第47話 重力のある空気
ここはレイアノーティア。
山は、役目を持たない。
ただ、そこにある。
高く、重く、黙ったまま。
人が意味を与える前から、山は山であり続ける。
だから時々、そこへ踏み込んだ人間の方が、
自分の持っているものを問われる。
⸻
原初の山脈へ入った瞬間、空気が変わった。
風が重い。
鳥が鳴かない。
足音が、土へ吸われる。
昨日までの山道とは違った。
道はまだある。
空も見える。
視界が閉ざされているわけでもない。
なのに、歩いているだけで、何か見えないものに押し返される感じがある。
「……静かだな」
トンヌラが呟く。
ガルドが一歩前に出た。
「魔物の気配が薄いです」
「薄いのに、重い」
フィーが小さく言う。
「近くにたくさんいる感じではないです。でも、いない方の静けさじゃない」
「それ、どう違うんです?」
コムギが聞く。
「いないなら、もっと抜けます」
フィーは周囲の木々を見た。
「これは、息をひそめてる感じです」
「やだなあ」
コムギが肩をすくめる。
「山ってもっとこう、空気がおいしいとかじゃないんですか」
「場所による」
ミラが気怠そうに言った。
「今は最悪寄り」
「その分類、嫌ですね」
「でも合ってるでしょ」
「合ってます……」
ぽめは、相変わらず寝ていた。
「……すぴ」
「お前だけ、なんでいつも通りなんだ」
トンヌラが小さく言う。
「大物感あるよね」
ミラが肩をすくめた。
「ただ寝てるだけなんですけど」
コムギが真顔で返す。
「だから余計に嫌なんじゃん」
⸻
道がゆるやかに細くなる。
岩肌が増え、土の匂いが薄くなっていく。
木々の間に見える空も、どこか鈍い色だった。
クラウスは一行の少し後ろを歩いていた。
歩幅は乱れない。
呼吸も荒れない。
だが視線だけが、周囲ではなくトンヌラへ向いている。
(気づいていない)
山の糸が、彼を避けている。
いや、避けているというより――
彼を中心に、組み直している。
クラウスはそれを知っている。
知っていて、知らないふりをしている。
「ネームレスさん」
軽い声で言った。
トンヌラが振り向く。
「なんだ」
「あなた、自覚あります?」
「なにがだ」
クラウスは少しだけ笑う。
「とんでもないことしてますよ」
ミラが前を向いたまま、わずかに耳を向ける。
フィーも会話そのものは聞いていないふりをして、気配だけを拾っている。
ガルドは前に立ち、コムギは補給袋の紐を確認している。
トンヌラは腕を組んだ。
「俺は常に世界を背負っている」
「出た」
ミラが即座に言う。
「今の絶対出ると思った」
「予想されたか」
「されるよ」
「残念です」
コムギが真顔で言う。
「何がだ」
「今日はちょっとかっこよく決まるかと思ったのに」
「お前は何を期待している」
クラウスは笑わなかった。
「冗談じゃなくて」
一歩だけ距離を詰める。
「あなた、役目を呼んでる」
トンヌラは首を傾げた。
「役目は来るものだろう」
「普通はね」
クラウスの声が、少しだけ低くなる。
「でもあなたは違う」
山の上空で、雲がほんのわずかに渦を巻いた。
「あなたが立つと、世界が意味を探し始める」
「意味?」
「理由と言ってもいい」
全員が静まり返った。
「結果が先に立って、世界の方が後から辻褄を合わせに来る」
トンヌラは一瞬黙った。
(なんか……重い話になってきたな)
「つまり俺は主人公ということか」
「違います」
即答だった。
「あなたは、勇者ではない」
沈黙が落ちる。
前を歩いていたミラが小さく吹き出した。
「そこ即否定なんだ」
「大事なところです」
クラウスは視線をトンヌラから逸らさない。
「勇者は与えられる側です」
「俺は違うと」
「ええ」
「では何だ」
「それを、私はまだ測っているところです」
⸻
道はさらに険しくなった。
岩が増え、地面が乾き、靴裏に返る感触が重くなる。
空気の薄さではなく、密度の重さだった。
コムギが息を整えながら言う。
「なんかこの山、歩いてるだけで疲れません?」
「わかる」
ミラも短く返す。
「景色がしんどい」
「景色がしんどいって何だ」
トンヌラが聞く。
「見れば分かるでしょ。全部こう……」
ミラが手で空間を掴むみたいにする。
「重い」
「語彙が死んでますね」
コムギが言う。
「コムギに言われたくないんだけど」
「今日は私も死にかけてます!」
フィーは周囲を見ながら言った。
「草の揺れ方も少し変です」
「風じゃなくて?」
「風もあります。でも押されてるみたいに揺れてます」
「ひえー!どういうとですかそれ」
ガルドが低く答えた。
「重力のある空気、ですね」
「なにそれ」
ミラが振り返る。
「詩人?」
「違います」
「でも今の、ちょっとかっこよかったよ」
「そうですか」
「本人に自覚ないのも含めて」
「ないです」
「でしょうね」
⸻
クラウスは、またトンヌラへ視線を戻した。
「世界は、常に調整されています」
「エヴァンがやってることか」
トンヌラは当然のように言う。
クラウスの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……そうですね」
淡々と答える。
「でもあなたは、それを壊す」
「壊しているつもりはない」
「壊してます」
即答だった。
トンヌラが眉を寄せる。
「断言するな」
「しますよ」
クラウスは柔らかく笑う。
「あなたが立つと、順番が狂う」
山風が止まる。
「本来なら後から来る意味が、先に来る」
「順番が違うだけだろう」
「その違いで、世界はだいぶ困るんです」
「なら困っていればいい」
トンヌラは腕を組み直す。
「俺の進む道は、誰の意図も関係ない。革命だ」
ミラがまた吹き出した。
「ほんと好きね、その言い回し」
「好きだから使う」
「潔いな」
「トンヌラさんは潔いです」
「そこ乗るんだ」
ミラが笑う。
フィーが頷く。
クラウスだけは少しも笑わなかった。
「革命は、誰かが責任を取る」
その声だけが少し重い。
「あなたは、それを背負える人ですか」
トンヌラは一瞬、言葉に詰まった。
(責められてる?)
(いや……試されてる?)
胸の奥がざわつく。
「……背負うさ」
わずかに遅れて答える。
言った瞬間。
山の奥で、何かが軋んだ。
クラウスの指先がぴくりと動く。
(やめろ)
(今はまだ、重くするな)
誰にも見えないように、空気を撫でる。
糸が、ほんの少しだけ逸れた。
トンヌラだけが、一瞬だけ違和感を覚える。
(今……なんか触った?)
だが次の瞬間には、もう分からなくなっていた。
⸻
しばらく歩いてから、クラウスがまた言う。
「あなたは、自分が何を壊しているか知らない」
「壊しているつもりはない」
「壊してますよ」
また即答だった。
「秩序を」
そこまで言うと、クラウスは急にいつもの調子に戻った。
「ここから少し険しくなります」
「切り替え早っ」
ミラが言う。
「そういう芸風ですか」
コムギが聞く。
「職業柄です」
「便利な言葉だな」
トンヌラが呟く。
「団長さんの“経験則”ほどでは」
「お前、俺への当たりが少し強いな」
「気のせいですよ」
少しだけ空気が緩む。
だが山は緩まない。
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赤い霧が、ほんのわずかに濃くなっていた。
まだ形はない。
まだ気配とも呼べない。
だが“重さ”だけが増している。
クラウスは前を見たまま、ぽつりと言った。
「私は……失敗しました」
誰も聞いていないようで、トンヌラだけが聞いている。
一瞬。
空気が凍る。
「世界を都合よく騙した」
軽く笑う。
「結果、私は“手品師”になりました」
白い廊下。
水晶の海。
無数の糸。
若い自分。
脳裏にだけ、一瞬それが蘇る。
「必要な犠牲です」
そう言った記憶が、いまだにどこにも消えていない。
山道へ戻る。
「私は正しかった」
クラウスは笑う。
「だから、間違えた」
トンヌラは黙る。
うまい言葉が出てこない。
でも、そこに冗談を挟む空気でもなかった。
「あなたは正しくない」
クラウスが言う。
「だから怖い」
立ち止まり、真正面からトンヌラを見る。
「だから――私が制御しないといけない」
トンヌラは眉をひそめる。
「この俺を、制御できるというのか?」
「はい」
クラウスは即答した。
(え……俺もしかして嫌われてる???)
内心だけがざわつく。
後ろからミラの声が飛ぶ。
「なに難しい顔してんのー?」
「団長さん、また何か言われました?」
コムギも聞く。
「別に」
トンヌラはすぐ返した。
「嘘ついてますね」
ミラが言う。
「顔が少しだけ傷ついてる」
「そんなに分かりやすいか」
「今日はちょっとだけ」
「珍しいです」
フィーが言う。
「何がだ」
「団長さんが、団長さんっぽいです」
「どういう意味だ」
「説明しにくいです」
コムギが言って、少しだけ笑った。
その笑いのすぐ後。
山の奥で、低い振動が鳴った。
誰も喋らなくなる。
まだ名はない。
だが重い。
ガルドが呼吸をひとつ置いて、前を向いた。
「……行きます」
低い声だった。
それだけで、全員の足が少しだけ揃う。
トンヌラは山の奥を見る。
見えない。
だが、いる。
そんな感じだけがある。
ここはレイアノーティア。
山は誰も忖度しない。
ただ、そこに積もる。
受けたものも、流さなかったものも、
言わずにいたものも、誰かの正しさも。
その重さが形を持つ時、
たぶんもう、立っているだけでは済まなくなる。
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第47話 了




