第60話 谷底の葡萄棚
ここはレイアノーティア。
山は、急かさない。
だが、待ってもくれない。
人が迷おうと、覚悟を決めきれなかろうと、
救うべきものがあるなら、時間だけは先へ進む。
だから結局、人は整いきる前に歩き出す。
間に合うかどうかも分からないまま。
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リリカの気配が薄れていったあと、一行はようやく山道へ戻った。
風は冷たい。
だが、さっきまでとは違った。
観測の里の静けさでも、張りつめた無音でもない。もっと現実的な冷たさだった。
風は冷たい。
だが、さっきまでとは違う。
観測の里の静けさでもない。
拒絶が現れる直前の、張りつめた無音でもない。もっと現実的な冷たさだった。
コムギが背負い袋の紐を握り直す。
「……なんか、今のうちに普通の山に戻ってほしいです」
「戻ってるだろ」
「気持ちの話です!」
「難しい要求だな」
ミラが肩をすくめる。
「ほんと難しいわ」
「今日は求めさせてください!」
「今日はっていうか、いつも求めてるでしょ」
「はい!」
フィーは何も言わずに、谷の奥を見ていた。
「……匂いが変わりました」
「匂い?」
コムギが聞く。
「甘いです」
風に乗って、果実の匂いが混じってきた。
ガルドが顔を上げる。
「近いんですね」
「たぶん」
フィーが頷く。
「生きています。まだ」
その“まだ”に、全員が少しだけ黙った。
⸻
道は細くなっていった。
右は岩壁。左は切れ落ちた斜面。
踏み外せば谷へ落ちるほどではないが、気を抜けば膝くらいは簡単に持っていかれるくらいの幅だ。
先頭を歩くガルドの背が、少し疲れているように見えた。
トンヌラが後ろから聞く。
「動けるか」
「はい」
ガルドは短く答える。
「少し重いですが」
「少しで済んでるなら上出来です!」
コムギがすぐ言った。
「本日はかなり働いてますから!」
ミラが笑う。
「まあ、そうだね。さっきはほんと助かった」
ガルドは少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます」
その声には、前よりわずかにだけ実感があった。
自分が立ったこと。
通したくないものを通さなかったこと。
それが誰かの口から返ってくる重さが、まだ少しだけ新しい。
⸻
クラウスは歩きながら、谷の奥を見ていた。
因果の縫い目は、今のところ大きく乱れていない。
だが、綺麗すぎる。
自然の山道なら、石が少し転がるとか、風がどこかで巻くとか、獣が一瞬だけ息を潜めるとか。そんな何でもないことが起きるはずだ。
しかし今は違う。
(……整いすぎている)
調整の痕跡とも違う。
観測の静けさとも違う。
もっと無機質で、冷たい空白だ。
トンヌラが、振り返らずに言った。
「なにか見えるか?」
「見えているというより」
クラウスは少し考えてから答える。
「静かすぎる」
コムギが振り向く。
「ひぇ!今それ一番聞きたくないです」
「僕も好きではありません」
フィーだけが、冗談に乗らなかった。
「……でも、クラウスさんの言う通り静かすぎます」
その言葉に、場の空気が少しだけ締まる。
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しばらく下ると、谷がひらけた。
斜面に沿って、段々に棚が連なっている。
山の光を受けた果実の色が、淡く紫を返していた。
葡萄棚だ。
大きくはない。
だが、確かにそこにあった。
コムギが息を呑む。
「……あった」
「生きています」
フィーの声も少しだけ和らぐ。
「まだ大丈夫です」
「よかった……」
コムギは本当に、肩から力を抜いた。
ガルドもわずかに息を吐く。
「間に合いましたか」
「たぶん、ギリギリ」
ミラが言う。
「今日ずっとそれ言ってる気がするけど」
トンヌラは棚を見つめたまま、黙っていた。
エリシアの顔が浮かぶ。
あの薄い目。
かろうじて繋がっている呼吸。
これを持って戻れば、少なくとも何かは変わるかもしれない。
全部ではない。
救済でもない。
でも、届く可能性はある。
それだけで、ここまで来る理由には十分だった。
⸻
その瞬間だった。
風が消えた。
いや、止んだのではない。
“吹いていたこと”が、少し遅れて無かったことになるような、ズレた違和感。
フィーが顔を上げる。
「……っ」
葡萄の実が、一斉にしぼんだ。
コムギの声が裏返る。
「え?」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「まだ触ってもいないのに!?」
色が抜ける。
艶が消える。
さっきまで確かにそこにあったみずみずしさが、目の前で削がれていく。
ミラが舌打ちした。
「最悪」
「来ましたね」
クラウスが低く言う。
「今度は、はっきりと」
棚の中央に、黒い滲みが生まれ、空気が歪んだ。
油膜のような黒。
地に足をつけたまま、ほとんど動かない四肢。
呼吸がない。
鼓動もない。
フィーの声が低くなる。
「命の流れが……消えるんじゃない」
「消えてない」
クラウスが答える。
「元々なかった方へ押し戻される」
黒い魔王が、ゆっくりと顔を上げた。
「テイギ……キョヒ」
片言だった。
低く、途切れ途切れで。
なのにその意味だけは妙にはっきり届く。
トンヌラの背筋を冷たいものが走る。
(来たか)
ガルドが一歩前に出る。
赤が、ごく小さく脈打つ。
魔王は続けた。
「オマエ……テイギ……スル」
トンヌラを見る。
そして、告げる。
「ナラ……ナカッタ……コト……ニ」
空間が、わずかに歪んだ。
棚の一角が崩れる。
いや、崩れたのではない。
最初から枯れていたかのように、萎んでいく。
コムギが叫ぶ。
「だめです!」
「これ以上なくなったら!」
「わかってる」
ミラが言う。
「でも、どう止める」
遠くの岩陰に、赤い外套が見えた。
リリカだ。
腰に手を当て、こちらを見ている。
干渉はしない。
ただ、観測している。
「ほんとに出るんだ」
小さく呟く声が、風の代わりに届いた。
トンヌラは、その黒を見たまま腕を組んだ。
(なるほどな)
(俺の定義に、世界が返してきたってわけか)
足は少し震えている。
怖くないわけではない。
むしろかなり怖い。
だが、引く理由にはならない。
葡萄は目の前にあって、エリシアが待っている。
そして、目の前のこれは、間違いなく“今”越えなければならないものだった。
「いいだろう」
一歩、前へ出る。
ガルドの背中の向こうへ。
魔王をまっすぐ見て、言う。
「なら、定義してやる」
ここはレイアノーティア。
理解は、ついに形へ触れた。
そして今、
“無かったこと”にしようとする力が、
初めて一行の前へ、はっきりと姿を持って現れた。
⸻
第60話 了




