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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第5章 因果を縫う者 手品師 戦場守護者の赤

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第54話 山は、覚えている

 ここはレイアノーティア。

 山は、急がない。


 急がず、語らず、ただそこにある。

 誰かの都合や祈りに合わせて形を変えることもなく、来る者の未熟も覚悟も、同じ重さで受け止める。


 だから山では、ときどき思い知らされる。

 自分が何者かではなく、何を背負っているのかを。



 ガルドは一人、岩場に立っていた。


 朝の空気は冷たい。

 原初の山脈の高みへ来ると、風は肌を撫でるというより、輪郭を確かめるように当たってくる。

 少し息を吸うだけで、肺の内側まできれいに研がれる気がした。


「……もう一度」


 小さく呟く。


 返事はない。

 あるはずもない。


 だが、声に出すことでようやく自分の中のためらいが、ひとつ形になる。


 ガルドは目を閉じ、意識を背中へ落とした。


 そこにある。


 赤い糸だ。


 細く、鋭く、だが前のように暴れてはいない。

 守った衝撃。

 受け止めた振動。

 流さずに抱え込んだ痛み。

 それらが、見えないはずの空間に幾筋もの赤として浮かび、ゆっくりと絡まり始める。


《クリムゾン・リコレクション》


 名前はもうある。

 世界もそれを追認した。

 だから、出せないわけではない。


 問題は、その先だった。


 赤い糸が収束する。

 巨大な大剣の輪郭が、少しずつ形を取る。


 だが――


 完成しきらない。


 刃の先が歪む。

 重さが偏る。

 ただ巨大なだけの“何か”になりかけて、そこで止まる。


「っ……!」


 ガルドの呼吸が乱れる。


 重いのは腕ではない。

 剣そのものでもない。


 意識だ。


 受けたものが、一斉に押し寄せてくる。


 落石の衝撃。

 盾越しに伝わった痺れ。

 立っているだけで受け止めてきた圧。

 誰かの前に立つたび、自分の中へ沈めてきたもの全部。


 それらを一度に“結果”へ変えようとした瞬間、押し返される。


 踏み込もうとして、足が止まった。


 刃が揺らぎ、輪郭が崩れる。


 次の瞬間、赤い糸は霧散し、何事もなかったみたいに静かに背後へ吸い込まれていった。



 しばらく、ガルドはその場で息を整えていた。


 胸が苦しいわけではない。

 立てないわけでもない。

 ただ、上手くいかなかったという事実だけが、身体の中に重く残る。


「……まだ、慣れませんね」


 誰もいない空間に向けて言う。


 守ることはできる。

 前に立つこともできる。


 だが、返すことは難しい。


 受け止めるだけなら、自分の内側だけで済む。

 痛みは自分のものだと割り切れる。


 けれど、それを結果へ変えるとなると違う。

 自分一人の話ではなくなる。

 世界へ向けて、他人へ向けて、意味ごと返さなければならない。


 それが怖かった。


 受けることには慣れている。

 痛みを飲み込むことにも慣れている。

 だが、“返す”という行為には、まだ責任の重さがついてくる。


 ガルドは拳を握る。


「でも」


 短く息を吸う。


「諦めません」


 それだけを言った。


 山風が吹き抜ける。


 赤は、もう以前のように暴れない。

 けれど、まだ従わない。


 力は手に入った。

 だが、その力をどう扱うかは、これから覚えなければならない。



 少し離れた岩の上に、トンヌラは立っていた。


 腕を組み、いかにも最初から全て見通していたような顔で、黙ってガルドを見下ろしている。


(……うまくいってないな)


 内心では普通にそう思っていた。


 声をかけることもできた。

 いつもの調子で何かそれっぽいことを言うこともできた。


 だが、しなかった。


 あれはガルド自身の山だ。

 人に手伝えるものではない。


 立ち方を覚えるのも、受けたものの意味を変えるのも、結局は自分で越えるしかない。


 トンヌラは空を見上げた。


 山。


 そういえば――と、ふと思う。


(俺も、山から始まったな)


 十五年。


 山籠り。


 誰にも呼ばれず、

 何者にもなれず、

 ただ、そこにいた。


 才能はなかった。

 役割も与えられなかった。

 職業が何になるのかも分からず、世の中の誰かみたいに前へ出られる気もしなかった。


 だから、自分で決めた。


 俺は、何かだ。


 今思えば、かなり無茶だった。

 だが、そうでもしなければ、自分がそこにいる意味を持てなかった。



 ふと、思い出す。


 あの老人だ。


 村にふと、原初の山脈から、ネームドの里の者だと名乗る連中がやってきて、こう言った。


「名前は器だ」

「名を預かる者は、世界に線を引く」


 なぜ、あの時の自分にそんな言葉をかけたのか。


(あのじいさん、何者だったんだ)


 名も聞いていない。

 何をしている人間なのかも知らない。

 導かれたわけでも、鍛えられたわけでもない。


 だが、目だけは覚えている。


 裁かない目。

 導かない、褒めもしない、憐れみもない。ただそこにいるものを見ていた。


 観る、というより、確かめるような目だった。


 トンヌラは小さく笑う。


「……山か」


 始まりも山。

 そして今も山。


 何かある。

 確信はない。


 だが、呼ばれている気がする。


 理由は分からない。

 分からないが、こういう嫌な予感はだいたい当たる。

 当たらなくていい時ほど、当たる。



 やがて、ガルドがこちらへ戻ってきた。


 足取りは重くない。

 だが軽くもない。

 自分の中で上手く整理しきれていない顔だと、トンヌラにはわかった。


「うまくいきません」


 ガルドは正直に言った。


 変に取り繕わないところが、この男らしい。


 トンヌラは頷いた。


「いい……山は急がん」


 それは励ましというより、確認に近い声だった。


 焦るな。

 今すぐできなくても、それは失敗ではない。

 山はそういうものだと、トンヌラ自身が知っている声だった。


 ガルドは少しだけ目を丸くしたあと、小さく笑う。


「はい」


 短いやり取りだった。

 だが、それで十分だった。


 ミラならもう少し茶化しただろう。

 コムギならもっと大げさに励ましただろう。

 フィーなら静かに呼吸の話をしたかもしれない。


 けれど今は、これくらいでちょうどよかった。



 遠く、原初の山脈の、さらに奥。


 霧の向こうに、深い稜線がいくつも重なっている。


 まだ誰も知らない。


 その先に――

 観測する者たちの里があることを。


 かつてトンヌラが一度だけ触れ、

 今また、別の意味で近づこうとしている場所があることを。


 ここはレイアノーティア。

 山は、始まりを覚えている。


 だから同じ場所へ戻ってきた者に、

 前と同じ問いは投げない。


 その代わり、少しだけ重く、少しだけ深い問いを返してくる。


 再び、試すために。



 第54話 了

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