第55話 隠された道
ここはレイアノーティア。
山は、急がない。
急がないものは、ときどき隠す。
答えも、道も、そこへ辿り着ける者も。
見せる価値があると判断するまで、
山はたぶん、何も語らない。
⸻
原初の山脈は、静かだった。
静かすぎた。
鳥の声がない。
風も吹いてはいるが、一定の方向に流れていない。
道は細く、灰色の岩肌が両脇から迫っている。朝の光は差しているはずなのに、谷へ降りるほどに明るさより陰の方が濃く見えた。
先頭を歩くガルドの背には、まだ赤が沈んでいる。
普段なら見えないそれが、今は時おりわずかに脈打つ。
暴れてはいない。
だが、眠っているというほど従順でもない。
「大丈夫か」
後ろからトンヌラが聞いた。
声は短い。
気遣っていないふりをして、気にしている時の声だった。
ガルドは振り返らずに答える。
「……慣れれば」
嘘ではない。
だが、本音でもない。
慣れるかどうかは分からない。
制御できない力を抱えたまま歩いている、その事実だけが今はある。
トンヌラはそれ以上聞かなかった。
「ならいい」
そう言う。
よくはない。
だが、今はそれ以上の言葉もなかった。
⸻
少し後ろで、コムギが地図を広げている。
「この先に谷があって、その奥に葡萄棚があるはずです」
紙の上では、そうなっていた。
山道。
谷。
棚。
単純な線だ。
だが実際の山は、いつだって地図より少しだけ意地が悪い。
フィーが立ち止まり、ゆっくり息を吸った。
「……空気が違いますね」
ミラが言う。
「山入ってからずっと変だよ」
「そういう意味じゃなくて」
フィーは首を振る。
「今はもっとはっきりと変わりました。」
「どう違うんです?」
コムギが聞く。
フィーは少し迷ってから答えた。
「山の中なのに、生き物の気配がほとんどありません」
「たしかになにもいませんね」
「はい。いないわけじゃないんですけど……」
「息を潜めてる感じが強い」
クラウスは何も言わなかった。
ただ、見ている。
山の糸は乱れていない。
むしろ整いすぎている。
自然な揺れ方ではない。
誰かが綺麗に折り畳んで、必要なものだけを表へ出しているみたいな静けさだ。
(……意図がある)
それだけは、はっきり分かった。
⸻
やがて、道が途切れた。
崖ではない。
崩落でもない。
ただ、そこに“続きがない”。
谷へ降りるはずの細道が、岩壁の手前で不自然に終わっている。
先へ進む空間そのものが、最初から存在しなかったみたいに閉じていた。
コムギが地図と正面の岩壁を何度も見比べる。
「えっ」
「えっ?」
自分で自分の声に驚く。
「続いてない?」
「見れば分かる」
ミラが言う。
「行き止まり」
「いやでも、地図では絶対この先なんです!」
「古いんじゃないですか?」
フィーが聞く。
「そんなに古くないです! たぶん!」
「たぶん多いな」
トンヌラが言う。
「たぶんはたぶんなんです!」
ガルドは岩壁を見つめる。
「崩れた感じではないですね」
「見せてないだけ……かもしれませんね」
クラウスが低く言った。
全員の視線がそちらへ向く。
「どういう意味?」
ミラが聞く。
クラウスは肩をすくめる。
「隠されている、という感じでしょうか」
「隠すってどういうことですか」
「幻覚、のようなものかもしれません」
「全然わかりません!」
コムギが即答する。
「僕も説明は苦手です」
「なにがなんだか」
ミラが言った。
トンヌラは黙っていた。
岩壁を見たまま、少しだけ目を細める。
(……ああ)
この感覚を、知っている。
山籠りしていた頃。
道がないはずの場所に、道があったことがある。
岩の裂け目。
霧の薄い切れ端。
誰も気づかない踏み跡。
そして、その先にいた老人。
あの時もこんなふうに、妙に不自然だった。
⸻
トンヌラが前へ出る。
「団長?」
コムギが声を上げる。
「落ちるなよ」
ミラが言う。
「落ちん」
トンヌラは即答した。
根拠はない。
だが、言い切らないと足が止まる気がした。
岩壁へ手を伸ばす。
ひやりと冷たい。
ただの石の感触のはずなのに、その奥で何か薄い膜が揺れた気がした。
トンヌラが一歩、踏み出すと空気が揺らぐ。
霧が割れ、そこに道が現れた。
細い山道だった。
岩壁に沿って、谷の奥へ続いている。
さっきまで何もなかった場所に、最初からそこにあったみたいな顔で、道だけが静かに姿を見せていた。
コムギが口を開ける。
「ほ、本当にあった……」
「だから言った」
トンヌラが言う。
「いや団長さん、今のはちょっと本当にすごいです」
「俺は常に道を切り開く男だ」
「今の流れでそれ言うとちょっと本当っぽいからやめて」
ミラが笑う。
ガルドは低く呟いた。
「……見えなかった」
クラウスが静かに言う。
「見せていなかった、ということですね」
その言い方に、トンヌラだけが少しだけ引っかかった。
やはり、この山には意志がある。
少なくとも、ただの地形ではない何かがある。
⸻
谷を下る。
道は狭いが、足場は悪くない。
むしろ不自然なほど整っていた。
空気が澄み、音がない。耳鳴りがしそうだ。
自分たちの足音だけが、やけに遠くまで響く。
やがて、木々の間に集落が見えてきた。
石積みの家々。
崩れてはいないが、新しくもない。
長く使われてきたような使用感なのに、生活の気配をまるで感じない。
煙突からなにも出ていない。
洗濯物もない。
家畜の鳴き声もない。
それなのに、打ち捨てられた村とも違う。
ただ“存在している”だけというような、違和感だけがある。
クラウスの喉が鳴る。
(……いる)
見えるわけではない。
だが、気配はある。
見られているというより、
到着を確認されている感じに近かった。
⸻
背後から、声がした。
「やっと来たか」
低く、乾いた声。
トンヌラの背筋が凍る。
振り向く。
そこに、老人が立っていた。
粗末な衣。
杖も持たない。
飾りもない。
だが、立っているだけで空間の“基準”が定まる。
さっきまで曖昧だった距離感が、一瞬で整う。
この場の重心がどこにあるのか、問答無用で分からされる。
ミラが息を止めた。
ガルドが半歩前へ出る。
コムギは地図を抱え直し、フィーは老人の呼吸を見ようとして、うまく掴めずに小さく眉を寄せる。
クラウスだけは、確信した。
(やはり)
この人間は、外側にいる。
⸻
老人がトンヌラを見る。
「いつか来ると思っていた」
まばたきも、感情の揺れもない。
ただ観測している。
トンヌラはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「……久しぶりだな」
「知り合い?」
ミラが思わず聞く。
トンヌラは答えない。
老人だけを見ている。
老人は言った。
「山に籠もっていた小僧が、騒がしい存在になったものだ」
評価でもない。
否定でもない。
ただ事実の確認。
その言い方が、かえって妙に懐かしかった。
「我々と同じ側に立つ覚悟を決めたか、トンヌラ」
空気が止まる。
“同じ側”。
その言葉の意味を、コムギは理解しきれなかった。
ミラはわずかに身構える。
クラウスは目を細めた。
ガルドは視線だけをトンヌラへ向ける。
だがトンヌラは、首を振った。
「葡萄を探しに来た」
迷いはない。
老人の目が、ほんのわずかに細まる。
「……なるほど」
それだけを言う。肯定も否定もなかった。
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遠くで、何かが息を潜める気配があった。
だが、トンヌラにはなんとなく分かった。
ここでは、思想が形を持つ。
選択がそのまま何かを呼ぶ。
観測する者たちの里《ネームドの里》
選ばれた道ではない。
選ばれなかった道の、到達点。
そこへ今、自分たちは足を踏み入れている。
ここはレイアノーティア。
山は、隠す。
だが一度だけ見せた道の先では、
いつだって次の問いが待っている。
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第55話 了




