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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第5章 因果を縫う者 手品師 戦場守護者の赤

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第50話 守るだけじゃ、足りなかった

 ここはレイアノーティア。

 守ることは、優しい。


 前に出ることより、受け止めることの方が、

 ときどきずっと静かで、ずっと強い。


 けれど――

 守るだけでは届かない瞬間もある。


 受けるだけでは、返せないものがある。

 立っているだけでは、救えない夜がある。



 「返せ!」


 トンヌラの声が山を打つ。


 その言葉に呼ばれるみたいに、ガルドの背後で赤い糸が震えた。

 細く、脆く、でも剣の輪郭になりかけていた。


――


 崩れて散る。


 まとまらない。


 ディザスターが、ゆっくり首を傾げた。


「タリナイ」


 低く、擦れる声。


「ソノ……コトバ……タリナイ」


 怒りはない。

 失望すらない。

 ただ事実だけを淡々と告げるみたいな声だった。


 次の瞬間ドクン、と山全体が脈打つ。


「ぐはっ――!」


 ガルドの身体が弾かれた。


 盾ごと横へ持っていかれ、岩へ叩きつけられる。

 外傷はない。

 だが衝撃は、今度こそ身体の内側を直接揺らした。


 膝が割れたように沈む。

 呼吸が途切れる。

 視界の端が赤く明滅した。


「ガルドさん!」

 コムギが叫ぶ。


 フィーがすぐさま駆け寄る。


「整える……!」

 胸元へ手を当てる。

「呼吸を合わせて……」


 だが、合わない。


 合わせたそばから、少しずつ外れていく。

 拍子木を鳴らす直前に、誰かが手を掛け止めるような、嫌な崩れ方だった。


「整えきれない……!」

 フィーの額に汗が滲む。


 コムギが追加の小袋を取り出す。


「補給、限界です!」

「まだあるんでしょ!?」

 ミラが叫ぶ。

「ありますけど、追いつきません! 今は入れてる量より削られてる方が早いです!」

「最悪!」

「はい、最悪です!」


 ディザスターが腕を下ろす。


「カエス」


 今度は静かだった。

 処理の声。


 その静けさの方が、むしろ嫌だった。



 ガルドの背後で、赤が暴れた。


 今まで受けたはずの衝撃。

 盾で受け流した落石。

 立ったまま呑み込んだ振動。

 全部が内側から、遅れて戻ってくる。


 ガルドが膝をつく。


「……まだ、立てます」


 そう言った。

 けれど、その声はいつものガルドのそれではなかった。


 痛い。


 重い。


 苦しい。


 だがそれ以上に、嫌な感覚があった。


 ――知っている痛みだった。



 家の中は、いつも少しだけ息苦しかった。


 広くもない居間。

 古びた机。

 壁に立てかけられた道具。

 食卓に置かれる、必要最低限の皿。


 そこに自分がいるだけで、空気が少し重くなる。

 そんな家だった。


「いつまでいるつもりだ」

 父が言う。

「少しは外へ出ろ」

 母が言う。

「食って寝てるだけなら、誰だってできる」


 ガルドは何も言えなかった。


 言い返す言葉がなかったからではない。

 言い返したところで、何も変わらないと知っていたからだ。


 実際、自分には何もなかった。


 剣も振れない。

 魔術も使えない。

 誰かより優れているものもない。


 職業水晶が示したのは《自宅警備員》。


 笑うしかない名前だった。

 だが笑えなかった。


 その名は、妙にしっくり来たからだ。


 外へ出ない。

 前にも出ない。

 何かを切り開きもしない。


 ただ家にいて、何も起こさないようにしているだけ。


 それが自分の役目だと、世界から決められたみたいだった。



 今なら分かる。


 あれは、自分が弱かっただけじゃない。


 帳尻合わせのために、

 何もできない役目を与えられていたのだ。


 前へ出ない者。

 踏み出さない者。

 居場所を持たず、ただそこに留まる者。


 そういう役目へ、きれいに押し込まれていた。


 だから動けなかった。


 やる気がないのでも、怠けていたのでもなく、

 最初から“動けない位置”に置かれていた。


 だが当時のガルドに、そんなことは分からない。


 分かるのはただ、

 自分が厄介者だということだけだった。



 親に尻を叩かれ、ギルドへ通わされた。


「せめて登録だけでもしてこい」

「日中ずっと家にいられると気が滅入る」

「何でもいいから仕事を探せ」


 押し出されるように外へ出る。

 ギルドへ行く。

 座る。

 立つ。

 何も起きない。


 依頼書の前に立っても、自分にできることが分からない。

 誰かに話しかけられることもない。

 たまにあっても、視線はすぐ逸れる。


 ただ時間だけが余る。


 昼が長い。

 夕方が嫌に早い。

 何もしないまま帰ると、家の空気はさらに重い。


 どこにも居場所がなかった。


 家にも。

 外にも。

 ギルドにも。


 あるのは、ただ立っている時間だけだった。


 立つだけならできた。


 何もしないこと。

 何も起こさないこと。

 邪魔にならないようにしていること。


 それだけは、できた。



 そんな時だった。


「……仲間、探してる?」


 声をかけられた。


 ガルドは最初、自分に向けられたものだと思わなかった。


 振り向くと、そこにいたのは、妙に堂々とした男だった。


 トンヌラ。


 まだ今より少しだけ、今よりさらに意味の分からない空気をまとっていた頃の男だ。


 胸を張り、腕を組み、

 いかにも何かを見抜いていそうな顔で、しかし実際にはたぶん何も分かっていない。


「……それ、才能だぞ」


「え?」


「空気、変わってる」


 


 だが、その意味の分からなさだけが、妙に胸へ残った。


 誰も褒めなかったことを、

 この男だけは、まるで当然の価値みたいに言った。


 剣が振れなくても。

 前へ出られなくても。

 何もできなくても。


 ただ立っていることに、意味があると言った。


 その日、初めて少しだけ思った。


 ここにいてもいいのかもしれない、と。



 ガルドの呼吸が乱れている。

 膝は沈んだまま。

 赤い糸が背後で暴れている。


 だが、その記憶だけは、妙に鮮明だった。


 立つだけしかできなかった自分。

 何の取り柄もなく、ただ家にいた自分。

 厄介者として扱われ、居場所がなかった自分。


 そんな自分に、最初に声をかけたのがトンヌラだった。


 立っているだけでいい、と。

 そこに意味があると。


 ガルドは歯を食いしばる。


「……立つ、だけじゃ」


 膝をついたまま、絞り出す。


「足りなかったんですね」


 トンヌラが息を呑む。


 コムギが顔を上げる。

 フィーの手が止まりかける。

 ミラも、いつもの軽口を挟めなかった。


 ガルドの目は、もう過去を見ていない。


 いま、ここを見ていた。


 守る。

 受ける。

 立つ。


 それは間違っていない。

 間違っていないが、それだけでは返せない。


 ただ受け続けるだけでは、

 自分が受けてきたものの意味を、最後まで他人に決められたままになる。


 ディザスターがそれを証明している。


 お前が受けたものは負債だ、と。

 返されるべきものだ、と。


 違う。


 違うはずだ。


 あれは、守った証だ。



 トンヌラは前へ出る。


(なんでだ)


(さっき、いける気がしたのに)


 腕を組み直す。

 だが、赤はまだ揺れるだけだ。


 クラウスは動けない。


 視界の中で、赤い糸だけが暴れている。

 さっき一瞬だけ方向を持ちかけた糸が、今は再び散らばりかけている。


(違う)


 トンヌラの言葉は強い。

 だが。


(方向がない)


 覚悟はある。

 だが、構造を掴んでいない。

 何を“返す”のか、どこへ“返す”のか、その意味がまだ定まっていない。


 ディザスターが腕を上げる。


「オオキク……カエス」


 空気が沈む。

 赤が膨張する。


 山肌の奥で、何か見えないなにかに押しつぶされるようだった。



 クラウスの視界が、白く染まる。


 山ではなく、別の場所。


 白い廊下。

 水晶の海。

 無数の糸。


 若い自分が立っている。


「収束率、0.3度補正」

 ノインの声。

 それに従って、糸を引く。


 都市の一角。

 小さな商会が潰れる。


 構造的には、自然淘汰だった。

 不採算。

 非効率。

 遅すぎた再編。


 数字にすればそうなる。


 路地で、子供が一人座り込む。

 母の手を握ったまま。


「必要な犠牲です」


 自分の声だった。


 淡々と。

 正しく。

 迷いなく。


 水晶は青く安定する。

 都市は整う。

 経済は回る。

 全体は、より良くなる。


「君は優秀だクラウス」

 エヴァンの声。

「美しい調整だった」


 誇らしかった。

 正しかった。

 世界は整った。


 けれど、その夜。


 あの子供の影だけが、消えなかった。


 糸は切れていなかった。

 細く、細く、残っていた。



 ガルドが苦しんでいる。

 赤い糸が、彼に絡みついている。


(まただ)


(正しさが、誰かを潰す)


 ディザスターは怒っていない。

 裁いてもいない。


 ただ、回収しているだけだ。


 成功の裏に積もった負債を。

 受け止められた衝撃を。

 流れなかった痛みを。


 ただ構造通りに。


 トンヌラが叫ぶ。


「ガルド!」


 赤い糸は、揺れるだけだ。


 ディザスターが呟く。


「オマエ……タエタ」

 かすれた声が、さっきよりさらに重く聞こえた。

「ダカラ……カエス」


 それは評価ではない。

 順番の確認だった。


 クラウスの中で、何かが軋む。


(私は正しかった)


(だから、間違えた)


 目の前のガルドは、過去の自分が見捨ててきたものと、決定的に違う。

 耐えている。

 黙っている。

 誰かのために受け続けている。


 それなのに、この世界はそれすら回収しようとする。


「……足りないんですよ」


 思わず、言葉が漏れた。


 トンヌラが振り向く。


「何がだ」


 クラウスは笑えなかった。


「覚悟だけじゃ」


 トンヌラの眉が寄る。


「構造を知らなきゃ、壊せない」

「構造……」

「因果の流れを、意味の向きを」

 喉が乾く。

「理解していなきゃ、ただ叫ぶだけじゃ足りないんです」


 トンヌラは言い返さなかった。

 言い返せない顔だった。


 それが余計に、クラウスを苛立たせる。


(また、誰かに押し付けるのか)


(また、“必要な犠牲”にするのか)


 ガルドが震えている。

 それでも立とうとしている。


 ディザスターが腕を上げる。


「オオキク……カエス」


 空気がさらに沈む。

 赤が膨張する。


 クラウスの喉が鳴る。


(……私は)


(今度は)


 だが、足が動かない。


 糸を引けばいい。

 ほんの少し、ずらせばいい。

 それくらいできる。


 なのに、手が止まる。


 正しく整えることに、もう自分の足が乗らない。

 かといって、別のやり方もまだ持てていない。


 トラウマが、足を縫い止めていた。



 コムギが、震える手でまた小袋を開ける。


「ガルドさん、まだ倒れないでください」

 声は明るくしようとしている。

 でも明るくなりきらない。

「補給担当命令です」

「命令なんだ」

 ミラが言う。

「ガルドさん倒れないで!」

 半分泣き声だった。


 フィーも、呼吸を整えながら低く言う。


「ガルドさん」

「はい」

「まだ、届きます」

「……届きますか」

「たぶん」


 ミラが吐き捨てる。


「その“たぶん”に賭けろっていうの」

「でも、ゼロじゃないなら」

 フィーは言う。

「今はガルドさんを信じるしかないです。」


 ガルドが、小さく息を吐いた。


 痛い。

 重い。

 内側から重いハンマーでメチャクチャに叩かれているような衝撃。


 でもそれは、今まで受けてきたものだ。

 逃がさなかったものだ。


 守るために、立ち続けてきた記録でもある。


 その考えが、まだうまく形にならない。

 けれど、ただ“負債”ではない気がしている。


 クラウスは、その気配を見ていた。


 赤い糸は暴れている。

 だが完全に死んではいない。

 まだ、何か別の意味へ繋がる手前で揺れている。


(……もう少しだ)


 そう思った瞬間、自分で驚いた。


 整える側の思考ではない。

 誰かの答えを待っている側の思考だ。


 それが怖かった。



 ここはレイアノーティア。


 正しさは秩序を作る。

 守ることは優しさになる。

 だが――


 秩序は、必ず誰かの上に積まれる。

 優しさだけでは、返せないものもある。


 ガルドの限界は近い。

 そして、クラウスの決断も。


 まだ剣は見えない。

 まだ答えは出ていない。


 だが、赤は確かにそこにある。

 受けたすべての色として、

 今にも何かへ変わりかけていた。



 第50話 了

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