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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第5章 因果を縫う者 手品師 戦場守護者の赤

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第56話 役目を終えた者たち

 ここはレイアノーティア。

 山は、裁かない。


 裁かないということは、許すことではない。

 見逃すことでもない。

 ただ、手を出さないというだけだ。


 その冷たさに辿り着いた者たちがいる。

 選ばず、揺れず、ただ見続けることを選んだ者たちが。



 集落は、やはり静かだった。


 人影はある。

 石積みの家々のあいだに、誰かが立っているのも見える。

 だが、生活音がない。


 薪を割る音も、水を汲む音も、鍋の煮える匂いもない。

 誰かが笑う気配も、喧嘩の熱もない。


 生きている場所、というより。

 最低限の形だけを残した場所に近かった。


 コムギが小さく息を吸う。


「……変ですね」

「何がだ」

 トンヌラが聞く。

「人はいるのに、生活の匂いがしません」

「料理の匂いもしませんしね」

 フィーも低く言う。

「人が住んでる場所って、もっと雑音あるでしょ、普通」

 ミラが辺りを見回しながら言った。

「……ありませんね。立ちやすい、というより」

 ガルドは里を見回して呟く。

「何も引っかからない感じです」

「それ、少し不気味です……」

 コムギが身を縮めた。


 クラウスは黙っていた。


 この空気を知っている。

 正確には、近いものを知っている。


 余計な揺れを許さない静けさ。

 感情や偶然を、最初から一段低い位置へ押し下げたみたいな空間。


(……到達している)


 あの老人だけではない。

 この里全体が、ひとつの思想に染まっている。



 老人が歩き出す。


 誰も止めない。

 止められる感じでもなかった。


 先導されるまま、トンヌラたちは里の中央へ進んだ。

 そこには、石でできた円台があった。


 高くもない。

 華美でもない。


 だが、その上へ立つと、山々がぐるりと見渡せた。

 尾根も、谷も、その向こうの霞んだ稜線まで、まるで最初から見せるために開かれていたように配置されている。


 老人が言う。


「ここは、役目を終えた者の里だ」


 トンヌラは眉をひそめた。


「死んだわけじゃないだろう」


「死ではない。到達だ」


 その言葉には、誇りも諦めもなかった。

 ただ、そこへ辿り着いた者だけが持つ断定の静けさがある。


 クラウスの背筋がわずかに伸びる。


(やはり)


 ここは隠れ里でも、仙人の住処でもない。

 もっと冷たい。

 もっと遠い。


 “人が人のまま届く場所”ではなく、

 “人が何かを置いて、初めて届く場所”だ。



 老人は円台の中央まで進み、山々を見渡したまま言った。


「世界は定義されている」


 風が止む。


「名によって」


 トンヌラは黙って聞く。

 他の者たちも、口を挟まない。


「名を与えられれば、役目が生まれる」

「役目が生まれれば、構造が生まれる」

「構造が生まれれば、因果が流れる」


 淡々とした声だった。

 説明というより、確認に近い。


 この世界の成り立ちを誰かへ教えるためではなく、

 そうであるものを、そうであると置いている声だ。


「我々は、そこまで理解した」


 老人は振り向かない。


「だから、二つに分かれた」


 ミラが眉を寄せる。


「二つ?」


「調整するか、観測するか」


 クラウスの瞳が揺れた。


 調整。

 観測。


 その二語だけで、過去が胸の奥を冷たく撫でる。


 エヴァン。

 水晶。

 収束率。

 必要な犠牲。


 あの側には、確かに“理解した者”がいた。

 そして今ここには、そこから別れたもう一方がいる。


「調整する者は、均衡を守る」

「観測する者は、均衡を見届ける」

「我々は後者だ」


 トンヌラが問う。


「なぜ何もしない」


 短い言葉だった。

 だが、この場でいちばん必要な問いでもあった。


 老人は少しだけ間を置いた。


「構造を理解した瞬間、介入は傲慢になる」


 その一言で、円台の空気がさらに冷える。


「正しさは常に全体を優先する」

「だが全体は、個を踏み台にする」

「それを理解しながら手を出すことは――選別だ」


 クラウスの呼吸が一瞬止まる。


 自分の指が何をしてきたのか。

 何を“必要な犠牲”と呼んできたのか。

 そのすべてが、その一語に押し戻される。


 コムギが言葉を探すように口を開く。


「でも……何もしなかったら、助けられないこともあるんじゃないですか」

「ある」

 老人は即答する。

「助ければ、別の場所が削れることもある」


 コムギは言い返しかけて、止まった。

 納得したわけではない。

 ただ、今の自分たちがまさに“一つを救うために別を間に合わせようとしている側”なのも事実だった。


 フィーが小さく言う。


「じゃあ、全部見てるんですか」

「見る」

「苦しくても?」


 老人は感情を交えずに答えた。


「怒りは構造を歪める。哀れみは選別を始める。愛は偏りを生む」


 一瞬の沈黙。


「だから、持たぬ」


 ガルドが低く呟く。


「……立っているだけ、ですか」


 老人は少しだけ考えた。


「そうかもしれん」


 そして、淡々と付け足す。


「持たぬ者は、苦しまぬ」


 その一言が落ちたあと、円台の静けさがさらに深くなった。


 老人はそこで初めて、わずかに目を閉じた。


「言葉だけでは足りんか」


 誰にともなく、そう言った。


 次の瞬間、視界が反転した。



 景色が消えたわけではない。

 山も空も、自分たちの立つ円台もそのままだ。


 ただ、“意味”だけが変わった。


 最初に見えたのは、村だった。


 山の向こう側。

 小さな集落。

 火の手が上がっている。


 誰かが叫んでいる。

 誰かが泣いている。

 誰かが走り、誰かが転ぶ。


 ガルドが拳を握る。


「助けなくていいんですか」


 老人は答えた。


「その選択を奪うな」


「奪う?」

 コムギが思わず声を漏らす。


「ここで我々が手を出せば」

 老人は淡々と言う。

「誰が逃げ、誰が残り、誰が守り、誰が捨てるか」

「そのすべてを、こちらが奪うことになる」


 炎の中で、若い男が子供を抱いて走る。

 別の女が井戸の水を汲み、老人が戸を叩く。


 ぐちゃぐちゃだ。

 整っていない。

 美しくもない。


 フィーが小さく言う。


「……助けたいです」

「わかります」

 コムギも答える。

「でも、それで全部決めちゃうのも違うってことですか」

「そうだ」

 老人は言った。

「介入は、救済ではなく上書きだ」


 トンヌラは黙って見ていた。


 苦しい。

 だが、言っていることの意味はわかる。

 ただわかるだけだ。



 次の光景が重なる。


 戦争だった。


 片方が押し、片方が退く。

 旗が燃え、鎧が割れ、泥が跳ねる。

 誰かが勝ち、誰かが負ける。


 その勝ち負けの向こうに、さらに別の飢えと恨みが続いているのまで見えてしまう。


 コムギが目を伏せる。


「止められるなら……」

「止めた結果が、より多くを削る場合もある」

 老人は答える。

「一つの戦争を止めるために、十の可能性を潰すこともある」

「そんなの、わからないじゃん」

 ミラが吐き捨てる。

「わからない」

 老人は即答した。

「だから我々は触れぬ」


 その答えに、ミラは舌打ちしかけて、やめた。


 腹は立つ。

 でも、感情で切って捨てられる理屈でもない。


 クラウスは唇を引き結んでいた。


 全体のために。

 必要な犠牲。

 収束率。


 その言葉の冷たさを、自分は知っている。

 知っているからこそ、もう簡単には見過ごせない。



 さらに景色が変わる。


 今度は、一人の少女だった。


 小さな部屋。

 誰もいない。

 泣いている。

 けれどその涙が止まったあと、彼女は立ち上がる。


 助けは来ない。

 手も差し伸べられない。

 だから、自分で立つしかなかった。


 フィーの胸が揺れる。


「……これは」

「介入しなかった結果」

 老人が言う。

「誰かが削られ、誰かが変わる」

「その両方がある」


 ミラが睨むように言った。


「それ、たまたま立ち上がれたからそう言えるだけじゃない?」

「そうだ」

 老人は否定しない。

「立ち上がれず消える者もいる」

「なら」

「それもまた、全体の中に含まれる」

 老人は言い切った。


 円台の空気がさらに冷えた。


 コムギが唇を噛む。

 フィーは何も言えない。

 ガルドの手に力が入る。


 トンヌラは老人を見る。


「感情はどうする」


 老人は答えた。


「削る」


「怒りは構造を歪める」

「哀れみは選別を始める」

「愛は偏りを生む」


 静かだが、言葉一つ一つに重みがあった。


「だから、持たぬ」


 それは理屈としては通っている。

 通っているからこそ、歯がゆい。


 ガルドが小さく呟く。


「……ただ立っているだけ、ですか」


 老人は少し考えた。


「立っているだけなら苦しまぬ」


 静かな断定だった。

 ガルドの背中に力が入る。


 その一言だけで、コムギの顔がほんの少し歪む。

 フィーは目を伏せる。

 ミラは鼻で笑って、笑いきれない顔になる。



 トンヌラは、しばらく何も言わなかった。


 見えてしまったからこそ、選べない場所があるのだとわかった。


「無理だな」


 老人の視線が向く。


「なぜだ」


「俺は、選びたい」

 トンヌラは言う。

「間違えてもいい」

 腕を組み直した。

「人間でいたい」


 静かに落ちたその言葉に、円台の空気がほんのわずかに揺れた。


 怒りではない。

 失望でもない。

 ただ、“そういう答えもある”と確認した時の揺れだった。


 クラウスが言う。


「私は……」


 言葉が止まる。


 観測の完成形は、美しい。

 整っている。

 理解もできる。


 だが、そこにはもう“選ぶ痛み”がない。


「私は、まだ選びたい」


 老人は静かに頷いた。


「理解した上で逸れる」

「それもまた、一つの到達だ」


 否定しない。

 引き留めない。

 ただ、そういう分岐があることを認めるだけだ。



 その時。


 ぽめが、トンヌラの腕からするりと抜けて、円台の真ん中へ歩いていった。


 丸い。

 小さい。

 眠そうだ。


 何も観ていないようで、

 だが妙に“理由”だけは最初から持っているような足取りだった。


 老人の視線が、ぽめに止まる。


「それは」


 一瞬。

 ほんの一瞬だけ、瞳に微かな迷いが走った。


 フィーが、その変化に息を呑む。

 クラウスも見ていた。

 トンヌラは、はっきりと見た。


 老人は低く言った。


「……観測できぬ」


 それだけだった。


 トンヌラは小さく笑う。


「最高じゃないか」


「団長さん、そういうとこですよ」

 ミラが呆れたように言う。

「団長ではない」

「でも今のは、ちょっとわかる」

 コムギも珍しく素直に頷く。

「ぽめだけ、なんか外ですよね」

「外?」

 フィーが聞く。

「観測とか調整とか、そういうのの」

「たしかに」

 ミラが言う。

「一番意味わかんない」

「可愛いですし」

 コムギが言う。

「そこはぶれないな」

 トンヌラが言った。


 ぽめは円台の真ん中で座り込み、大きなあくびをする。


「……ふぁ」


 そしてそのまま丸くなる。


 観測者の理屈にも、調整者の均衡にも、妙に馴染まない。

 だがなぜか自然だった。


 その違和感が、この場所で初めての風穴みたいに思えた。



 老人は最後に言った。


「この世界がある限り、我々は観測し続ける」


 山々を見渡す。


「誰にも調整されぬことを望みながら」


 静かな宣言だった。


 トンヌラは背を向ける。


「俺は調整も観測もやらん。定義するだけだ」


 その言葉が空へ抜けた瞬間、山の奥で何かがかすかに脈打った。


 観測の外。

 調整の外。

 まだ見えぬ場所で、別の“応答”が芽吹く気配がした。


 ここはレイアノーティア。

 観測は、ひとつの完成だ。


 だが人間は、ときどき未完成を選ぶ。

 痛みごと。

 間違いごと。

 それでも自分で選ぶために。



 第56話 了

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