表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第6章 観測の外へ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
60/115

第60話 谷底の葡萄棚

 ここはレイアノーティア。

 山は、急かさない。


 だが、待ってもくれない。


 人が迷おうと、覚悟を決めきれなかろうと、

 救うべきものがあるなら、時間だけは先へ進む。


 だから結局、人は整いきる前に歩き出す。

 間に合うかどうかも分からないまま。



 リリカの気配が薄れていったあと、一行はようやく山道へ戻った。


 風は冷たい。

 だが、さっきまでとは違った。


 観測の里の静けさでも、張りつめた無音でもない。もっと現実的な冷たさだった。


 風は冷たい。

 だが、さっきまでとは違う。


 観測の里の静けさでもない。

 拒絶が現れる直前の、張りつめた無音でもない。もっと現実的な冷たさだった。


 コムギが背負い袋の紐を握り直す。


「……なんか、今のうちに普通の山に戻ってほしいです」

「戻ってるだろ」

「気持ちの話です!」

「難しい要求だな」


 ミラが肩をすくめる。

「ほんと難しいわ」

「今日は求めさせてください!」

「今日はっていうか、いつも求めてるでしょ」

「はい!」


 フィーは何も言わずに、谷の奥を見ていた。


「……匂いが変わりました」

「匂い?」

 コムギが聞く。

「甘いです」


風に乗って、果実の匂いが混じってきた。


 ガルドが顔を上げる。


「近いんですね」

「たぶん」

 フィーが頷く。

「生きています。まだ」


 その“まだ”に、全員が少しだけ黙った。



 道は細くなっていった。


 右は岩壁。左は切れ落ちた斜面。

 踏み外せば谷へ落ちるほどではないが、気を抜けば膝くらいは簡単に持っていかれるくらいの幅だ。


 先頭を歩くガルドの背が、少し疲れているように見えた。


 トンヌラが後ろから聞く。


「動けるか」

「はい」

 ガルドは短く答える。

「少し重いですが」

「少しで済んでるなら上出来です!」

 コムギがすぐ言った。

「本日はかなり働いてますから!」

 ミラが笑う。

「まあ、そうだね。さっきはほんと助かった」


 ガルドは少しだけ目を伏せた。


「……ありがとうございます」


 その声には、前よりわずかにだけ実感があった。

 自分が立ったこと。

 通したくないものを通さなかったこと。

 それが誰かの口から返ってくる重さが、まだ少しだけ新しい。



 クラウスは歩きながら、谷の奥を見ていた。


 因果の縫い目は、今のところ大きく乱れていない。

 だが、綺麗すぎる。


 自然の山道なら、石が少し転がるとか、風がどこかで巻くとか、獣が一瞬だけ息を潜めるとか。そんな何でもないことが起きるはずだ。


 しかし今は違う。


(……整いすぎている)


 調整の痕跡とも違う。

 観測の静けさとも違う。


 もっと無機質で、冷たい空白だ。


 トンヌラが、振り返らずに言った。


「なにか見えるか?」

「見えているというより」

 クラウスは少し考えてから答える。

「静かすぎる」

コムギが振り向く。

「ひぇ!今それ一番聞きたくないです」

「僕も好きではありません」


 フィーだけが、冗談に乗らなかった。


「……でも、クラウスさんの言う通り静かすぎます」


 その言葉に、場の空気が少しだけ締まる。



 しばらく下ると、谷がひらけた。


 斜面に沿って、段々に棚が連なっている。

 山の光を受けた果実の色が、淡く紫を返していた。


 葡萄棚だ。


 大きくはない。

 だが、確かにそこにあった。


 コムギが息を呑む。


「……あった」

「生きています」

 フィーの声も少しだけ和らぐ。

「まだ大丈夫です」

「よかった……」

 コムギは本当に、肩から力を抜いた。


 ガルドもわずかに息を吐く。


「間に合いましたか」

「たぶん、ギリギリ」

 ミラが言う。

「今日ずっとそれ言ってる気がするけど」


 トンヌラは棚を見つめたまま、黙っていた。


 エリシアの顔が浮かぶ。

 あの薄い目。

 かろうじて繋がっている呼吸。


 これを持って戻れば、少なくとも何かは変わるかもしれない。

 全部ではない。

 救済でもない。

 でも、届く可能性はある。


 それだけで、ここまで来る理由には十分だった。



 その瞬間だった。


 風が消えた。


 いや、止んだのではない。

 “吹いていたこと”が、少し遅れて無かったことになるような、ズレた違和感。


 フィーが顔を上げる。


「……っ」


 葡萄の実が、一斉にしぼんだ。


 コムギの声が裏返る。


「え?」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

「まだ触ってもいないのに!?」


 色が抜ける。

 艶が消える。

 さっきまで確かにそこにあったみずみずしさが、目の前で削がれていく。


 ミラが舌打ちした。


「最悪」

「来ましたね」

 クラウスが低く言う。

「今度は、はっきりと」


 棚の中央に、黒い滲みが生まれ、空気が歪んだ。


 油膜のような黒。

 地に足をつけたまま、ほとんど動かない四肢。

 呼吸がない。

 鼓動もない。


 フィーの声が低くなる。


「命の流れが……消えるんじゃない」

「消えてない」

 クラウスが答える。

「元々なかった方へ押し戻される」


 黒い魔王が、ゆっくりと顔を上げた。


「テイギ……キョヒ」


 片言だった。

 低く、途切れ途切れで。

 なのにその意味だけは妙にはっきり届く。


 トンヌラの背筋を冷たいものが走る。


(来たか)


 ガルドが一歩前に出る。

 赤が、ごく小さく脈打つ。


 魔王は続けた。


「オマエ……テイギ……スル」


 トンヌラを見る。


 そして、告げる。


「ナラ……ナカッタ……コト……ニ」


 空間が、わずかに歪んだ。


 棚の一角が崩れる。

 いや、崩れたのではない。


 最初から枯れていたかのように、萎んでいく。


 コムギが叫ぶ。


「だめです!」

「これ以上なくなったら!」

「わかってる」

 ミラが言う。

「でも、どう止める」


 遠くの岩陰に、赤い外套が見えた。


 リリカだ。


 腰に手を当て、こちらを見ている。

 干渉はしない。

 ただ、観測している。


「ほんとに出るんだ」

 小さく呟く声が、風の代わりに届いた。


 トンヌラは、その黒を見たまま腕を組んだ。


(なるほどな)


(俺の定義に、世界が返してきたってわけか)


 足は少し震えている。

 怖くないわけではない。

 むしろかなり怖い。


 だが、引く理由にはならない。


 葡萄は目の前にあって、エリシアが待っている。

 そして、目の前のこれは、間違いなく“今”越えなければならないものだった。


「いいだろう」


 一歩、前へ出る。


 ガルドの背中の向こうへ。

 魔王をまっすぐ見て、言う。


「なら、定義してやる」


 ここはレイアノーティア。

 理解は、ついに形へ触れた。


 そして今、

 “無かったこと”にしようとする力が、

 初めて一行の前へ、はっきりと姿を持って現れた。



 第60話 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ