第49話 返却開始
ここはレイアノーティア。
山は記録する。
受けたもの。
流さなかったもの。
守るために呑み込んだ衝撃。
それらは消えない。
見えなくなっているだけで、どこかに残る。
そして山は、ときどきそれを返してくる。
律儀なようで、たぶんいちばん質が悪い形で。
⸻
霧の奥で、何かが止まった。
足音ではない。
呼吸でもない。
近づいてくる圧そのものが、一度だけ、考えるみたいに静止した。
ガルドが低く言う。
「……来ます」
その直後だった。
霧が左右に割れる。
のそりと音を立て現れたのは、人の倍ほどもある巨躯だった。
輪郭は人型に近い。
だが人ではない。
黒い体表は油膜のように鈍く光り、節目ごとに赤い筋が微かに脈打っている。
顔のようなものはある。
だが表情は読めない。
目の位置に当たる場所だけが、妙に深く窪んでいた。
一歩。
それだけで空気が沈んだ。
コムギが喉を引きつらせる。
「ひえっ」
今度は小さかった。
「これ、絶対だめなやつです……」
ミラがギターの肩紐を握り直す。
「うわ……趣味悪」
「ミラさん、感想そこなんですね」
「そこでもあるでしょ」
「ありますけど!」
フィーは相手を見たまま、かすれるように言った。
「生き物の呼吸じゃないです」
「でしょうね」
トンヌラが返す。
「逆に呼吸してたら嫌です」
ミラが言う。
その黒い巨躯が、喉の奥を擦るみたいな声を出した。
「ワレ……」
音が遅れて山肌へ染みる。
「カエス」
ガルドの背後で、見えない赤が脈打った。
ドクン。
ガルドの視界が一瞬だけ赤く染まる。
何もない。
だが盾を持つ腕の内側で、鈍い痺れが走った。
「……大丈夫、です」
答えた言葉が、ほんの半拍だけ遅れる。
足元の岩が、また“遅れて”砕けた。
コムギが目を見開く。
「今の何です!?」
「わからん」
トンヌラが即答する。
「団長さんのわからん、今日は信用度高いです!」
「高くても嬉しくないな」
ミラはそういいながら、ギターを構える。額の汗が地面へ落ちた。
⸻
クラウスはその影を見て、確信した。
(……魔王だ)
しかも、ただの暴力ではない。
もっと構造寄りの、厄介なやつだ。
赤い糸。
蓄積された衝撃。
回収されずに残ったもの。
それらすべてへ反応している。
相手はゆっくりと腕を上げた。
歪んだ指先が、まっすぐガルドを指す。
「ウケタ……モノ……」
かすれた、太い声。
「カエス」
ドクン。
今度は明確に、ガルドの背後の赤が濃くなった。
盾に受けた落石。
流さなかった振動。
立ったまま呑み込んだ衝撃。
それらが、宙で震えている。
ガルドの息が荒くなる。
「……くっ」
肩がわずかに沈む。
立っている。
だが、重い。
ミラが舌打ちする。
「なにこれ……圧だけで重いんだけど」
「圧だけじゃないです」
フィーが低く言う。
「さっき受けたものが、戻されてる」
「は?」
コムギが固まる。
「戻すって何を!?」
「多分……衝撃そのものを」
「ひぇっ。なんですかそれ!」
⸻
山の上空。
誰にも見えない高さで、風がわずかに切り替わった。
「へぇ……」
軽い少女の声。
「ほんとに出た」
木の枝の上で、赤い外套が揺れていた。
長い髪を風へ遊ばせながら、リリカは双眼鏡を下ろす。
「80%って言ってたのに、ほぼ100%じゃん」
くすりと笑う。
「長官、盛ったなあ」
彼女の視線は、一度だけぽめへ落ちた。
「今日も丸い……」
頬が緩む。
だが、すぐ戻る。
「仕事、仕事」
彼女の足元には細い光の糸。
中枢の水晶と繋がっている。
ノインの声が耳の奥へ届く。
『干渉は最小限に』
「わかってるって」
リリカは空気へ指を滑らせた。
ほんのわずかに風向きが変わる。
雲が少しだけ重くなる。
「ディザスター《厄災の魔王》のお手並み拝見、と」
楽しげだった。
だが視線は冷たい。
⸻
ディザスターがもう一歩、進む。
挙動は遅い。
だが、その遅さが逆に逃げ場を削る。
「カエス」
その声と同時に、空気が“戻る”。
ドクン。
ガルドの足元が爆ぜた。
岩が内側から割れ、見えない衝撃が腹部を打つ。
外傷はない。
だが呼吸が止まる。
「――っ!」
ガルドの膝が一瞬揺れる。
コムギが即座に飛び出した。
「補給します!」
袋から小瓶を抜き、投げる。
「甘いのいきます! 即効です!」
ガルドが受け取って飲み込む。
喉は動いた。
だが呼吸は戻りきらない。
「効いてない?」
コムギが青ざめる。
フィーがすぐに両手を当てる。
「整える……!」
呼吸の波。
鼓動の律動。
身体の揺れ。
合わせようとする。
だが。
「……ずれる」
フィーの額に汗が滲む。
「戻した瞬間、また外される」
「相性悪すぎでしょ」
ミラが吐き捨てる。
ディザスターが首をゆっくり傾げた。
「タメタ……モノ……」
腕が上がる。
「カエス」
⸻
今度は、ガルドの影そのものが揺れた。
背中の空間が歪む。
さっき受けた落石だけじゃない。
今まで盾で受けた衝撃が、“時間差で”返ってきているみたいだった。
ガルドが膝をつく。
「……まだ、立てます」
声が震えている。
トンヌラが前へ出た。
「ガルド」
短く呼ぶ。
(これ、やばいだろ)
(だいぶやばいだろ)
だが顔は真剣に見せる。
「立てるか」
「……立てます」
嘘だ。
全員がわかった。
たぶん、本人にも。
⸻
上空で、リリカが口元を押さえる。
「うわ、やっぱこれ嫌い」
言葉は軽い。
でも目は冷静だ。
「溜め込み型って、限界くると派手なんだよね」
カリカリと頭を掻く。
「しかもこの人、かなり綺麗に溜めてる」
彼女の指先で糸がわずかに張る。
観察継続。
干渉は最小限。
「さて」
小さく口元が上がる。
「どこまで壊すのかな」
⸻
クラウスは見ていた。
赤い線。
細いが、増えている。
これは無効ではない。
蓄積だ。
そして今、それが返却され始めている。
(限界が来る)
フィーとコムギでは支えきれない。
ミラはまだ場を取る段階に入れていない。
トンヌラは――
トンヌラは、前に出る。
足場が沈む。
それでも立つ。
腕を組み、迷いなき目で魔王を見つめる。
(さ、最近出てくるやつ、だいぶやばくないか……?)
脳内の小さなトンヌラが、全力疾走で走っている。ぐるぐると。
だが外から見えるのは、妙に落ち着いた男だった。
ディザスターの窪んだ目が、わずかに揺れる。
名を呼ばれたわけでもない。
なのに反応する。
山が静まり返る。
⸻
リリカが、枝の上で小さく口笛を吹く。
「固定化、完了」
魔王は、現象から存在へ寄る。
空気がもう一段重くなる。
「長官、観察フェーズ移行ですね」
返事はない。
だが糸が、わずかに張った。
リリカはまた、水晶でぽめを見る。
ぽめが目を開けた。
一瞬、視線が交差する。
リリカの喉が鳴る。
「……え、見えてる?」
ぽめは瞬きだけした。
それから何事もなかったみたいに、また寝る。
「すぴ」
リリカは真顔に戻った。
「……やっぱりあれ、バグでしょ」
小さく言う。
「可愛い顔してるのに……」
⸻
地上では、ディザスターが両腕を広げていた。
空気が沈む。
山が軋む。
「カエス」
その声は怒りでも宣告でもない。
ただ、目の前のものを処理するだけの機械的な声だった。
コムギが半泣きで叫ぶ。
「ちょっと待ってください、これ本当に無理では!?」
「わかる」
ミラが言う。
「でも待ってくれそうな顔してない」
フィーはガルドの肩へ手を当てたまま、低く言う。
「次、もっと大きいのが来ます」
「わかるのか」
トンヌラが聞く。
「はい」
フィーは短く頷く。
「呼吸が、山全体で溜まってる」
「山に呼吸はないだろ」
「多分あの、黒い魔物のせいです」
ガルドが歯を食いしばる。
視界が真っ赤になった。
盾が重い。
腕が震える。
自分が受けたもの。
耐えたもの。
流さなかったもの。
今、全部戻ってきている。
クラウスの指先が、わずかに震えた。
(言うな)
(今、呼ばせるな)
(まだだ)
だが。
トンヌラが一歩、踏み出す。
その一歩で、空気が揺れた。
ディザスターの目が、まっすぐトンヌラへ向く。
「オマエ……」
一瞬だけ。
処理が止まる。
トンヌラが叫ぶ。
「ガルド!」
声が山を打つ。
「守るだけが、お前の役目か!」
空気が凍る。
ガルドの瞳が揺れる。
「受けるだけか!」
「立っているだけか!」
クラウスの視界で、糸が弾けた。
赤が震える。
トンヌラがさらに叫ぶ。
「返せ!」
その言葉と同時に――
赤い糸が、形を持ちかける。
だがまだ、完全ではない。
ディザスターが低く唸る。
「カエ……」
言葉が揺らぐ。
処理が乱れる。
クラウスが息を呑む。
(やめろ)
(まだだ)
だが――
赤は、刃の輪郭を帯び始めていた。
⸻
ここはレイアノーティア。
借りたものは返る。
受けたものは残る。
だが――
返す相手を、選ぶことはできる。
その意味へ届くまで、
あとほんの少しだけ、言葉が足りなかった。
⸻
第49話 了




