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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第5章 因果を縫う者 手品師 戦場守護者の赤

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第46話 微調整という名の慈悲

 ここはレイアノーティア。

 名は人を座らせ、役目は人を歩かせる。


 そして――

 誤差は、修正される。


 揃わないもの。

 外れるもの。

 帳簿に載らない揺らぎ。


 それらを丁寧に均していけば、世界はきっと美しく回る。

 少なくとも、そう信じている者たちはいる。



 世界調停機構コンダクターズ第一中枢。


 白い部屋の中央で、水晶卓が静かに光っていた。

 無数の因果線が糸のように垂れ下がり、遠い土地の風や人の選択を、淡い振動として映している。


 原初の山脈付近の糸だけが、わずかに濁っていた。


 ノインが一歩前に出る。


「メルグラフ北部。因果線の収束率、異常上昇」


 水晶の中で、細い糸が絡まり合っている。

 まだ破綻ではない。

 だが、自然な揺れ方ではなかった。


「傾向、確認」

 ノインが続ける。

「局所的に、回収圧が高まっています」

「規模は」

 エヴァンが問う。


 ピアノの前に座ったまま、視線だけを水晶へ向けていた。

 鍵盤にはまだ触れていない。


「局所」

 ノインは答える。

「ただし、集合化の兆しあり」


 エヴァンは静かに鍵盤を鳴らした。

 低音が、白い部屋へ短く落ちる。


「やはり、山へ向かったか」


 その声に焦りはない。

 むしろ、確認が一つ終わった時の静けさがあった。



 リリカが身を乗り出す。


「ぽめ、いますよね?」

「任務です」

 ノインの視線が刺さる。

「わかってます!」

 リリカは両手を上げる。

「でも、確認くらいしたっていいじゃないですか」

「よくないです」

「硬いなあ……」


 だが彼女の目は、すでに水晶の中を探していた。


 トンヌラ。

 ガルド。

 コムギ。

 フィー。

 ミラ。

 そして、部屋の端で丸くなっているぽめ。


 ノインの目が、ほんのわずかに細くなった。


「……一名、観測対象に変動」


 リリカが身を乗り出す。


「え?」


 ノインは淡々と記録を拡大する。


「同行者追加確認」


 水晶の表示が切り替わる。


 痩せ型。

 柔らかな笑み。

 軽い仕草。


 だが、その登録名を見た瞬間――リリカの顔から少しだけ軽さが消えた。


「……クラウス?」


リリカは目を丸くした。


「え、あのクラウスですか?」


 ノインは否定しない。


「識別一致率、高値」

「離脱記録以降、消息不明だった個体です」

「うわ……」


 リリカが思わず顔をしかめる。


「よりによって、そっち行ったんだ」


 ノインは水晶から目を離さない。


「元・調整補助要員」

「因果解釈精度は高い」

「現時点で敵対判定は保留」


 リリカが小さく呟く。


「保留っていうか……あれ、かなり嫌な再会じゃないですか」


 ノインは短く答える。


「裏切りではありません」

「選択です」


 その言い方だけが、わずかに硬かった。


 エヴァンは目を閉じたまま、静かに言う。


「なるほど」


 指先が鍵盤の上で一度だけ止まる。


「観測者ではなく、選択者の側へ落ちたか」


 リリカがそっと聞く。


「長官、戻しますか?」


 少しだけ間があった。


 やがてエヴァンは、いつも通りの温度で言う。


「いや」


「今はまだ、観る」


「彼が何をするつもりか。それを確認してからでいい」


 水晶の中で、クラウスはネームレスの少し後ろを歩いている。


 その立ち位置だけで、もう以前とは違って見えた。


「あ、いた」

 頬がわずかに緩む。

「やっぱり丸い……」

「リリカ」

 ノインが低く呼ぶ。

「はいはい、戻しますって」


 エヴァンは、小さく笑った。


「構わない」

「長官?」

 ノインがわずかに目を向ける。

「だが今は、触れないでくれ」


 リリカはすぐに頷いた。


「了解です。見るだけにします」

「それも十分私情です」

「見ない方が無理です」

「開き直りましたね」

「はい」



 エヴァンは水晶卓の縁を指でなぞった。


「誤差が増えている」

 低く言う。

「しかも、“踏み越える側”の誤差だ」


 水晶の糸が、トンヌラの周囲だけ少し奇妙な揺れ方をしている。

 世界が彼に意味を与えようとし、与えきれず、また組み直しているような揺れだった。


 ノインが淡々と告げる。


「対象コードN-LESS、依然として因果の順序を乱しています」

「うん」

 エヴァンは短く返した。

「だから、少し整える必要がある」


 リリカが首を傾げる。


「微調整ですね?」

「そうだ」


 エヴァンはもう一度、低く鍵盤を鳴らした。


「災いを“生まれやすく”する」

「顕現確率、60%上昇で十分かと」

 ノインが言う。

「いいや」

 エヴァンは首を振る。

「彼らは誤差を踏み越える」


 ピアノが一音。


「80%はないと、帳尻が合わない」


 その言葉と同時に、水晶の糸がほんのわずかに引かれた。


 遠く、原初の山脈。


 雲が流れを変える。

 風向きが、半度だけ傾く。

 湿度が、ほんの少しだけ滞る。


 それだけだった。

 だが、そういう“それだけ”の積み重ねで、災いは生まれやすくなる。



 リリカが楽しそうに笑う。


「今回は、何を使いますか?」

 エヴァンは目を閉じた。


「厄災だ」


 水晶の奥。

 山肌へ、黒い影が淡く滲む。

 姿は見えない。

 ただ――重い。


「厄災は、誰かの成功の裏側で育つ」

 エヴァンの声は静かだった。

「豊かさの陰。守られた記録。流さなかったもの」

 天井を見る。

「メルグラフにはうってつけの存在だ」


 ノインが確認する。


「対象、消去しますか?」


 一瞬だけ、エヴァンの視線がトンヌラへ向いた。

 水晶の中で、腕を組んでいる男。

 何も知らず、それでも中心に見える存在。


「しない」

 即答だった。

「観察対象だ」


 さらに、ほんの少しだけ口元を緩める。


「彼らがどう抗うか、よく見ておいてくれ」



 リリカがそっと呟く。


「ぽめ、山で暴れたりしませんかね」

「暴れない」

 ノインが即答する。

「言い切るんだ」


 エヴァンが小さく笑う。


「狂えば、世界が崩れる。だが……」


モノクルを触る。


「まだ、その時ではない」


 水晶の中で、ぽめが寝返りを打つ。


 糸がほんの一瞬だけ静まる。

 そしてまた、張り詰めた。


 リリカが目を細める。


「やっぱりあれ、丸いだけじゃないんだよなあ」

「丸いだけのものが、あそこまで厄介なわけないでしょう」

 ノインが言う。

「ですよねえ」

「だから見るなと言っているんです」

「無理です」

「知っています」

「わ、ノインがちょっと甘い」

「気のせいです」

「今ちょっとだけ優しかったですよね」

「気のせいです」

「二回言った」



 エヴァンは鍵盤を強く鳴らした。


 短い和音だった。


 その瞬間、水晶の奥で山脈の影が揺れ、血のような赤がほんの一瞬だけ滲んだ。

 だが、すぐに消える。


「まだ早い」

 エヴァンは微笑んだ。

「だが、芽は出た」


 ノインは水晶を見つめたまま言う。


「観測上、山道へ入るのは明日」

「二日以内に接触ですか」

 リリカが聞く。

「そうなる」

 ノインが答える。

「干渉は最小限に」

「はい」

 リリカは軽く敬礼した。


 だが、その声は少しだけ弾んでいた。


(ぽめに会える)


 ほんの一瞬だけ、そんな余計な感情が顔へ出る。

 ノインが見逃さない。


「仕事です」

「わかってるって」

「顔がわかってません」

「そこまで見ます?」

「見ます」

「やだなあ」

「遅いです」

「ほんと容赦ないな……」



 エヴァンは水晶へ、ほんの一瞬だけ指先を触れた。


 山の上空に、目に見えない圧力がかかる。

 雲が重くなる。

 風が止まる。


 それだけ。


 今はまだ、何も起きない。

 だが、起きやすくはなる。


「慈悲だよ」

 エヴァンが静かに言う。

「大きく壊す前に、小さく整える」

 ノインは何も言わない。

 リリカも、今度ばかりは口を挟まなかった。


 その“慈悲”が誰のためのものか、考えるほどの時間は、この部屋にはなかった。



 一方その頃。


 メルグラフの屋敷では、トンヌラたちが山行きの支度を整えていた。


 コムギが荷を確認している。

 フィーは気配を読むように窓の外を見ている。

 ミラはギターの弦を爪で軽く弾く。

 ガルドは立っている。

 ぽめは寝ている。


 トンヌラは腕を組んでいた。


 誰も知らない。

 今この瞬間、山の天候と空気が、ほんの少しだけ整えられたことを。


 ただ、嫌な予感だけが薄く漂っている。


「……静かですね」

 フィーが言う。

「ひぇー」

 コムギがすぐ返す。

「その言い方、最近だいぶ怖いんです」

「すみません」

 ミラが笑う。

「いつもより元気ないじゃん、コムギ」

「ありますよ! ちょっと」

「ちょっとだけなんだ」

「だって嫌ですし! 山も! 災いも! 空気も!」

「わかる」

 ミラが肩をすくめる。


 ガルドが低く言う。


「……少し、重いです」

 全員がそちらを見る。

「もう始まってます?」

 コムギが聞く。

「わかりません」

 ガルドは答える。

「でも、少しだけ」

「嫌な感じですね」

「はい」


 トンヌラは窓の外の山を見た。


(なんか、呼ばれてる感じがするな)


 もちろん口には出さない。

 出すと変なことになる気がしたからだ。


「準備を急ぐぞ」

 短く言う。


 その声に、四人はそれぞれ頷いた。



 ここはレイアノーティア。


 誤差は修正される完璧な世界。

 だが修正は、ときに災いを生む。


 山は静かだった。

 だが、静けさほど重い前触れはない。


 誰かが糸を引く。

 誰かが気づかず、それを踏む。

 誰かがその結果を受ける。


 そうして世界は、きれいに回る。

 ――はずだった。


 だが、そこに誤差を踏み越える者たちが立っている。

 だからこそ、微調整は少しずつ、厄介な形へ育っていく。



 第46話 了

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