まっている。
戦ってはいない。
ただ、逃げる道を繋いでいるだけだ。
⸻
倒壊しかけた家屋の中から、子供の泣き声が聞こえた。
トンヌラの足が止まる。
「中にいる」
クラウスが目を細める。
「屋根が持ちません」
「何秒だ」
「長くて二十」
「十分だ」
「十分ではありません」
それでも、トンヌラは踏み込んだ。
中は煙で白い。
梁が軋んでいる。
壁の一部が崩れている。
奥で、子供が棚の下にうずくまっていた。
「動けるか」
子供は泣きながら首を振る。
足を挟まれている。
トンヌラは歯を食いしばった。
力で持ち上げることはできない。
そんな筋力はない。
だから、周囲を見る。
棚の脚。
割れた椅子。
壁際に落ちた鉄棒。
「クラウス!」
「分かっています」
クラウスが鉄棒を差し込み、てこの形を作る。
トンヌラが押し、クラウスが角度を変える。
棚がわずかに浮いた。
「今だ!」
子供が這い出る。
その瞬間、屋根が大きく軋んだ。
トンヌラは子供を抱えるようにして外へ押し出す。
自分も続こうとする。
だが、瓦礫が落ちた。
出口が半分塞がる。
クラウスが糸を見るように指を動かす。
「左です!」
トンヌラは体を横へ滑らせ、ぎりぎりで外へ出た。
背後で家屋が崩れた。
子供は助かった。
その事実に、一瞬だけ息が抜ける。
だが、そこで終わりではなかった。
⸻
倒壊した家屋が、通路を塞いだ。
逃げていた人々の流れが、別方向へ曲がる。
その先は、広場へ続いている。
空から見れば、逃げる人間が一箇所に集まる形になった。
クラウスの顔色が変わる。
「まずい」
トンヌラも遅れて気づく。
ドラグノフが悠々と旋回している。
大きな影が、広場へ向かって落ちてきた。
「散れ!」
叫ぶ。
だが、声は恐怖に飲まれた。
人々は動けない。
⸻
その時、遠くで銀の閃光が走った。
空を裂くような白い軌跡。
勇者サトウが戻ってきた。
跳躍。
斬撃。
火花。
サトウと竜が、空中で衝突する。
衝撃波が街を揺らした。
「勇者様だ!」
「助かった!」
歓声が上がる。
人々の顔に、再び安心が戻りかける。
だが、次の瞬間。
サトウの斬撃がわずかに逸れた。
ドラグノフの巨体が、予定より低く流れる。
竜の尾が、広場の端を薙いだ。
建物が砕ける。
石片が飛ぶ。
逃げていた人々が悲鳴を上げる。
⸻
レオンの声が響いた。
「下がれ! 戦線に入るな!」
盾を構えたまま、彼はトンヌラたちの方を見ていた。
バルの冷静な声も続く。
「予測軌道が乱れた」
小さな声だった。
だが、聞こえた。
リディアは負傷者の方へ走る。
サトウは空を睨んでいる。
誰も、悪意で言っているわけではない。
戦線を維持するには、予測が必要だ。
予測が乱れれば、被害が増える。
それは事実だった。
そして、その乱れの一部に、自分たちの救助が絡んでいることも否定できなかった。
⸻
煙が流れる。
瓦礫の中で、誰かが泣いている。
助かった子供が、母親に抱きしめられている。
そのすぐ向こうでは、別の建物が燃えている。
誰かが呟いた。
「……余計なことを」
別の声が重なる。
「勇者様の邪魔しなければ」
「勝手に動くから」
トンヌラは振り向かなかった。
だが、聞こえている。
胸の奥が、冷たくなる。
助けた命はある。
けれど、救えなかった命もある。
ネームドの老人の声が頭の中で響いた。
「介入は、救済ではなく上書きだ」
救ったことで、別の流れを作ってしまったかもしれない。
正しさは、ひとつではなかった。
だから苦しい。
⸻
サトウが着地した。
息が荒い。
だが、立っている。
一瞬、視線が合った。
サトウは言う。
「下がれ」
穏やかな声だった。
だが、その奥に拒絶があった。
「ここは、僕たちが止める」
勇者が戦う。
人々は逃げる。
余計な介入はしない。
それが、この場で最も整った形なのだろう。
トンヌラは言い返さなかった。
言い返せなかった、に近い。
ぽめが、小さく鳴く。
「……くぁ」
空で、竜が再び咆哮する。
本気の戦いは、これからだった。
⸻
街は知った。
勇者がいないと、壊れる。
そして今。
勇者がいても、壊れる。
だが、その原因を勇者に向けることはできない。
人々には、光が必要だからだ。
ならば恐怖は、別の責任を探す。
分かりにくくて。
役目がなくて。
そこにいる理由を、誰にも説明できない者へ。
⸻
ここはレイアノーティア。
恐怖は、責任を探す。
そして一番目立たない者に、
押しつけられる。
⸻
第74話 了




