第68話 山を降りる者
ここはレイアノーティア。
山は、変わらない。
人が迷おうと。
泣こうと。
何かを決意しようと。
山は、それに合わせて形を変えたりはしない。
ただそこにあって、登る者と降りる者を、同じ重さで見送るだけだ。
⸻
トンヌラは、ひとりで山を降りていた。
――いや。
正確には、ひとりではない。
足元を、小さな白い影がついてくる。
「……ついてくるのか」
振り向かないまま言う。
「……くぁ」
ぽめが、小さく鳴いた。
丸い。
決意も覚悟も、相変わらず何も見えない顔だ。
けれど、気づけば少しだけ前にいる。
導いているのか、ただ気まぐれに歩いているだけなのかは、最後までよく分からなかった。
⸻
半年。
山へ戻ってから、それだけの時間が過ぎた。
長かったのか、短かったのか、自分でもよく分からない。
剣を振ったわけではない。
技を増やしたわけでもない。
何か特別な能力を得た実感も、ない。
結局、自分は何ひとつ手に入れていなかった。
風の向き。
雲の流れ。
谷の向こうの街の灯り。
その下で暮らす人間たちの気配。
そして、自分の胸に浮かぶ迷いと、怒りと、見ないふりをしたくなる弱さ。
山は何も教えなかった。
だから、自分で見続けるしかなかった。
⸻
見続けた先で、ようやくひとつだけ、形になりかけたものがある。
仲間たちに起きたこと。
真名を呼び、世界が書き換わったように見えたこと。
あれは、自分だけの特別な力ではなかったのかもしれない。
ガルドも。
コムギも。
フィーも。
ミラも。
クラウスも。
あいつらは、自分の後悔を消したわけじゃない。
痛みを無くしたわけでもない。
ただ、それを別の形で引き受け直した。
守れなかった痛みを、守る力に。
支えきれなかった悔しさを、支える意志に。
届かなかった後悔を、届かせるための手に。
揃えられなかった苦さを、自分の拍に。
正しさに飲まれた記憶を、選び直すための目に。
世界が応えたのは、そのあとだ。
もしそうなら、あれは奇跡ではない。
一部の選ばれた者だけの力でもない。
人が本来持っている可能性に、世界が遅れて名前をつけただけだ。
⸻
調停機構は、その可能性を歪める。
後悔を、ただの後悔のまま固定する。
痛みを、先へ進む力ではなく、そこで立ち止まらせる戒めに変える。
そうやって、人が本来持っていたはずの形を少しずつ狭めていく。
ならば。
ネームレスにできることは、たぶんひとつしかない。
新しい力を与えることではない。
何もない場所から奇跡を作ることでもない。
調停機構の調整によって歪められた、個の可能性を、その者自身の形へ返すこと。
それだけだ。
⸻
その意味で、ガルドは大きかった。
あいつは一度、受ける者として立った。
守るために、痛みを引き受ける者として。
けれど、その先でもう一度立った時、受けたものを自分の中だけで終わらせなかった。
自分だけが耐えるのではなく。
周囲へ返す側へ、踏み出した。
まだ不安定だった。
完成でもなかった。
だが、あれは確かに、人の可能性だった。
傷を抱えたままでも。
戒めを持ったままでも。
そこから先へ変わっていけるという形だった。
⸻
「……でも、構造はまだわからん」
トンヌラは小さく呟いた。
何がどう繋がって。
どこで歪められ。
どう返せばいいのか。
そこまでは、まだ届かない。
分かったのは、自分に特別な力がないこと。
それでも、見え始めたものがあること。
そして、それを確かめるためには、山を降りるしかないということだけだった。
答えを得たからではない。
確かめるために、降りる。
「それだけでも、自分のやるべきことがわかったような気がする」
誰に言うわけでもなく、そう呟いた。
⸻
山道の先が、少しずつ明るくなっていく。
木々が薄くなり、岩の色が変わる。
風に、土と草と、人の匂いが混じり始める。
山の出口だ。視界が開ける。
街道。
馬車の軋む音。
遠くで誰かが笑う声。
荷を引く獣の息。
懐かしいはずの風景なのに、どこか違って見えた。
以前より、人の流れが細い。
商人はいる。
旅人もいる。
だが、鎧姿の冒険者が少ない。
剣や槍を下げた若者たちの姿も、あまり見えない。
「……少ないな」
トンヌラは小さく呟いた。
ぽめが足元で、「くぁ」とだけ鳴く。
⸻
街道脇の掲示板が目に入る。
張り紙の数そのものはある。
だが、内容が違った。
運搬。
復旧補助。
護衛。
物資整理。
討伐依頼が、ほとんどない。
その代わりに、大きく目立つ紙が何枚も貼られていた。
《勇者、北方魔窟を単独制圧》
《勇者、魔王残党を掃討》
《勇者、再び勝利》
トンヌラは、しばらくそれを見ていた。
「……勇者」
ぽつりと、声が漏れる。
強い風が吹き、紙がばさりと鳴った。
⸻
酒場の前を通り過ぎた時だった。
昼前の半端な時間だというのに、中から軽い笑い声が聞こえる。
「今どき、冒険者なんて流行らないよ」
若い声だった。
「勇者サトウが全部やってくれるしな」
「危ないとこ行く必要ないって、ありがたい時代だよ」
「まあ、護衛とか補助だけでも食えるし」
羨望と、安心が混ざった声。
馬鹿にしているというより、本気でそう思っている響きだった。
トンヌラは足を止めなかった。
そのまま通り過ぎる。
(必要とされていない、か)
胸の奥が、ほんの少しだけ軋んだ。
痛みというほど大きくはない。
だが、確かに引っかかる重さだった。
⸻
その時だった。
前方から、一団が歩いてくるのが見えた。
白い外套。
磨かれた装備。
乱れのない歩幅。
それだけで、人々が自然に道を開ける。
誰かが呼びかけるわけでもない。
命令されるわけでもない。
ただ、その一団が来るだけで、街道の空気が整っていく。
中心に立つ青年は、歩みを乱さない。
落ち着いた目。
余計な力みのない姿勢。
必要とされることに慣れた者の顔だった。
一瞬。
視線が、合った。
(こいつが、勇者か)
一目で分かった。なぜなら他に冒険者がほとんどいないからだ。
⸻
互いに、何も言わない。
だが、空気だけがわずかに張る。
の目が、ほんの少しだけ細まった。
「……冒険者?」
声は穏やかだった。
穏やかだが、その奥に冷たさがある。
相手を見下しているというより、別物として見られていると感じた。
トンヌラは答えない。
腕も組まない。
構えもしない。
ただ、立つ。
サトウは一拍だけ置き、それから言った。
「今は危険だ。街道の魔物はほぼ掃討済みだが、残党がいる。不用意に動がないほうがいい」
完全に、正しい言葉だった。
人を守る側の言葉。
必要とされる者の言葉だ。
トンヌラは軽く息を吐く。
「心配は無用だ」
それだけ返す。
勇者は、ぽめを見る。
丸い。
白い。
眠そう。
その視線が一瞬だけ揺れた。
だが、すぐに戻る。
「……そうか」
それ以上は何も言わない。
⸻
すれ違う。
勇者一行は、迷いなく前へ進む。
その背中を見送りながら、トンヌラは思った。
(あれが、“必要とされている者”か)
強い。
正しい。
迷いがないように見える。
少なくとも、今の人々にはそう見えている。
そう見えるから、中心になれる。
だが、そこから零れるものも、きっとある。
ぽめが、ちいさく鳴いた。
「くぁ」
「……なんだ」
返事はない。
ただ、丸い目でこちらを見上げるだけだ。
トンヌラは小さく息を吐いて、再び歩き出した。
目指すは、アークレイド。
クラウスが待つ街。
そして、半年の間にどこまで変わってしまったのかを、自分の目で確かめるべき場所。
⸻
ここはレイアノーティア。
役目を持つ者は、称えられる。
必要とされる者は、道を開かれる。
では、役目を持たぬ者はどうするのか。
答えはまだない。
だから、自分で立つしかない。
⸻
第68話 了




