第59話 知らないまま進む
ここはレイアノーティア。
答えは、いつも遅れてくる。
何を見たのか。
何に怯え、何を選びかけたのか。
人はその場では、ほとんど分からない。
ただ――
一度形になったものは、もう無かったことにはならない。
だから進むしかない時がある。
知らないまま。
怖いまま。
それでも、足を止めないために。
⸻
黒い拒絶が消えたあとも、一行はしばらく動けなかった。
風は戻っている。
谷の匂いも、岩肌の冷たさも、さっきまでと変わらない。
なのに、この場だけが少し別物になった気がした。
コムギがようやく声を出す。
「……今の、何なんですか」
「嫌なやつだ」
トンヌラが即答する。
「雑すぎます!」
「でも、間違ってはいません」
クラウスが低く補足した。
「構造の側からの返答です」
「返答って」
ミラが顔をしかめる。
「思想に対して、あんなの返してくるの?」
「返してきましたね」
フィーが静かに言った。
「正しい形に押し戻そうとする圧でした」
「最低」
「はい」
フィーも珍しく即答した。
ガルドは岩に片手をつき、呼吸を整えている。
赤い因果は消えていない。
むしろ、さっきより静かに沈んでいた。
「……立てました」
もう一度、確認するように言う。
「立ったよ」
ミラが先に答えた。
「ちゃんと止めた」
「かなり止めました!」
コムギもすぐに続く。
「今日はかなり偉いです!」
「いつも偉いんじゃないのか」
トンヌラが言う。
「今日は特別です!」
ガルドは小さく笑った。
弱い笑みだった。
だが、折れた者の顔ではなかった。
⸻
クラウスは黒が消えた場所を見たまま、静かに言った。
「相性が悪いですね」
「何とだ」
トンヌラが聞く。
「ガルドさんと、あれです」
クラウスは答える。
「ガルドさんは、受けたものを返す。けれど、あれは攻撃というより、前へ出た事実そのものを戻そうとする」
「返す相手が、はっきりしないということですか」
フィーが言う。
「はい」
クラウスは頷いた。
「だから、制御できなければ飲まれます」
ガルドは黙って聞いていた。
怒りはない。
悔しさも、今は押し殺している。
ただ、自分の手を見ていた。
「……まだ、足りません」
「足りなかったら、足せばいいです!」
コムギがすぐに言った。
「ご飯と一緒です!」
「全部それでいけるの?」
ミラが呆れたように言う。
「だいたいいけます!」
「ほんと?」
「たぶん!」
少しだけ空気が緩む。
その緩みが、逆に全員の疲れを浮かび上がらせた。
トンヌラは谷の奥を見た。
葡萄はまだ、この先にある。
エリシアを待たせている。
だが、今ので終わりではないことも、もう全員わかっている。
(次が来る)
その予感は、消えない。
⸻
不意に、老人の声が脳裏に蘇る。
――理解せぬまま先へ進めば、いずれ同じ問いで止まる。
――お前は、抗えるか。
あの時は、まだわかっていなかった。
観測。
調整。
均衡。
ネームド。
ネームレス。
言葉だけは聞いた。
だが、本当の重さまでは届いていなかった。
今は違う。
返ってきた。
世界の構造が。
前へ出ようとする意志そのものを押し戻す形で。
抗えるか。
その問いが、今ようやく重みを持つ。
トンヌラは小さく息を吐いた。
「……知らん」
コムギが目を瞬く。
「え?」
「まだ知らん」
トンヌラは谷の奥を見た。
「何が正しいかも、どこまで行けるかも、あれが何だったのかも、まだ知らん」
誰も口を挟まなかった。
トンヌラの声は、強くない。
だが、逃げてもいなかった。
「でも行く」
「やってみなきゃわからん」
ガルドが静かに顔を上げる。
「はい」
短く、それだけ答える。
フィーがぽめを抱き寄せた。
「怖いですけど、私たちにはやることがあります」
その声は細いが、揺れてはいない。
コムギもリュックの紐を握り直す。
「私もです」
「怖いですけど、行かないと後悔すると思うので」
ミラがギターの縁を軽く叩く。
「正しいかどうかで決めてたら、たぶんここまで来てないしね」
クラウスは、ようやく視線を谷の奥へ向けた。
「理解は足りません」
「でも、選ぶことはできます」
その言葉に、トンヌラは小さく頷いた。
⸻
その時だった。
少し離れた岩場から、軽い声が落ちてきた。
「ほんと、知らないまま進むんだ」
一同の視線が走る。
岩の上に立っていたのは、赤い外套の少女だった。
長い髪。
軽い足取り。
場違いなくらい明るい顔。
だが、その立ち位置だけが明らかにおかしい。
ここへ来るまでの気配が、まるでなかった。
ミラが眉をひそめる。
「……誰?」
「調整側です」
クラウスが即答した。
その声だけが、わずかに硬い。
少女――リリカは、ひらひらと片手を振る。
「久しぶり、クラウス」
口調は軽い。
だが、その一言だけで空気が変わった。
コムギが目を丸くする。
「知り合い!?」
「元、です」
クラウスは短く答える。
リリカは岩からひらりと飛び降りた。
「ひどいなあ。再会なんだから、もうちょっとこう……感動とかないの?」
「ありません」
「だと思った」
リリカはあっさり笑う。
軽い。
軽いのに、気味が悪い。
フィーが小さく言う。
「……この人、息が静かすぎる」
ミラが顔をしかめる。
「明るいのに、全然気が抜けない」
「私このタイプ苦手です」
コムギが半歩下がった。
トンヌラは腕を組んだまま言う。
「観光か?」
リリカがきょとんとする。
「なにそれ」
「団長さん、そういう時だけ変な貫禄出すのやめてください」
コムギが即座に言う。
「団長ではない」
「今そこじゃないです!」
リリカは少しだけ笑い、あらためてトンヌラを見る。
「あなたたち、ほんと面倒なことするよね」
「お前たちにとって、だろう」
「そうとも言う」
リリカは肩をすくめた。
⸻
クラウスの視線は冷えたままだった。
「何をした」
「見に来ただけ」
リリカはあっさり答える。
「あと、ほんとにそっちにいるんだって確認」
「見れば分かるでしょう」
「いや、分かるけどさ」
リリカは頬を掻きながらクラウスを見つめる。
「戻る気、ないんだ」
その言い方だけ、少し人間っぽかった。
クラウスは表情を変えない。
「ありません」
「そっか」
リリカは短く息を吐く。
だが、その軽さはすぐ戻った。
「長官が調整を入れたの」
その一言で空気が締まる。
ミラが顔をしかめる。
「やっぱりあんたらが呼んだんじゃん」
「“呼んだ”はちょっと違うかな」
リリカは指を立てる。
「傾けた、が近い」
「同じじゃないんですか?」
コムギが素で言う。
クラウスが低く言う。
「山はネームドの領域だ」
「そう。だから直接は触れない」
リリカは軽く頷く。
「外縁だけ。風向きを少し変えたくらい」
「拒絶が生まれやすいだけの舞台を整えた、ということですか」
「言い方が怖いなあ」
リリカは笑った。
「でも、まあ、そういうこと」
フィーが唇を結ぶ。
「そんなことが……」
「できます」
クラウスが低く言う。
「調整者は、そういう連中です」
リリカは、その言い方に少しだけ目を伏せた。
ほんの一瞬だけだ。
だがすぐに顔を上げる。
「結果的に、均衡が応答しただけだよ」
「ネームレスが定義しようとした」
「なら世界も拒絶で応じる」
トンヌラは鼻で笑った。
「都合のいい話だな」
「世界ってだいたいそうじゃない?」
「そこだけ妙に本音っぽいな」
ミラが吐き捨てる。
⸻
リリカは黒が消えた場所へ目を向けた。
「さっきの拒絶は、まだ形が浅い」
「浅いって何ですか!?」
コムギが叫ぶ。
「怖いことをさらっと言わないでください!」
「うん。怖いと思う」
リリカは否定しなかった。
「次は、もうちょっとちゃんと来る」
フィーが唇を結ぶ。
「ちゃんと……」
「あなたたちが何を拒んだのか」
「何を選びたいのか」
「そこに合わせて、形を取り直す」
ミラが低く吐き捨てた。
「こっちの迷いを読んでくるってこと?」
「近い」
リリカは言う。
「正しさから外れた者を、正しさへ戻すための形」
「それが拒絶」
「そう」
ガルドが拳を握る。
「なら、また立ちます」
「立てるといいね」
リリカは軽く返す。
「軽いな」
ミラが睨む。
「軽く言わないと、重すぎるでしょ」
「それ、優しさのつもり?」
「さあ」
リリカは笑った。
「どっちだと思う?」
誰も答えなかった。
⸻
ぽめが、フィーの腕の中で丸くなっている。
白い毛玉。
眠そうな顔。
さっきまでの異常な空気の中で、ひとりだけ何も変わっていない。
リリカの視線が、ぽめへ向いた。
「……やっぱり可愛い」
ぽつりと漏らす。
コムギが反応する。
「そこなんですか!?」
「いや、可愛いは正義でしょ」
「意見が一致しました!」
コムギが慌てる。
クラウスが一段低い声で言った。
「近づくな」
リリカが目を瞬かせる。
「そんな怖い顔しなくても」
「怖がっているのは俺じゃない」
「じゃあ誰」
「たぶん、お前たちの方だ」
その返しに、リリカの笑みが一瞬だけ薄くなった。
ぽめは、フィーの腕の中で丸まったままだった。
「……すぴ」
相変わらず緊張感がない。
リリカはその白い塊から視線を離せなかった。
「……ほんと、なんなのあれ」
「知りません」
クラウスが言う。
「知りませんで済ませていいやつ?」
「済んでいないから、皆困ってるんです」
「それはそうか」
リリカはぽめを見たまま、声を少しだけ落とした。
「気をつけて」
「ぽめにですか?」
フィーが問う。
「ぽめを、かな」
リリカは曖昧に答える。
「たぶん、あなたたちが思ってるより、そこにいる意味が重い」
クラウスの目が細くなる。
「知っているのか」
「知らない」
リリカは言った。
「でも、怖がってる人はいる」
「誰が」
「こっち側の人たち」
沈黙が落ちた。
ぽめは目を開けない。
何も答えない。
何も背負わない。
なのに妙に、この場のどこにも属していない感じだけが濃い。
トンヌラはぽめを見て、少しだけ眉を寄せた。
(守る対象、増えてないか?)
その考えは、今は冗談にしきれなかった。
⸻
リリカは最後に谷の奥を見た。
「じゃあ、私は戻る」
「止める気はないのか」
トンヌラが聞いた。
しばらく返事がなかった。
やがて、リリカは言った。
「ないよ」
「私は境界の内側には入れない」
「それに、入ったら私も壊れるかもしれない」
その言葉だけ、軽くなかった。
ミラが眉を寄せる。
「怖いんじゃん」
「怖いよ」
リリカはあっさり答えた。
「怖いから、見てる」
クラウスが低く言う。
「昔からそうでしたね」
「そうだね」
リリカは否定しなかった。
「でも、見てるだけでも分かることはある」
クラウスは何も返さない。
リリカの気配が薄くなる。
「次は、さっきみたいにはいかないと思う」
「最悪」
ミラが言う。
「最低です」
フィーも続く。
「ひえー……」
コムギは素直に青ざめた。
リリカは少し笑った。
「うん、そういう顔するよね」
「でも、そういうの嫌いじゃない」
空気がわずかに歪む。
「じゃあね」
「ネームレス」
「それと、クラウス」
クラウスは顔を上げない。
「ほんとにそっちで行くんだね」
「行きます」
「そっか」
それきり、声は消えた。
今度こそ、気配も残らなかった。
⸻
風が、また少しだけ変わる。
今度は完全な静止ではない。
だが、山の奥に何かが控えているとわかる変化だった。
クラウスが低く言う。
「次は、さっきのようにはいかないでしょうね」
「断言!」
コムギが半泣きで言う。
「でも、たぶんそう」
ミラが続ける。
フィーがぽめを抱き直した。
「届くかもしれないなら、後悔はしたくない」
珍しく、強い声だった。
トンヌラは一歩、前へ出た。
(抗う……か)
答えは、まだない。
あるのは、行くか止まるかだけだ。
「行くぞ」
その一言で、全員の意識が寄った。
ガルドが隣に立つ。
コムギがリュックを背負い直す。
フィーがぽめを抱く。
ミラがギターを背に戻す。
クラウスが記録帳を閉じる。
誰も、万全ではない。
誰も、完全には理解していない。
それでも足は、谷の奥へ向いた。
ぽめが、ひとつあくびをした。
「……ふぁ」
その緊張感のなさだけが、逆に不気味だった。
⸻
ここはレイアノーティア。
観測者は手を出さない。
調整者は境界の外から均衡を傾ける。
そして選択は、必ず何かを呼ぶ。
トンヌラはまだ答えを持たない。
だが、答えを持たぬまま進むことだけは選んだ。
その先にあるものが何であれ、
もう“知らなかった頃”には戻れない。
⸻
第59話 了




