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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第5章 因果を縫う者 手品師 戦場守護者の赤

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第44話 削がれているもの

 ここはレイアノーティア。

 名は人を座らせ、役目は人を歩かせる。


 だが、生きる気力だけは、

 名前でも役目でも支えきれないことがある。


 食べている。

 眠れている。

 息もしている。

 それなのに立てない時、人はたぶん、目に見えないものを削られている。



 アルディウスの屋敷は、街の空気をそのまま大きくしたような場所だった。


 門は高く、庭は整えられ、石畳には無駄な割れひとつない。

 噴水の水音すら、計算されて配置されているみたいだった。


 豊かさというより、管理の匂いがする。


 コムギは門をくぐった瞬間に、小さく周囲を見回した。


「すごいですね」

「何がだ」

 トンヌラが聞く。

「食材の搬入動線が綺麗です」

「そこか」

「大事です!」

「コムギさんらしいですね」

 フィーが言う。

「褒めてます?」

「半分くらいは」

「最近みんな、それ好きですよね……」


 ミラは庭の奥を見ながら肩をすくめた。


「住みにくそう」

「えっ、そうですか?」

 コムギが驚く。

「綺麗すぎる家って息苦しくない?」

「俺は、立ちにくいです」

 ガルドが静かに言った。

「ガルドさん、その感想ほんと信用度高いですよね」

「事実なので」

「便利な言葉だな、それ」

 ミラが笑う。


 アルディウスは振り返らなかった。

 こちらの会話を聞いていないのか、聞こえていても余裕がないのか、その両方かもしれない。


「娘の部屋は二階だ」

 声音だけが硬い。

「どうか……頼む」


 それは支配者の命令ではなく、もうほとんど懇願だった。



 寝室は、静かだった。


 薄い光。

 重たいカーテン。

 香の匂い。

 柔らかな天蓋。


 豪奢な部屋なのに、温かさがない。

 生活の気配より、守ろうとした痕跡の方が強い。


 天蓋の下、少女が横たわっていた。


「エリシアだ」


 アルディウスの声が少しだけ掠れる。


 痩せてはいない。

 頬もこけていない。

 外傷も見当たらない。


 だが、動かない。


 目は開いている。

 意識もある。

 それなのに、何かひとつ足りないだけで、人はここまで“生きていないように”見えるのかと、ミラは思った。


「食事も摂る。熱もない」

 アルディウスが言う。

「だが……立てない。歩けない。何をするにも遅い」


 コムギが近づく。


「失礼します」


 手首に触れ、脈を見る。

 爪の色。

 唇の乾き。

 呼吸の深さ。

 腹部のやせ方。

 顔色。


 かなり集中していた。


 フィーも反対側へ回り、そっと呼吸を見ている。

 喉の上下。

 胸の広がり。

 瞳の揺れ。

 生き物としての律動。


 しばらく、誰も喋らなかった。


 ミラがじっと待ち、ガルドは扉の近くで立ったまま警戒している。

 トンヌラは腕を組んで、いかにも何か見抜いていそうな顔でいる。

 実際には、何となく普通じゃないということしか分かっていない。


 ぽめだけが、部屋の隅で丸かった。



 最初に口を開いたのはコムギだった。


「……栄養状態は悪くありません」


 アルディウスの顔が揺れる。


「本当か」

「はい。少なくとも、栄養不足でこうなっている感じではないです」

「じゃあ何なんだ」

「まだそこまでは」

 コムギは慎重に言葉を選ぶ。

「でも、“足りていない”という感じではないんです」


 フィーも小さく頷いた。


「脈も弱くないです」

「熱も?」

 ミラが聞く。

「ありません」

「じゃあ本当に何なの」

「分からないから困ってるんだろう」

 トンヌラが言う。

「団長さん、今そこ整理しなくていいです」

 コムギがすぐ返した。

「事実だ」

「今は優しさを優先してください!」


 そのやり取りにも、エリシアはほとんど反応しなかった。


 反応がないわけではない。

 ただ、反応が“届くまで少し遠い”。


 トンヌラはそこに引っかかった。


 少女の目が、わずかにこちらへ向く。

 でも焦点が合いきらない。

 音を聞いているのに、意味へ辿り着く前で少し薄くなっている。


(揃っていない)


 ふと、そう思う。


 ミラも同じような顔をしていた。


 あの“拍が外れた夜”に似たものを、この部屋にも感じている顔だった。



「……エリシア」


 アルディウスが呼ぶ。


 少女の睫毛がかすかに動く。

 返事はない。

 だが、完全に無反応でもない。


「聞こえているか」

「……お、おさま……」

 コムギが慌てて訂正する。

「お父さま、って言いたいんですよね!?」

「静かに」

 フィーが小さく制した。


 エリシアの唇が、少しだけ開く。


「……だい、じょうぶ」


 声は細い。

 言葉の形はある。

 だが、“大丈夫”と言うための力だけを、ぎりぎりで集めたみたいな弱々しい声だった。


 ミラの眉が寄る。


「全然大丈夫じゃなさそうなんだけど」

「私もそう思います」

 コムギが即答する。

「でも、大丈夫と言う人ほど、大丈夫じゃない時あります」


 フィーが頷いた。


 アルディウスが娘の手を握る。


「無理に喋らなくていい」

 声が震えていた。

「助ける。必ず助けるから」


 その言葉に、エリシアの指がほんの少しだけ動く。

 だが握り返すには届かない。



 コムギはゆっくり立ち上がった。


 いつもの元気な軽さではなく、少しだけ重い顔だった。


「これは……欠乏ではありません」


 部屋の空気が止まる。


「欠乏ではない?」

 アルディウスが聞く。


 コムギは頷いた。


「はい。足りないんじゃないんです。削がれています」


 ミラが顔を上げる。

「何を」

「生きる気力そのものです」

 コムギは静かに答えた。


 その言葉に、誰よりも先にフィーが小さく息を呑んだ。


「同じ、ですね」

「同じ?」

 アルディウスが振り向く。

「裏路地の子たちです」

 フィーは部屋の窓の向こうを見た。

「あの子たちも、お腹が空いているというより……“薄い”感じがしたんです」

「薄い」

「生きようとする力が」

「そんなものまで分かるのか」

 トンヌラが聞く。

「全部じゃないです」

 フィーは正直に言う。

「でも、そういう時の呼吸や目の感じは注意深く見たらわかります」


 ミラがギターの肩紐を握り直す。


「最悪じゃん」


 短い言葉だったが、それで十分だった。


 コムギも静かに続ける。


「今の私では、どうにもできません」

「そんな……」

 アルディウスの顔から色が引く。

「食事を整えることはできます。体力を落とさない工夫もできます。けどこれは、栄養を足せば済む話じゃないんです」

「じゃあ娘は」

「分かりません」

 コムギは目を伏せなかった。

「このままなら、意思そのものが希薄で、ずっと寝たきりになる可能性があります」


 アルディウスの拳が震える。


「命に別状は?」

「今すぐではありません」

 フィーが答える。

「でも“生きる”気力が少しずつ無くなっていく感じです」

「なんだそれは……」


 部屋の空気が重くなる。



 その時。


 エリシアの目が、ふと天井の方へ向いた。


 何もない空間を見ている。

 いや、何もないはずの場所を見ている。


「……あそこ」


 小さな声だった。


 全員の視線が上がる。


 もちろん、天井には何もない。

 豪奢な装飾と薄い影があるだけだ。


 だが、フィーが先に反応した。


「……揺れてる」

「え?」

 コムギが顔を上げる。

「何が」

「空気が」

 フィーの声は低い。

「ほんの少しだけ」


 ミラも目を凝らした。

 音の人間の直感で分かる。

 視界ではなく、場の拍が微妙に外れている感じ。


「……やだ」

「見えるんですか?」

 コムギが聞く。

「気持ち悪い」

「わかります」

 フィーが頷く。


 トンヌラも天井を見た。


 何も分からない。

 だが、何もない場所を全員が見ている時点で嫌だった。


(やばいな、これ)


 顔には出さない。

 出さないまま、少しだけ顎を上げる。


「普通ではないな」

「今さらだけどね」

 ミラが返した。



 コムギは窓の外を見た。


 遠くに、山脈が見える。

 青く連なる山並み。

 静かすぎる影。

 レイアノーティアが生まれた遥か太古。人の起源と言い伝えられる、原初の山脈。


「……原初の葡萄」

 ぽつりと呟く。


 アルディウスが顔を上げる。


「何だ」

「聞いたことがあります」

 コムギはゆっくり言葉を繋ぐ。

「原初の山脈のどこかにある葡萄です。活力を呼び戻す力があるって」

「伝承では?」

「そうかもしれません」

「それで救えるのか」

「分かりません」

 コムギは正直だった。

「でも、今ある手段の中では、いちばん可能性があります」


 アルディウスは沈黙した。


 その横顔に、富豪の計算はもう残っていない。

 ただ、父親の迷いと恐れだけがある。


「山は危険だ」

 ようやく出た言葉はそれだった。

「最近、“災い”が出るという話もある」

「出るんだろうな」

 トンヌラが呟く。

「団長さん、そういうところ妙に説得力ありますよね」

 ミラが言う。

「経験則だ」

「何の経験なんですか」

「嫌な予感はだいたい当たる」

「それは少し分かります」

 フィーが真顔で頷いた。

「フィーさんは乗らないでください! 余計怖いです!」

 コムギが半泣きで言う。


 だが、冗談めいた空気はすぐ消えた。


 エリシアが、また天井を見ていたからだ。


 何かが少しずつ、削れていく。

 その時間が、もう始まっている。



 アルディウスが深く頭を下げた。


「頼む」


 その姿は連邦の支配者ではなく、ただの父親だった。


「娘を助けてほしい」


 トンヌラたちは答えない。

 すぐに答えられる話ではない。


 けれど、誰も断る顔もしていなかった。


 コムギは拳を握る。

 フィーはエリシアの呼吸をもう一度見る。

 ミラは天井の違和感から目を離さない。

 ガルドは静かに立ち、トンヌラは腕を組んでいる。


 ぽめだけが、部屋の隅で丸い。


「……すぴ」


 いつもの無責任さだった。

 だがその丸さだけが、逆にこの部屋の異様さを際立たせていた。


 ここはレイアノーティア。

 足りているのに、満たされないものがある。


 削がれているのは、命ではない。

 もっと静かで、もっと厄介な何かだ。


 だからこそ、それを取り戻す道は、

 たぶん少し遠くて、少し危ない場所にしかない。



 第44話 了

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