第48話 赤はまだ見えない
ここはレイアノーティア。
山は、誰の味方でもない。
高いから偉いわけでもなく、
厳しいから正しいわけでもない。
ただそこにあって、
来る者の都合より先に、自分の重さで立っている。
だから山の中では、
こっちが試されている気分になる。
⸻
道はさらに細くなっていた。
岩肌が露出し、足場は乾いて脆い。
左は崖、右は切り立った斜面。
馬を通すにはもう厳しく、手綱を引く速度も自然と落ちている。
先頭を歩くガルドが、静かに言った。
「足元、崩れやすいです」
その声は低く、短い。
だが、こういう時のガルドの言葉はいつも妙に当たる。
「え、今言わないでくださいよ」
コムギが反射で言う。
「ひぇー!進んで大丈夫ですか?」
ミラが肩越しに斜面を見る。
「でも、たしかに嫌な地面してる」
「嫌な地面って何だ」
トンヌラが聞く。
「見た目で分からない? こう、踏んだ瞬間に“あっ”ってなる感じ」
「感覚すぎる」
「感覚で生きてる人に言われたくないけど」
「俺は理論派だ」
「どこが」
「経験則だ」
フィーは少し前を見ながら言った。
「岩の下、少し浮いてます」
「えっ」
コムギが固まる。
「それ先に言ってください!」
「今言いました」
「そうなんですけど!」
ぽめは、コムギの足元近くで丸いまま運ばれていた。
危機感があるのかないのか分からない。
⸻
その時だった。
バキ、と乾いた音が鳴った。
ガルドの足元ではない。
少し前、斜面側の岩場の奥。
だが音の位置より速く、地面のひびが走る。
「下がってください!」
ガルドが即座に前へ出る。
次の瞬間、斜面の上から石が落ちた。
一つではない。
二つでもない。
大小入り混じった岩塊が、遅れて、まとめて崩れてくる。
コムギが悲鳴を上げる。
「ひえっ!?」
「コムギさん、左!」
フィーが叫ぶ。
「はいっ!」
ミラが咄嗟に後ろへ飛び、ギターを庇うように抱く。
トンヌラも一歩退いた。
退いたつもりだったが、半歩しか動いていない。
足場が悪く、思ったより重い。
その間に、ガルドが盾を構えていた。
鈍い衝撃音が連続する。
ドン。
ガン。
バキ。
ゴッ。
一発。
二発。
三発。
落石が盾と肩口と足元を打ち、砕けた石片が周囲へ散る。
土煙が上がる。
しばらく視界が白く濁った。
やがて、静まる。
⸻
ガルドは立っていた。
外傷は見えない。
血も流れていない。
だが、彼はすぐに動かなかった。
「……ガルドさん?」
コムギが恐る恐る声をかける。
ガルドは遅れて答えた。
「少し、身体が重いです」
その言葉だけが、山に吸われるように沈んだ。
フィーがすぐ近づく。
「見せてください」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない時の顔です」
フィーが横から言う。
「顔に出てます?」
「ちょっとだけ」
コムギは荷袋を引っかき回し、すぐに小袋を取り出した。
「この粉を水で飲んでください!」
「なんだそれ」
トンヌラが聞く。
「緊急用です! まず動ける方へ戻します!」
「味は?」
ミラが聞く。
「今そこですか!?」
「いや大事でしょ」
「甘いです! 以上です!」
「雑」
「今はいいんです!」
ガルドが小袋を受け取り、水で流し込む。
だが、飲んだ直後に良くなる感じではなかった。
呼吸は戻る。
けれど、何か別の重さが残っている。
⸻
クラウスは、その様子を見ていた。
いや、正確にはガルドそのものではなく、
ガルドの背後に薄く漂う“線”を見ていた。
赤い。
血ではない。
傷でもない。
衝撃の軌道だけが、消えずに残っている。
さっき盾で受けた落石。
流したはずの衝撃。
逸らしたはずの重さ。
それらが、空間に赤い糸のように浮いていた。
(……背負っている)
クラウスの喉が、わずかに鳴る。
ガルド自身は気づいていない。
他の誰にも見えていない。
だが確かにそこにある。
受けたもの。
耐えたもの。
流さなかったもの。
それが消えずに、残っている。
⸻
遠くで、低い脈動が鳴った。
ドクン。
山の奥で、何かが息をしているみたいだった。
クラウスの思考が、一瞬だけ別の場所へ飛ぶ。
豪奢な寝室。
天蓋の下の少女。
薄い呼吸。
遠い焦点。
「……返す」
エリシアの言葉が、脳裏で重なる。
そして、逆回転した時計。
クラウスは目を細めた。
(減っているのではない)
(削がれているのでもない)
何かが抜かれている。
しかも、ただ消えているのではなく、
どこかへ“運ばれている”。
山で溜まる衝撃と、娘から抜ける活力。
方向がある。
流れがある。
偶然ではない。
(……精算か)
その言葉だけが、静かに浮かぶ。
⸻
一瞬だけ、白い廊下の記憶が蘇った。
水晶の海。
無数の糸。
糸を引く自分。
「必要な犠牲です」
そう言った昔の声が、やけに鮮明に蘇る。
あの時と同じだ。
誰かの損失を、全体の整いへ変える。
帳尻を合わせるために、見えない場所から回収する。
それを正しいと思っていた。
(……やっているな)
誰がとは言わない。
言わなくても分かる。
これは自然じゃない。
“調整”だ。
⸻
トンヌラがガルドの肩へ手を置いた。
「立てるか」
「立てます」
即答だった。
だが、その声は少しだけ硬い。
トンヌラは眉を寄せる。
(ちょっとこれ……まずくないか?)
(帰る? いや帰れないよな……)
だが口に出せば全員の足が止まりそうで、言えなかった。
「無理はするな」
それだけ言う。
ガルドは短く頷いた。
「はい」
「はい、じゃないんですよねえ……」
ミラが小さく言う。
「すみません」
「謝るのも違うのよ」
「難しいですね」
「ほんとそれ」
コムギはまだ落ち着かない顔のまま、ガルドを見上げた。
「ほんとに大丈夫です?」
「少し重いだけです」
「その“だけ”が怖いです」
「ですが、進めます」
「ガルドさんって、そういう時ほど静かですよね」
フィーが低く言う。
「はい」
「それ、たぶん我慢してる時です」
「そうかもしれません」
「認めるんだ……」
ミラが呟く。
⸻
クラウスは山の奥を見る。
赤い霧が、ほんのわずかに濃くなっている。
さっきまでは“気配”だった。
今は、もう少しだけ形に近い。
まだ軽い。
だが溜まっている。
このままなら、限界が来た時に溢れる。
フィーが小さく言った。
「山、怒ってるみたい」
「その表現!」
コムギが半泣きで言う。
「でも、私もちょっと分かります」
「コムギさんまで!?」
「気持ちの問題です!」
「それもう全然安心できないです!」
「葡萄はまだ先ですよね」
フィーが前方を見る。
「はい」
コムギも息を吐く。
「補給的にも、ここで止まるのはよくないかと」
「なんか……やな感じ」
ミラが言う。
「山も、落石も、空気も、今の感じも」
「同感だ」
トンヌラが短く返した。
「お、団長さんと意見合った」
「たまにはな」
「たまにはなんだ」
クラウスが、ぽつりと呟く。
「これは病気じゃない」
誰もすぐには反応しなかった。
山風が、少しだけ遅れて頬を撫でる。
「帳尻です」
トンヌラだけが振り向いた。
「何のだ」
問いは短い。
クラウスは笑った。
軽く。
いつもの、何でもないみたいな顔で。
「成功の、ですよ」
その言い方だけが、妙に冷たかった。
⸻
ドクン。
今度は、はっきりと脈が鳴った。
地鳴りではない。
鼓動とも違う。
もっと嫌な、数を数えるみたいな間。
まるで、誰かが自分のものを確かめている音だった。
クラウスの背に、冷たい汗が流れる。
(選別している……)
赤い霧がさらに濃くなる。
ぽめが、ぱちりと目を開けた。
一瞬だけ。
白い毛並みが、山の空気の中で揺らいで見える。
だがすぐ戻る。
「……」
何も言わない。
いや、言わないまま見ている。
クラウスは確信する。
(来る)
魔物ではない。
獣でもない。
もっと“構造寄り”の、嫌な何かだ。
「なにかが来ます」
クラウスのその一言で、一行の空気が固まった。
「嫌な言い方しないでください!」
コムギが叫ぶ。
「すみません」
「そういうとこなんですよ!」
「今それどころじゃないだろ」
ミラが言うが、自分の声も少し張っていた。
ガルドが一歩前へ出る。
まだ少し重そうだ。
それでも前へ出る。
トンヌラも、腕を組んだまま前を見る。
(うわ……)
(来るのか)
(しかも多分、かなり嫌なやつだな)
だが顔は動かさない。
動かない方が、なぜか全員が少しだけ落ち着く気がしたからだ。
⸻
まだ姿はない。
だが、ゆっくりと。
確実に。
何かがこちらへ近づいてきている。
ここはレイアノーティア。
山は記録する。
受けたもの。
流さなかったもの。
成功の裏に積もったもの。
それらは消えずに残り、
やがて赤く垂れ下がる糸になる。
そして、その糸が十分に増えた時。
山はたぶん、何かひとつを形にする。
⸻
第48話 了




