第45話 帳簿と空白
ここはレイアノーティア。
名は人を座らせ、役目は人を歩かせる。
だが――
帳簿に載らないものもある。
並んだ数字。
整理された損益。
切り捨てられた誤差。
それらの外側に残った空白は、たいてい後からいちばん重くなる。
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メルグラフの夜は静かだった。
昼間あれほど賑わっていた通りも、屋敷の高い塀の内側までは届かない。
窓の外では、遠くの荷車の軋みがごく薄く響いているだけだ。
客室へ通された一行は、簡素ではないが、どこか落ち着かない部屋にいた。
コムギは荷物を広げ、保存食の残量を確認している。
フィーは窓辺で外気を吸い、屋敷の内外で空気の違いを測っていた。
ミラは椅子の背にギターを立てかけたまま、ぼんやり天井を見ている。
ガルドは壁際で立っていた。
ぽめは丸い。
トンヌラは腕を組んでいた。
「……妙だな」
ガルドが先に反応する。
「何がですか」
「静かすぎる」
「高級なお屋敷ですし?」
コムギが言う。
「そういう静けさではないです」
フィーが窓の方を向いたまま答えた。
「人がいるのに、人の温度が薄いです」
ミラが顔をしかめる。
「それ今日いちばん嫌な表現」
コムギは手を止めた。
「でも、分かります」
「コムギさんも?」
「はい。食材が揃っていても、食卓の空気が死んでる家ってあるんです」
「それ、だいぶ怖いですね」
「怖いですよ。補給は量だけじゃないので」
「今日は真面目だな」
トンヌラが言う。
「こういう時くらい真面目です!」
「普段も真面目では」
フィーが言う。
「普段は明るいだけです!」
「自覚あるんだ」
ミラが少し笑った。
その笑いは長く続かなかった。
廊下の向こうを、誰かが急ぎ足でパタパタと通った。足音は小さいが、妙に揃っていない。
歩いているというより、急かされているみたいな足音だった。
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同じ頃。
アルディウスは一人、書斎にいた。
机の上には分厚い帳簿が積まれている。
ろうそくの火が揺れ、紙の影を長く引いていた。
彼は一冊を開き、数字を追う。
穀物価格の推移。
輸送費の変動。
薬草流通の利益率。
切り捨てた事業。
再編した組織。
救った市場。
潰した市場。
どれも間違っていない。
少なくとも数字の上ではそうだった。
「……成功だ」
小さく呟く。
成功してきた。
この街を豊かにしてきた。
無駄を減らし、流通を整え、飢える者を減らした。
そう信じてきた。
「必要なことだった」
声に力がない。
切った商会がある。
追い出した人間がいる。
畑を手放させた家もある。
だがそれは、国のためだった。
より豊かになるために。
「私は間違えていない」
言葉は机に落ちた。
返事はない。
帳簿の余白に目が止まる。
何も書かれていない欄。
数字にならなかった部分。
なぜか、そこだけが妙に広く見えた。
「……なぜ、私だけが」
娘は立てない。
食事も摂る。熱もない。
それなのに、生きる力だけが薄れていく。
「罰を受ける」
その言葉を口にした瞬間、自分で少しだけ息を呑んだ。
罰。
誰に。
何の。
答えは出ない。
だが、その言葉はもう一度頭の中で鳴った。
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翌朝。
屋敷の食堂へ通された一行は、並べられた朝食を前に妙な気分になっていた。
香りはいい。
パンは焼きたてだ。
スープも薄すぎない。
果物の鮮度も悪くない。
コムギが無言で確認する。
「……ちゃんとしてます」
「なのに?」
ミラが聞く。
「なのに、です」
コムギが言う。
「ちゃんとしてるのに、心がこもっていないというか」
「また嫌な表現きた」
「でも、合ってます」
フィーが小さく言った。
給仕の手つきも丁寧だった。
しかし目が少し虚ろだ。
挨拶はする。
動きも遅くない。
けれど、そこに“生きている人の温度”が薄い。
ガルドが低く言う。
「立ちにくいです」
「もうこの屋敷全体がそうなんですね」
コムギが肩を落とす。
「はい」
「嫌だなあ」
トンヌラは、給仕の去っていく背中を見た。
(あれも、昨日の裏路地と同じか)
貧しいから虚ろなのではない。
満ちているのに薄い。
そこが余計に不気味だった。
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食事の途中、アルディウスが現れた。
昨日より顔色が悪い。
目の下には薄い隈がある。
「すまない」
開口一番、それだった。
「昨夜、娘の様子が少し悪くなった」
空気が止まる。
「何か変化が?」
フィーが聞く。
「言葉が減った。視線も……」
アルディウスは言い淀む。
「こちらを見ているはずなのに、どこか別のものを見ているようで」
コムギが唇を噛んだ。
「早い方がいいですね」
「そうか」
「まずいことになっているかもしれません」
アルディウスは数秒黙り、それからゆっくり頷いた。
「分かった。山へ向かう準備をしよう」
「即断ですね」
ミラが少し意外そうに言う。
「迷っている時間がない」
アルディウスの答えは短かった。
トンヌラはその顔を見た。
この男は、たぶん初めて“数字ではどうにもならないもの”の前に立っている。
それでもまだ、決断だけはできる顔をしていた。
「いいだろう」
トンヌラが言う。
「俺たちが行こう」
「団長さんが言うと、なんか決まった感じになりますね」
ミラが言う。
「決まったんだろう」
「まあ、そうなんだけど」
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その時だった。
食堂の外、開け放たれた窓の向こうで、小さな物音がした。
誰かが塀の外にいる。
フィーが真っ先に気づく。
トンヌラたちも視線を向けた。
昨日、裏路地で見たのと同じような、虚ろな目の子供が立っていた。
痩せてはいない。
だが薄い。
ただ、こちらを見ている。
アルディウスは振り向いた。
だが、ほんの一瞬見ただけで、目を逸らした。
見えなかったのではない。
見ないふりをしたのでもない。
もっと曖昧な、“認識の外へ押し出した”みたいな視線だった。
コムギが小さく息を呑む。
「……同じです」
「うん」
フィーが答える。
「この屋敷の中も、外も」
「繋がってる」
ミラが低く言った。
トンヌラは黙っていた。
子供の顔と、アルディウスの横顔を見比べる。
(帳簿に載らないものって、ああいうことか)
うまく言葉にはならない。
だが、そういう嫌な繋がりだけは分かった。
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その後、山行きの準備が始まった。
使用人たちが慌ただしく動く。
馬の手配。
保存食。
山道用の外套。
水筒。
縄。
薬草。
全部揃っている。
全部正しい。
だがどこか、空気だけが死んでいる。
コムギは荷の確認をしながら、ぼそりと呟いた。
「揃ってるんですよね」
「うん」
ミラが答える。
「わかります」
フィーが頷く。
ガルドは窓の外を見た。
「……あれ」
全員がそちらを見る。
塀の外にいた子供が、もういない。
だが、その場に置かれた空の椀だけが残っていた。
風もないのに、椀がほんの少し揺れた。
カタ、と小さく鳴る。
フィーの肩がわずかに強張る。
「今の」
「うん」
ミラも言う。
「嫌」
トンヌラは腕を組んだ。
「急ぐぞ」
短く言う。
「これ以上、待って良くなる気がしない」
誰も異論はなかった。
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その日の午後。
出立前の慌ただしさが屋敷を包む中、キィと、書斎の扉が軽く鳴った。
コツ。
コツ。
整った足音だった。
軽い。
だが、この屋敷の沈んだ空気には妙に響く音だった。
「山道なら、案内できますよ」
アルディウスが顔を上げる。
書斎の入口に、痩せ型の青年が立っていた。
柔らかな笑みに、召使いの服装。
けれど立ち方だけが、妙にこの屋敷へ馴染みきっていない。
「……誰だ」
トンヌラが反射的に言う。
青年は軽く一礼した。
「クラウスと申します。職業は、しがない手品師ですが」
指先で空気を撫でる。
次の瞬間、アルディウスが机に置いていた懐中時計が、いつの間にかその指の間にあった。
カチ、と蓋が鳴る。
「荷物持ちくらいならできますよ」
穏やかに笑う。
「それに、山道は少し慣れています」
その笑みは柔らかい。
だが、目の奥だけが少し暗い。
ぽめが、部屋の隅で一瞬だけ目を開けた。
「……」
クラウスを見る。
そして、また寝た。
「すぴ」
ミラが眉を上げる。
「なんか増えた」
「不満か?」
トンヌラが言う。
「いや急すぎるでしょ」
「否定はしません」
フィーが静かに答える。
「うちの召使いだ。山へ行くなら使ってくれ」
アルディウスが疲れたように息を吐く。
「報酬は払う。娘を助けてほしい」
クラウスは肩をすくめた。
「使われるのは、まあ慣れています」
軽い口調だった。
だが、その一言だけが少し重かった。
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こうして、五人と一匹に、もう一人が加わることになった。
ここはレイアノーティア。
数字は正しい。
正しさは秩序を作る。
だが――
帳簿に載らない空白だけが、
ある日いちばん重い形で返ってくることがある。
そして今、その空白の縁に立つ男が、
静かにこちらへ歩いてきた。
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第45話 了




