第66話 山は、何も教えない
ここはレイアノーティア。
山は、何も教えない。
答えをくれるわけでもない。
正しさを示してくれるわけでもない。
ただ、そこにある。
だから山では、自分の中にあるものがよく見える。
隠したかった迷いも、見ないふりをしていた弱さも、風の冷たさに輪郭を与えられてしまう。
⸻
トンヌラは、ぽめを連れて山道を登っていた。
また山に戻ってきた。
それだけを言えば、昔と同じに聞こえる。
だが、今回は違った。
何者でもないまま山へ逃げ込んだあの頃と違って、今は背中に顔がある。
ガルド。
コムギ。
フィー。
ミラ。
クラウス。
そして、ベッドの上でかすかに笑ったエリシア。
見送る者がいる山は、少しだけ重い。
⸻
「……で、何をすればいい」
前を歩くぽめの丸い背中に向けて、トンヌラは言った。
「くぁ」
ぽめは振り返りもしない。
返事になっていない。
だが、妙に迷いもない。
小さな足で、当たり前みたいに先へ進んでいく。
「お前の方が、俺より分かってそうだな」
ぽめはそのまま歩く。
何も語らない。
いつも通り、丸い。
⸻
山道は静かだった。
岩肌。
痩せた土。
風に擦れる木々。
遠くで流れる水の音。
どれも昔と変わらないはずなのに、見え方だけが違っていた。
以前の自分は、この山を“強くなるための場所”としてしか見ていなかった。
岩は鍛えるためにあり、滝は耐えるためにあり、寒さは試練だった。
とにかく何かをすれば、何者かになれると思っていた。今は違う。
風がどこから抜けるか。
雲がどこで割れるか。
谷の向こうに、どんな街があり、どんな人間が暮らしているか。
世界を見ろ。
心を鍛えろ。
そう言ったのは自分だ。
だが、実際に世界が見え始めると、それは強さではなく、痛みそのものだった。
⸻
開けた岩場で、トンヌラは足を止めた。
遠くに街が見える。
小さい。
静かだ。
だがあの小ささの中で、今日も誰かが必要とされ、誰かが取りこぼされ、誰かが正しさの外へ押し出されている。
自分はそれを、まだ何も変えられない。
何も出来ないまま、見てしまった。
世界の仕組みも。
誰かが削られる形も。
正しさだけでは拾えないものがあることも。
「……難儀だな」
トンヌラはその場に腰を下ろした。
ぽめが隣で当然のように丸くなる。
⸻
「俺は、結局何も出来ない」
ぽめは寝ている。
「助けられてる。支えられてる。けど、俺自身は何なんだって話だ」
風が吹いた。
「剣を振れるわけでもない。魔法で全部どうにかできるわけでもない。正しい答えを持ってるわけでもない」
石を一つ拾って、指先で弄ぶ。
「それでも、見た以上は無かったことに出来ん」
見たものに耐えること。
削られる現実から目を逸らさないこと。
必要とされなくても、自分で立つこと。
そして、選ぶことから逃げないこと。
鍛えるべきは、たぶんそこだった。
⸻
夜になった。
焚き火の火が、小さく揺れる。
トンヌラは火の向こうに座り、目を閉じた。
呼吸を整える。
風の音を聞く。
木が軋む音、水の音、自分の鼓動。
昔の山籠りなら、雑念を消そうとした。
何も考えないことが強さに近いと思っていた。
今は違う。
消さない。
浮かぶものを、そのまま見る。
ガルドの背中。
コムギの涙。
フィーの手の震え。
ミラの腹が立つほど真っ直ぐな言葉。
クラウスの静かな視線。
そして、自分が何もできないと知った時の、あの鈍い痛み。
消したくなる。
見ないふりをしたくなる。
だが、そこから目を逸らしたら、また同じところで止まる。
「……これか」
小さく呟く。
心を鍛えるというのは、綺麗になることではない。
見たくないものを抱えたまま、壊れずにいることなのかもしれない。
⸻
ぽめが、ふと顔を上げた。
「……くぁ」
その先で、雲の切れ間から星が覗いていた。
トンヌラは空を見上げる。
山は何も教えない。
答えもくれない。
どちらが正しいかも言わない。
だから自分で見るしかない。
世界を。
人を。
自分の弱さを。
それでも何かを選びたがる、自分の心を。
⸻
ここはレイアノーティア。
山は、何も教えない。
だから人は、見たものを抱えたまま、自分で答えを作るしかない。
⸻
第66話 了




