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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第6章 観測の外へ

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第64話 半分だけ届いたもの

 ここはレイアノーティア。

 届くことと、足りることは違う。


 手を伸ばせば届くものがある。

 間に合うものもある。

 だが、届いただけで元に戻るとは限らない。


 それでも人は、届かなかったよりはずっとましだと信じて、半分だけ残ったものを抱えて帰る。


 その半分が、次へ進む理由になることもあるからだ。



 一行がメルグラフへ戻った時には、日が落ちかけていた。


 山を下りる間も、誰もあまり喋らなかった。

 喋る余裕がなかったとも言えるし、言葉にした途端、葡萄の残り半分まで軽くなってしまいそうだったとも言える。


 コムギは背負い袋を両手で抱えるようにして歩いている。

 中には、谷底から持ち帰った原初の葡萄が入っていた。


 半分しか残らなかった。

 だが、半分は残った。


 その事実だけを、誰も無駄にしたくなかった。


 門をくぐると、見張りの兵がすぐにこちらへ気づいた。


「戻ったぞ!」

「先生を呼べ!」


 声が飛ぶ。


 その反応だけで、街がまだエリシアのために息を詰めていたことがわかった。



 屋敷の中は、出発前よりもさらに静かだった。


 足音を立てるのがためらわれるほどの静けさ。

 だが死んだ静けさではない。

 誰もが、持ち帰られたものに希望をかけている静けさだった。


 アルディウスが、部屋の前で待っていた。


 表情は固い。

 だが、トンヌラたちの姿を見た瞬間、その目にだけわずかな光が差す。


「……持ち帰れたのか」


 トンヌラは頷いた。


「半分だけだ」

「半分……十分だ」

 アルディウスは即答した。

 その即答に、どれだけの願いがこもっているのかがわかる。


 フィーが一歩前へ出る。


「急ぎましょう。時間を置かない方がいいです」


 アルディウスは黙って扉を開けた。



 エリシアは、まだベッドに横たわっていた。


 前に見た時より顔色はさらに薄い。

 呼吸は続いている。

 だが、それが“かろうじて”息をしているほど衰弱しているのは、一目で分かった。


 コムギの喉が鳴る。


「……間に合って。お願いですから」


 フィーは答えなかった。

 代わりにベッドの脇へ座り、静かに呼吸を整える。


 コムギが袋から葡萄を取り出した。

 山の光を閉じ込めたような、淡い紫。

 失われた半分の分だけ、この実は余計に小さく、貴重に見えた。


 フィーがそっと実に触れる。


「まだ生きてます」

 その声に、少しだけ安堵が混じる。

「完全じゃない。でも、届きます」


 アルディウスが息を詰めた。


 トンヌラは、部屋の隅から動かない。

 ここで何かを言うのは違う気がした。

 今、手を伸ばしているのはフィーで、支えているのはコムギで、ここまで運んできたのは全員だ。

 自分はただ、その結果を見届けるしかなかった。



 フィーが葡萄の雫を整え、ゆっくりとエリシアの唇へ運ぶ。


 部屋の中から、音が消えた。


 ひとつ。

 またひとつ。


 細く流れた命の気配が、エリシアの中へ沈んでいく。


 フィーは呼吸を読む。

 コムギは次の雫を支える。

 アルディウスは拳を握りしめたまま動かない。


 そして――


 エリシアの指先が、わずかに動いた。


 コムギが息を呑む。


「……っ」


 呼吸が、少し深くなる。

 胸が、前よりは確かに上下する。

 顔色に、ほんの少しだけ血の気が差した。


 フィーが目を閉じ、静かに息を吐く。


「届きました」


 その一言で、部屋に張りつめていたものが、ようやく少しだけ緩んだ。


 コムギがその場にへたり込む。


「よ、よかったぁ……!」

「まだです」

 フィーはそう言ったが、声は前よりやわらかい。

「でも、ちゃんと届きました」


 アルディウスが、ようやく椅子へ手をついた。


 肩から力が抜けていくのが、見ていて分かった。


「……そうか」

 それだけ言う。

 それだけしか言えなかったのだろう。



 だが、完全ではなかった。


 フィーはエリシアの脈を確かめながら、少しだけ眉を寄せる。


「前みたいに、すぐ元気になるわけではありません」

 静かに告げる。

「削られた分が大きすぎます」

フィーは続ける。

「命は繋がった。でも、戻るには時間が必要です」


 コムギが顔を上げた。


「時間……」

「はい」

 フィーは頷く。

「今すぐ立てるようにはなりません」

「でも、ここから戻っていけます」


 その“戻っていける”に、皆が救われた。


 完治ではない。

 劇的な奇跡でもない。

 だが、前へ向かう道だけは切れていない。


 今はそれでよかった。



 エリシアが、ゆっくりと目を開けた。


 まだ焦点は甘い。

 意識も、完全には浮上していない。

 それでも彼女は、部屋の中の輪郭をひとつずつ確かめるように見ていた。


 アルディウスが思わず身を乗り出す。


「エリシア」


 その呼びかけに、エリシアの目がわずかに動く。


 次に、トンヌラの方を見た。


 トンヌラは、一瞬だけ息を止める。


 エリシアはまだ弱い声で、だが確かにはっきりと言った。


「……トンヌラさん」


 部屋の空気が静まる。


「ありがとう」


 それだけで、十分だったはずだ。

 だが彼女は、さらに小さく続けた。


「この恩は……忘れません」


 トンヌラは何も言えなかった。


 こういう時に格好のいい台詞が出ればよかったのだろう。

 恩などと言うな、とか。

 大したことはしていない、とか。

 そういうそれっぽい返しはいくらでもある。


 だが、口がうまく動かなかった。


 代わりに、少しだけ顎を引く。


「……そうか」


 出てきたのは、それだけだった。


 ミラが横で小さく笑う。

 コムギは笑いながら裾で涙を拭う。

 フィーも、ようやく表情をゆるめる。

 ガルドも静かに、その側に立っていた。


 クラウスだけが、そのやり取りを静かに見ていた。



 少し時間を置いて、アルディウスはトンヌラたちを別室へ通した。


 窓の外には、月が降り始めている。


 彼は椅子へ座ることもなく、立ったまま言った。


「聞かせてほしい。何があったのかを」


 トンヌラは答えない。

 こういう説明は、自分よりクラウスの方が向いている。


 クラウスは、その視線を受けて小さく頷いた。


「今回の件は、偶然ではありません。少なくとも、ただの災害でも、単なる病でもない」


 アルディウスの目が細くなる。


 クラウスは淡々と続けた。


「この世界には、“均衡”を守るために調整を行う側がいます」

「人の生死も、街の盛衰も、役割の流れすら、帳尻の一部として扱う側です」


 コムギが少しだけ顔をしかめる。

 言葉にすると、なおさら嫌な話だった。


「エリシアさんの件も」

 クラウスは低く言う。

「世界の返却に近い」

アルディウスは頷きもせず、黙って聴いている。

「どこかで余剰が出れば、どこかが削られる。そういう理屈の中で、切り捨てられた可能性が高いです」


 アルディウスはすぐには言葉を返さなかった。


 彼は賢い。

 だからこそ、理解できてしまう。

 理解できてしまうからこそ、簡単には怒鳴れない。


 だが、やがて静かに問う。


「……それが、世界の理屈だと?」


「はい」

 クラウスは答えた。

「少なくとも、そう信じて動いている者たちがいます」


 長い沈黙のあと、アルディウスは窓の外を見た。


「ふざけた理屈だ」


 それは怒鳴りではなかった。

 だが、静かな怒りとしては十分だった。


「返却、帳尻、均衡」

「そんな言葉で、人の命を数えられてたまるか」


 トンヌラは、その横顔を見た。


 この男は、ただの為政者ではない。

 ちゃんと、人の側に立てる。


 アルディウスは振り返る。


「もしその理屈が本当にあるなら」

「私は見過ごせない」


 短い言葉だった。

 だが、それで十分だった。



 夜は深くなっていた。


 宿の部屋へ戻ると、仲間たちはそれぞれ疲れを隠せなかった。


 コムギは椅子へ座ったまま舟をこぎ、

 フィーはぽめを撫でながら目を閉じている。

 ミラもギターケースにもたれて、珍しく静かだった。


 トンヌラだけが、眠れなかった。


 部屋を抜けて、宿の小さなバルコニーへ出る。


 夜気は冷たい。

 街の灯りの向こうに、山が見える。


 あの山だ。


 観測の里。

 拒絶。

 谷底の葡萄棚。

 半分だけ届いた勝利。


 そして、自分の未熟さ。


 足元で、ぽめが丸くなって寝ていた。


「……ついてきたのか」

「……すぴ」


 答える気はないらしい。


 トンヌラは手すりへ寄りかかり、山を見たまま言う。


「今の俺は、結局何もできていない」


 後ろで、扉が静かに開いた。


 クラウスだった。


「半分は届きました」

 淡々と言う。

「結果として、エリシアさんは繋がった」

「それを“何もできていない”とは言いません」


 トンヌラは鼻で笑う。


「仲間がいたからだ」

「ガルドが立った。コムギが支えた。フィーが届かせた。ミラが奪った。お前が繋いだ」

「俺は、結局ひとりじゃ何もできん」


 クラウスはしばらく黙っていた。


 その沈黙が、否定しない沈黙だとすぐに分かる。


「ええ」

 やがて言った。

「今のあなたは、まだそうです」


 トンヌラは振り向く。


「はっきり言うな」

「必要だからです」


 クラウスは夜の山を見る。


「ただ、それを認めたのは前進です」

「以前のあなたなら、厨二病的自信でごまかしていた」

「今は、ごまかしていない」


 トンヌラは少しだけ目を細めた。


 反論できない。


「だから」

 クラウスは続ける。

「これからどうするか、でしょう」


 風が吹く。


 山は遠い。

 だが、見ているだけで呼ばれている気がする。


 トンヌラはしばらく黙っていた。

 それから、ようやく口を開く。


「……もう一度、山へ籠もる」


 ぽめが、小さく耳を動かした。


「今度は逃げるためじゃない。越えるために、籠もる」


 クラウスは驚かなかった。

 むしろ、その答えをどこかで予想していたように静かだった。


「それが、あなたの選択なら……誰も止めません」


 トンヌラは小さく笑う。


「冷たいな」

「信頼です」

「便利な言葉だ」

「ええ。ただし」


 短い沈黙のあと、クラウスは付け足した。

「戻ってきてください。次は、あなたが越えたものを持って」


 その言い方に、トンヌラは少しだけ口元を緩めた。


「偉そうだな」

「たまには」

「いつもだろう」

「それはそうかもしれません」



 トンヌラはもう一度、山を見た。


 答えはない。

 だが、行く理由はあった。


 半分だけ届いた。

 けれど足りなかった。


 その足りなさを、今度は自分で埋めにいく。


 足元で、ぽめがむくりと起き上がる。


「……くぁ」


「お前も来る気か」

 トンヌラが聞く。

 ぽめは答えず、ただ当然のようにトンヌラの足へ寄った。


 それだけで十分だった。


 ここはレイアノーティア。

 届いたものは、消えない。


 足りなかったものも、消えない。


 だから人は、もう一度山へ向かう。

 半分だけ届いた夜の、その先へ。



 第64話 了


第6章 完

五戒の魔王について


この物語の魔王は、いわゆる「悪の親玉」ではありません。


世界というプログラムを直すための装置です。


人の感情や役割、街の流れや可能性が、想定より大きく動きすぎた時。

世界のバランスが崩れた時。

その“ずれ”を修正するために現れます。


だから魔王たちは、ただ暴れるのではなく、

人や社会の「うまく行きすぎた部分」に触れてきます。



《不協の魔王ディソナンス》


ディソナンスは、人々の営みのリズムを崩す魔王です。


呼吸。

会話。

連携。

音楽。

戦場の流れ。


そういった“噛み合っているもの”を少しずつずらし、うまく行きすぎる流れを平らにならします。


簡単に言えば、盛り上がりすぎた場を崩して均す魔王です。



《災禍の魔王ディザスター》


ディザスターは、うまく行きすぎた帳尻を合わせるために、バランスを取る魔王です。


誰かが守りすぎる。

誰かが支えすぎる。

一つの場所だけが安定しすぎる。


そういう偏りが生まれた時に、災害や重圧という形で“世界はそんなに甘くない”と押し返してきます。


ディザスターは、安全や安定が一方に寄りすぎた時に、それを崩して均衡へ戻す装置です。


ガルドのように「受け止める」側にいる者へ、特に強くぶつかるのもそのためです。



《拒絶の魔王ディクライン》


ディクラインは、意味そのものを無かったことにする魔王です。


壊すわけではありません。

奪うわけでもありません。


努力したこと。

守ったこと。

支えたこと。

選び直したこと。


そういった“意味のある出来事”を、最初から無かった方へ戻そうとする存在です。


これは世界のプログラムから見ると、

危険な誤差を消して整える作業に近いです。


ディクラインは、個人の痛みや成長が、大きな意味を持ちすぎた時にそれを削る装置です。



・ディソナンスは、噛み合いすぎた流れを崩す

・ディザスターは、うまく行きすぎた帳尻を合わせる

・ディクラインは、意味を持ちすぎた出来事を無かったことにする


そういう役割になります。


どの魔王も共通しているのは、世界というプログラムを直すための修正装置だということです。


人から見れば災厄ですが、世界の側から見れば、むしろ“正常に戻そうとしている”存在でもあります。


だからこの物語の魔王は、単純な悪ではありません。

世界の正しさそのものが、敵として現れた姿でもあります。

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