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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第6章 観測の外へ

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第59話 知らないまま進む

 ここはレイアノーティア。

 答えは、いつも遅れてくる。


 何を見たのか。

 何に怯え、何を選びかけたのか。

 人はその場では、ほとんど分からない。


 ただ――

 一度形になったものは、もう無かったことにはならない。


 だから進むしかない時がある。

 知らないまま。

 怖いまま。

 それでも、足を止めないために。



 黒い拒絶が消えたあとも、一行はしばらく動けなかった。


 風は戻っている。

 谷の匂いも、岩肌の冷たさも、さっきまでと変わらない。


 なのに、この場だけが少し別物になった気がした。


 コムギがようやく声を出す。


「……今の、何なんですか」


「嫌なやつだ」

 トンヌラが即答する。


「雑すぎます!」


「でも、間違ってはいません」


 クラウスが低く補足した。


「構造の側からの返答です」


「返答って」

 ミラが顔をしかめる。

「思想に対して、あんなの返してくるの?」


「返してきましたね」

 フィーが静かに言った。

「正しい形に押し戻そうとする圧でした」


「最低」


「はい」

 フィーも珍しく即答した。


 ガルドは岩に片手をつき、呼吸を整えている。


 赤い因果は消えていない。

 むしろ、さっきより静かに沈んでいた。


「……立てました」


 もう一度、確認するように言う。


「立ったよ」

 ミラが先に答えた。

「ちゃんと止めた」


「かなり止めました!」

 コムギもすぐに続く。

「今日はかなり偉いです!」


「いつも偉いんじゃないのか」

 トンヌラが言う。


「今日は特別です!」


 ガルドは小さく笑った。


 弱い笑みだった。

 だが、折れた者の顔ではなかった。



 クラウスは黒が消えた場所を見たまま、静かに言った。


「相性が悪いですね」


「何とだ」

 トンヌラが聞く。


「ガルドさんと、あれです」

 クラウスは答える。

「ガルドさんは、受けたものを返す。けれど、あれは攻撃というより、前へ出た事実そのものを戻そうとする」


「返す相手が、はっきりしないということですか」

 フィーが言う。


「はい」

 クラウスは頷いた。

「だから、制御できなければ飲まれます」


 ガルドは黙って聞いていた。


 怒りはない。

 悔しさも、今は押し殺している。


 ただ、自分の手を見ていた。


「……まだ、足りません」


「足りなかったら、足せばいいです!」

 コムギがすぐに言った。

「ご飯と一緒です!」


「全部それでいけるの?」

 ミラが呆れたように言う。


「だいたいいけます!」


「ほんと?」


「たぶん!」


 少しだけ空気が緩む。


 その緩みが、逆に全員の疲れを浮かび上がらせた。


 トンヌラは谷の奥を見た。


 葡萄はまだ、この先にある。

 エリシアを待たせている。

 だが、今ので終わりではないことも、もう全員わかっている。


(次が来る)


 その予感は、消えない。



 不意に、老人の声が脳裏に蘇る。


 ――理解せぬまま先へ進めば、いずれ同じ問いで止まる。


 ――お前は、抗えるか。


 あの時は、まだわかっていなかった。


 観測。

 調整。

 均衡。

 ネームド。

 ネームレス。


 言葉だけは聞いた。

 だが、本当の重さまでは届いていなかった。


 今は違う。


 返ってきた。

 世界の構造が。


 前へ出ようとする意志そのものを押し戻す形で。


 抗えるか。


 その問いが、今ようやく重みを持つ。


 トンヌラは小さく息を吐いた。


「……知らん」


 コムギが目を瞬く。


「え?」


「まだ知らん」

 トンヌラは谷の奥を見た。

「何が正しいかも、どこまで行けるかも、あれが何だったのかも、まだ知らん」


 誰も口を挟まなかった。


 トンヌラの声は、強くない。

 だが、逃げてもいなかった。


「でも行く」

「やってみなきゃわからん」


 ガルドが静かに顔を上げる。


「はい」


 短く、それだけ答える。


 フィーがぽめを抱き寄せた。


「怖いですけど、私たちにはやることがあります」


 その声は細いが、揺れてはいない。


 コムギもリュックの紐を握り直す。


「私もです」

「怖いですけど、行かないと後悔すると思うので」


 ミラがギターの縁を軽く叩く。


「正しいかどうかで決めてたら、たぶんここまで来てないしね」


 クラウスは、ようやく視線を谷の奥へ向けた。


「理解は足りません」

「でも、選ぶことはできます」


 その言葉に、トンヌラは小さく頷いた。



 その時だった。


 少し離れた岩場から、軽い声が落ちてきた。


「ほんと、知らないまま進むんだ」


 一同の視線が走る。


 岩の上に立っていたのは、赤い外套の少女だった。


 長い髪。

 軽い足取り。

 場違いなくらい明るい顔。


 だが、その立ち位置だけが明らかにおかしい。

 ここへ来るまでの気配が、まるでなかった。


 ミラが眉をひそめる。


「……誰?」


「調整側です」

 クラウスが即答した。


 その声だけが、わずかに硬い。


 少女――リリカは、ひらひらと片手を振る。


「久しぶり、クラウス」


 口調は軽い。

 だが、その一言だけで空気が変わった。


 コムギが目を丸くする。


「知り合い!?」


「元、です」

 クラウスは短く答える。


 リリカは岩からひらりと飛び降りた。


「ひどいなあ。再会なんだから、もうちょっとこう……感動とかないの?」


「ありません」


「だと思った」


 リリカはあっさり笑う。


 軽い。

 軽いのに、気味が悪い。


 フィーが小さく言う。


「……この人、息が静かすぎる」


 ミラが顔をしかめる。


「明るいのに、全然気が抜けない」


「私このタイプ苦手です」

 コムギが半歩下がった。


 トンヌラは腕を組んだまま言う。


「観光か?」


 リリカがきょとんとする。


「なにそれ」


「団長さん、そういう時だけ変な貫禄出すのやめてください」

 コムギが即座に言う。


「団長ではない」


「今そこじゃないです!」


 リリカは少しだけ笑い、あらためてトンヌラを見る。


「あなたたち、ほんと面倒なことするよね」


「お前たちにとって、だろう」


「そうとも言う」


 リリカは肩をすくめた。



 クラウスの視線は冷えたままだった。


「何をした」


「見に来ただけ」

 リリカはあっさり答える。

「あと、ほんとにそっちにいるんだって確認」


「見れば分かるでしょう」


「いや、分かるけどさ」


 リリカは頬を掻きながらクラウスを見つめる。


「戻る気、ないんだ」


 その言い方だけ、少し人間っぽかった。


 クラウスは表情を変えない。


「ありません」


「そっか」


 リリカは短く息を吐く。

 だが、その軽さはすぐ戻った。


「長官が調整を入れたの」


 その一言で空気が締まる。


 ミラが顔をしかめる。


「やっぱりあんたらが呼んだんじゃん」


「“呼んだ”はちょっと違うかな」

 リリカは指を立てる。

「傾けた、が近い」


「同じじゃないんですか?」

 コムギが素で言う。


 クラウスが低く言う。


「山はネームドの領域だ」


「そう。だから直接は触れない」

 リリカは軽く頷く。

「外縁だけ。風向きを少し変えたくらい」


「拒絶が生まれやすいだけの舞台を整えた、ということですか」


「言い方が怖いなあ」

 リリカは笑った。

「でも、まあ、そういうこと」


 フィーが唇を結ぶ。


「そんなことが……」


「できます」

 クラウスが低く言う。

「調整者は、そういう連中です」


 リリカは、その言い方に少しだけ目を伏せた。

 ほんの一瞬だけだ。


 だがすぐに顔を上げる。


「結果的に、均衡が応答しただけだよ」

「ネームレスが定義しようとした」

「なら世界も拒絶で応じる」


 トンヌラは鼻で笑った。


「都合のいい話だな」


「世界ってだいたいそうじゃない?」


「そこだけ妙に本音っぽいな」

 ミラが吐き捨てる。



 リリカは黒が消えた場所へ目を向けた。


「さっきの拒絶は、まだ形が浅い」


「浅いって何ですか!?」

 コムギが叫ぶ。

「怖いことをさらっと言わないでください!」


「うん。怖いと思う」

 リリカは否定しなかった。

「次は、もうちょっとちゃんと来る」


 フィーが唇を結ぶ。


「ちゃんと……」


「あなたたちが何を拒んだのか」

「何を選びたいのか」

「そこに合わせて、形を取り直す」


 ミラが低く吐き捨てた。


「こっちの迷いを読んでくるってこと?」


「近い」

 リリカは言う。

「正しさから外れた者を、正しさへ戻すための形」

「それが拒絶」

「そう」


 ガルドが拳を握る。


「なら、また立ちます」


「立てるといいね」

 リリカは軽く返す。


「軽いな」

 ミラが睨む。


「軽く言わないと、重すぎるでしょ」


「それ、優しさのつもり?」


「さあ」

 リリカは笑った。

「どっちだと思う?」


 誰も答えなかった。



 ぽめが、フィーの腕の中で丸くなっている。


 白い毛玉。

 眠そうな顔。

 さっきまでの異常な空気の中で、ひとりだけ何も変わっていない。


 リリカの視線が、ぽめへ向いた。


「……やっぱり可愛い」


 ぽつりと漏らす。


 コムギが反応する。


「そこなんですか!?」


「いや、可愛いは正義でしょ」


「意見が一致しました!」


 コムギが慌てる。


 クラウスが一段低い声で言った。


「近づくな」


 リリカが目を瞬かせる。


「そんな怖い顔しなくても」


「怖がっているのは俺じゃない」


「じゃあ誰」


「たぶん、お前たちの方だ」


 その返しに、リリカの笑みが一瞬だけ薄くなった。


 ぽめは、フィーの腕の中で丸まったままだった。


「……すぴ」


 相変わらず緊張感がない。


 リリカはその白い塊から視線を離せなかった。


「……ほんと、なんなのあれ」


「知りません」

 クラウスが言う。


「知りませんで済ませていいやつ?」


「済んでいないから、皆困ってるんです」


「それはそうか」


 リリカはぽめを見たまま、声を少しだけ落とした。


「気をつけて」


「ぽめにですか?」

 フィーが問う。


「ぽめを、かな」

 リリカは曖昧に答える。

「たぶん、あなたたちが思ってるより、そこにいる意味が重い」


 クラウスの目が細くなる。


「知っているのか」


「知らない」

 リリカは言った。

「でも、怖がってる人はいる」


「誰が」


「こっち側の人たち」


 沈黙が落ちた。


 ぽめは目を開けない。

 何も答えない。

 何も背負わない。


 なのに妙に、この場のどこにも属していない感じだけが濃い。


 トンヌラはぽめを見て、少しだけ眉を寄せた。


(守る対象、増えてないか?)


 その考えは、今は冗談にしきれなかった。



 リリカは最後に谷の奥を見た。


「じゃあ、私は戻る」


「止める気はないのか」

 トンヌラが聞いた。


 しばらく返事がなかった。


 やがて、リリカは言った。


「ないよ」

「私は境界の内側には入れない」

「それに、入ったら私も壊れるかもしれない」


 その言葉だけ、軽くなかった。


 ミラが眉を寄せる。


「怖いんじゃん」


「怖いよ」

 リリカはあっさり答えた。

「怖いから、見てる」


 クラウスが低く言う。


「昔からそうでしたね」


「そうだね」

 リリカは否定しなかった。

「でも、見てるだけでも分かることはある」


 クラウスは何も返さない。


 リリカの気配が薄くなる。


「次は、さっきみたいにはいかないと思う」


「最悪」

 ミラが言う。


「最低です」

 フィーも続く。


「ひえー……」

 コムギは素直に青ざめた。


 リリカは少し笑った。


「うん、そういう顔するよね」

「でも、そういうの嫌いじゃない」


 空気がわずかに歪む。


「じゃあね」

「ネームレス」

「それと、クラウス」


 クラウスは顔を上げない。


「ほんとにそっちで行くんだね」


「行きます」


「そっか」


 それきり、声は消えた。


 今度こそ、気配も残らなかった。



 風が、また少しだけ変わる。


 今度は完全な静止ではない。

 だが、山の奥に何かが控えているとわかる変化だった。


 クラウスが低く言う。


「次は、さっきのようにはいかないでしょうね」


「断言!」

 コムギが半泣きで言う。


「でも、たぶんそう」

 ミラが続ける。


 フィーがぽめを抱き直した。


「届くかもしれないなら、後悔はしたくない」


 珍しく、強い声だった。


 トンヌラは一歩、前へ出た。


(抗う……か)


 答えは、まだない。

 あるのは、行くか止まるかだけだ。


「行くぞ」


 その一言で、全員の意識が寄った。


 ガルドが隣に立つ。

 コムギがリュックを背負い直す。

 フィーがぽめを抱く。

 ミラがギターを背に戻す。

 クラウスが記録帳を閉じる。


 誰も、万全ではない。

 誰も、完全には理解していない。


 それでも足は、谷の奥へ向いた。


 ぽめが、ひとつあくびをした。


「……ふぁ」


 その緊張感のなさだけが、逆に不気味だった。



 ここはレイアノーティア。

 観測者は手を出さない。

 調整者は境界の外から均衡を傾ける。


 そして選択は、必ず何かを呼ぶ。


 トンヌラはまだ答えを持たない。

 だが、答えを持たぬまま進むことだけは選んだ。


 その先にあるものが何であれ、

 もう“知らなかった頃”には戻れない。



 第59話 了

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