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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第5章 因果を縫う者 手品師 戦場守護者の赤

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第45話 帳簿と空白

 ここはレイアノーティア。

 名は人を座らせ、役目は人を歩かせる。


 だが――

 帳簿に載らないものもある。


 並んだ数字。

 整理された損益。

 切り捨てられた誤差。


 それらの外側に残った空白は、たいてい後からいちばん重くなる。



 メルグラフの夜は静かだった。


 昼間あれほど賑わっていた通りも、屋敷の高い塀の内側までは届かない。

 窓の外では、遠くの荷車の軋みがごく薄く響いているだけだ。


 客室へ通された一行は、簡素ではないが、どこか落ち着かない部屋にいた。


 コムギは荷物を広げ、保存食の残量を確認している。

 フィーは窓辺で外気を吸い、屋敷の内外で空気の違いを測っていた。

 ミラは椅子の背にギターを立てかけたまま、ぼんやり天井を見ている。

 ガルドは壁際で立っていた。

 ぽめは丸い。


 トンヌラは腕を組んでいた。


「……妙だな」


 ガルドが先に反応する。


「何がですか」

「静かすぎる」

「高級なお屋敷ですし?」

 コムギが言う。

「そういう静けさではないです」

 フィーが窓の方を向いたまま答えた。

「人がいるのに、人の温度が薄いです」

 ミラが顔をしかめる。

「それ今日いちばん嫌な表現」


 コムギは手を止めた。


「でも、分かります」

「コムギさんも?」

「はい。食材が揃っていても、食卓の空気が死んでる家ってあるんです」

「それ、だいぶ怖いですね」

「怖いですよ。補給は量だけじゃないので」

「今日は真面目だな」

 トンヌラが言う。

「こういう時くらい真面目です!」

「普段も真面目では」

 フィーが言う。

「普段は明るいだけです!」

「自覚あるんだ」

 ミラが少し笑った。


 その笑いは長く続かなかった。


 廊下の向こうを、誰かが急ぎ足でパタパタと通った。足音は小さいが、妙に揃っていない。

 歩いているというより、急かされているみたいな足音だった。



 同じ頃。


 アルディウスは一人、書斎にいた。


 机の上には分厚い帳簿が積まれている。

 ろうそくの火が揺れ、紙の影を長く引いていた。


 彼は一冊を開き、数字を追う。

 穀物価格の推移。

 輸送費の変動。

 薬草流通の利益率。

 切り捨てた事業。

 再編した組織。

 救った市場。

 潰した市場。


 どれも間違っていない。

 少なくとも数字の上ではそうだった。


「……成功だ」


 小さく呟く。


 成功してきた。

 この街を豊かにしてきた。

 無駄を減らし、流通を整え、飢える者を減らした。

 そう信じてきた。


「必要なことだった」


 声に力がない。


 切った商会がある。

 追い出した人間がいる。

 畑を手放させた家もある。


 だがそれは、国のためだった。

 より豊かになるために。


「私は間違えていない」


 言葉は机に落ちた。

 返事はない。


 帳簿の余白に目が止まる。

 何も書かれていない欄。

 数字にならなかった部分。


 なぜか、そこだけが妙に広く見えた。


「……なぜ、私だけが」


 娘は立てない。

 食事も摂る。熱もない。

 それなのに、生きる力だけが薄れていく。


「罰を受ける」


 その言葉を口にした瞬間、自分で少しだけ息を呑んだ。


 罰。

 誰に。

 何の。


 答えは出ない。

 だが、その言葉はもう一度頭の中で鳴った。



 翌朝。


 屋敷の食堂へ通された一行は、並べられた朝食を前に妙な気分になっていた。


 香りはいい。

 パンは焼きたてだ。

 スープも薄すぎない。

 果物の鮮度も悪くない。


 コムギが無言で確認する。


「……ちゃんとしてます」

「なのに?」

 ミラが聞く。

「なのに、です」

 コムギが言う。

「ちゃんとしてるのに、心がこもっていないというか」

「また嫌な表現きた」

「でも、合ってます」

 フィーが小さく言った。


 給仕の手つきも丁寧だった。

 しかし目が少し虚ろだ。

 挨拶はする。

 動きも遅くない。

 けれど、そこに“生きている人の温度”が薄い。


 ガルドが低く言う。


「立ちにくいです」

「もうこの屋敷全体がそうなんですね」

 コムギが肩を落とす。

「はい」

「嫌だなあ」


 トンヌラは、給仕の去っていく背中を見た。


(あれも、昨日の裏路地と同じか)


 貧しいから虚ろなのではない。

 満ちているのに薄い。

 そこが余計に不気味だった。



 食事の途中、アルディウスが現れた。


 昨日より顔色が悪い。

 目の下には薄い隈がある。


「すまない」

 開口一番、それだった。

「昨夜、娘の様子が少し悪くなった」


 空気が止まる。


「何か変化が?」

 フィーが聞く。

「言葉が減った。視線も……」

 アルディウスは言い淀む。

「こちらを見ているはずなのに、どこか別のものを見ているようで」


 コムギが唇を噛んだ。


「早い方がいいですね」

「そうか」

「まずいことになっているかもしれません」


 アルディウスは数秒黙り、それからゆっくり頷いた。


「分かった。山へ向かう準備をしよう」

「即断ですね」

 ミラが少し意外そうに言う。

「迷っている時間がない」

 アルディウスの答えは短かった。


 トンヌラはその顔を見た。


 この男は、たぶん初めて“数字ではどうにもならないもの”の前に立っている。

 それでもまだ、決断だけはできる顔をしていた。


「いいだろう」

 トンヌラが言う。

「俺たちが行こう」

「団長さんが言うと、なんか決まった感じになりますね」

 ミラが言う。

「決まったんだろう」

「まあ、そうなんだけど」



 その時だった。


 食堂の外、開け放たれた窓の向こうで、小さな物音がした。


 誰かが塀の外にいる。


 フィーが真っ先に気づく。

 トンヌラたちも視線を向けた。


 昨日、裏路地で見たのと同じような、虚ろな目の子供が立っていた。

 痩せてはいない。

 だが薄い。


 ただ、こちらを見ている。


 アルディウスは振り向いた。

 だが、ほんの一瞬見ただけで、目を逸らした。


 見えなかったのではない。

 見ないふりをしたのでもない。

 もっと曖昧な、“認識の外へ押し出した”みたいな視線だった。


 コムギが小さく息を呑む。


「……同じです」

「うん」

 フィーが答える。

「この屋敷の中も、外も」

「繋がってる」

 ミラが低く言った。


 トンヌラは黙っていた。


 子供の顔と、アルディウスの横顔を見比べる。


(帳簿に載らないものって、ああいうことか)


 うまく言葉にはならない。

 だが、そういう嫌な繋がりだけは分かった。



 その後、山行きの準備が始まった。


 使用人たちが慌ただしく動く。

 馬の手配。

 保存食。

 山道用の外套。

 水筒。

 縄。

 薬草。


 全部揃っている。

 全部正しい。

 だがどこか、空気だけが死んでいる。


 コムギは荷の確認をしながら、ぼそりと呟いた。


「揃ってるんですよね」

「うん」

 ミラが答える。

「わかります」

 フィーが頷く。


 ガルドは窓の外を見た。


「……あれ」


 全員がそちらを見る。


 塀の外にいた子供が、もういない。


 だが、その場に置かれた空の椀だけが残っていた。


 風もないのに、椀がほんの少し揺れた。


 カタ、と小さく鳴る。


 フィーの肩がわずかに強張る。


「今の」

「うん」

 ミラも言う。

「嫌」


 トンヌラは腕を組んだ。


「急ぐぞ」

 短く言う。

「これ以上、待って良くなる気がしない」


 誰も異論はなかった。



 その日の午後。


 出立前の慌ただしさが屋敷を包む中、キィと、書斎の扉が軽く鳴った。


 コツ。

 コツ。


 整った足音だった。


 軽い。

 だが、この屋敷の沈んだ空気には妙に響く音だった。


「山道なら、案内できますよ」


 アルディウスが顔を上げる。


 書斎の入口に、痩せ型の青年が立っていた。

 柔らかな笑みに、召使いの服装。

 けれど立ち方だけが、妙にこの屋敷へ馴染みきっていない。


「……誰だ」

 トンヌラが反射的に言う。


 青年は軽く一礼した。


「クラウスと申します。職業は、しがない手品師ですが」


 指先で空気を撫でる。


 次の瞬間、アルディウスが机に置いていた懐中時計が、いつの間にかその指の間にあった。


 カチ、と蓋が鳴る。


「荷物持ちくらいならできますよ」

 穏やかに笑う。

「それに、山道は少し慣れています」


 その笑みは柔らかい。

 だが、目の奥だけが少し暗い。


 ぽめが、部屋の隅で一瞬だけ目を開けた。


「……」


 クラウスを見る。


 そして、また寝た。


「すぴ」


 

ミラが眉を上げる。

「なんか増えた」

「不満か?」

 トンヌラが言う。

「いや急すぎるでしょ」

「否定はしません」

 フィーが静かに答える。


「うちの召使いだ。山へ行くなら使ってくれ」


 アルディウスが疲れたように息を吐く。


「報酬は払う。娘を助けてほしい」


 クラウスは肩をすくめた。


「使われるのは、まあ慣れています」


 軽い口調だった。

 だが、その一言だけが少し重かった。



 こうして、五人と一匹に、もう一人が加わることになった。


 ここはレイアノーティア。


 数字は正しい。

 正しさは秩序を作る。


 だが――

 帳簿に載らない空白だけが、

 ある日いちばん重い形で返ってくることがある。


 そして今、その空白の縁に立つ男が、

 静かにこちらへ歩いてきた。



 第45話 了

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