第65話 山へ向かう者
ここはレイアノーティア。
別れは、終わりではない。
同じ場所に立ち続けることだけが、共にあることではない。
離れて進むこともまた、次に並ぶための選択になる。
だから人は、ときどき別々の方角を見る。
同じものを守ろうとするときほど、その歩幅は一度ばらける。
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葡萄を届けた夜が明けて、空気は少しだけやわらいでいた。
メルグラフの空は薄く白い。
昨夜の張りつめた気配が嘘みたいに、街は静かに朝を始めている。
宿の前に、一行はそろっていた。
そして、足元にはぽめ。
白くて、丸くて、今日もまるで緊張感がない。
「……で」
最初に口を開いたのはミラだった。
「ほんとに行くんだ」
確認するような声だった。
止める気は薄い。
でも、軽く流したくもない。そんな声音だ。
トンヌラは、宿の入口に背を向けたまま頷いた。
「ああ」
短かったが、それでもう十分だった。
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昨夜エリシアは葡萄を口にし、確かに少しだけ顔色を戻した。
呼吸は前より穏やかになり、閉じていた瞼も薄く開いた。
アルディウスの見立てでは、回復にはまだ時間が要る。
一度削られたものは、触れればすぐ戻るほど単純ではない。
それでも、届いた。
完全ではなくても。
足りなくても。
確かに、届いた。
だからこそ、トンヌラの中では余計にはっきりしてしまった。
――今の自分では、足りない。
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「戦いに行くわけじゃ、ないんですよね」
フィーが静かに聞いた。
トンヌラはそちらを見ずに答える。
「違う。今の俺が剣を振ったところで、できることはたかが知れている」
コムギが少しだけ眉を下げた。
その言い方を、自分で自分に向けるのかと思ったのだろう。
だがトンヌラの声は、思いのほか静かだった。
投げやりでも、自嘲でもない。
ただ、認めている声だった。
「戦う修行じゃない見る修行だ」
ミラが目を細める。
「見る?」
「世界をだ」
トンヌラは言った。
「観測者みたいに、全部を捨てて外から見るつもりはない」
「だが、知らないままじゃ、また同じところで止まる」
少しだけ空を見上げる。
「足りないのは腕力じゃない」
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その言葉に、場が少しだけ静かになった。
トンヌラが、自分からそう言うのは珍しかった。
強くなる。
勝つ。
帰ってくる。
そういう言葉なら、いくらでもそれっぽく言える男だ。
だが今の言葉には、厨二の飾りがなかった。
そのぶんだけ、重かった。
ガルドが、低く息を吐く。
「……そうですね」
それは否定でも慰めでもない。
ただ、同じ場所に自分も立ったことがある者の声だった。
「守るだけでは足りないと知った時俺も、受けたものをどう返すかで止まりました」
トンヌラが視線を向ける。
ガルドは真っ直ぐ立っていた。
「団長が行くのなら、俺は止めません」
「団長ではない」
「今はそこじゃないです」
コムギが即座に言った。
少しだけ、空気がゆるむ。
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コムギは背負い袋の紐を握り直す。
「……さみしいですけど」
「でも、たぶん今の団長さんに必要なの、そこなんだろうなって思います」
「団長ではない」
「今日は二回目なので流します」
トンヌラは小さく鼻を鳴らした。
コムギは続ける。
「私たちも、その時までにやれることをやります」
「次にちゃんと並べるように」
その言葉に、フィーが静かに頷く。
「はい」
「待っている、というより」
「止まらずに、それぞれ進んでおきます」
ミラも肩をすくめた。
「まあ、その方が性に合ってる」
「全員で湿っぽく待ってるの、たぶん似合わないし」
クラウスだけは少し遅れて口を開く。
「あなたの選択なら、誰も止めません」
その声音はいつも通り平坦だった。
だが、平坦であることが逆に誠実だった。
「見て、考えて、それでも戻ると決めたなら」
「その時は、今より一つ先の言葉を持っているはずです」
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トンヌラは、ひとりずつを見る。
まだ完成していない。
未熟で、不安定で、危うい。
だが、それでいいのだとも思った。
完成していないから、進む。
未完成だから、選び直せる。
「……では」
トンヌラが息を吸う。
少しだけ間を置いた。
「しばし、別行動とする」
「急にそれっぽい」
ミラがぼそりと言う。
「大事なとこだからな」
トンヌラは真顔だった。
コムギが、ふっと笑う。
「はい」
「同行……は、今は許可しませんか?」
トンヌラは少しだけ口元を緩めた。
「各自、自分の立ち位置を鍛えろ」
ガルドが頷く。
フィーも、コムギも、ミラも、クラウスも、それぞれ小さく応じた。
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その時だった。
ぽめが、のそのそとトンヌラの足元へ寄ってきた。
見上げる。
丸い。
眠そう。
だが、動く気だけはなぜか固い。
「……お前も来るのか」
「くぁ」
小さく鳴く。
断る理由もない。
いや、正確には、断ってもついてくる顔をしていた。
トンヌラはしゃがみ込み、ぽめを抱き上げる。
「勝手なやつだ」
ぽめは腕の中で、当然みたいな顔をしていた。
フィーが少しだけ笑う。
「その子が一緒なら、少し安心です」
クラウスが低く呟く。
「安心、ですか。それを安心と呼んでいいかはわかりませんが」
「そこは空気読みましょうよ」
ミラが言う。
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街道の先に、山が見えていた。
まだ遠い。
だが、視線を向ければはっきりとそこにある。
始まりの場所。
未熟だった頃に、自分を閉じ込めた場所。
そして今度は、逃げるためではなく、確かめるために戻る場所。
トンヌラは山を見たまま言う。
「次に戻る時には」
「少なくとも、今のままではない」
誰へ向けた言葉でもなかった。
自分への確認に近い。
ガルドが一歩だけ前へ出る。
「待っています」
トンヌラは首を振る。
「待つな」
一同が、少しだけ目を見開く。
「それぞれ進め」
「立ち止まるな」
その言葉に、クラウスがほんのわずかに目を細めた。
コムギは口を引き結び、フィーは静かに頷き、ミラは苦笑する。
「言うと思った」
「言うだろうな」
ミラ自身が答えるみたいに付け足した。
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トンヌラは背を向けた。
ぽめを抱えたまま、山の方へ歩き出す。
呼び止める声はなかった。
誰も、そうしなかった。
別れは終わりではないと、もう分かっていたからだ。
背後で、コムギの声だけが小さく届く。
「ではしばらく、私たちもその時のためにやれることをやります!」
明るく言おうとして、少しだけ震えた声だった。
トンヌラは振り返らない。
だが、片手だけ軽く上げた。
それで十分だった。
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山道への入口に立つ。
空気が変わる。
街の匂いが薄れ、石と土と緑の匂いが濃くなる。
ぽめが腕の中で一度だけあくびをした。
「……ふぁ」
トンヌラは小さく笑う。
「修行する気あるのか、お前」
答えはない。
ただ、丸い。
それでも、ひとりではなかった。
ここはレイアノーティア。
強さとは、力だけではない。
見えるものを増やすこと。
揺れる心を、揺れたまま抱えること。
選ぶ前に、立ち止まらずに考え続けること。
トンヌラは山へ入る。
今度は、何者かになるためではない。
何を見ても、人の側に立ち続けられるかを確かめるために。
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第65話 了




