第44話 削がれているもの
ここはレイアノーティア。
名は人を座らせ、役目は人を歩かせる。
だが、生きる気力だけは、
名前でも役目でも支えきれないことがある。
食べている。
眠れている。
息もしている。
それなのに立てない時、人はたぶん、目に見えないものを削られている。
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アルディウスの屋敷は、街の空気をそのまま大きくしたような場所だった。
門は高く、庭は整えられ、石畳には無駄な割れひとつない。
噴水の水音すら、計算されて配置されているみたいだった。
豊かさというより、管理の匂いがする。
コムギは門をくぐった瞬間に、小さく周囲を見回した。
「すごいですね」
「何がだ」
トンヌラが聞く。
「食材の搬入動線が綺麗です」
「そこか」
「大事です!」
「コムギさんらしいですね」
フィーが言う。
「褒めてます?」
「半分くらいは」
「最近みんな、それ好きですよね……」
ミラは庭の奥を見ながら肩をすくめた。
「住みにくそう」
「えっ、そうですか?」
コムギが驚く。
「綺麗すぎる家って息苦しくない?」
「俺は、立ちにくいです」
ガルドが静かに言った。
「ガルドさん、その感想ほんと信用度高いですよね」
「事実なので」
「便利な言葉だな、それ」
ミラが笑う。
アルディウスは振り返らなかった。
こちらの会話を聞いていないのか、聞こえていても余裕がないのか、その両方かもしれない。
「娘の部屋は二階だ」
声音だけが硬い。
「どうか……頼む」
それは支配者の命令ではなく、もうほとんど懇願だった。
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寝室は、静かだった。
薄い光。
重たいカーテン。
香の匂い。
柔らかな天蓋。
豪奢な部屋なのに、温かさがない。
生活の気配より、守ろうとした痕跡の方が強い。
天蓋の下、少女が横たわっていた。
「エリシアだ」
アルディウスの声が少しだけ掠れる。
痩せてはいない。
頬もこけていない。
外傷も見当たらない。
だが、動かない。
目は開いている。
意識もある。
それなのに、何かひとつ足りないだけで、人はここまで“生きていないように”見えるのかと、ミラは思った。
「食事も摂る。熱もない」
アルディウスが言う。
「だが……立てない。歩けない。何をするにも遅い」
コムギが近づく。
「失礼します」
手首に触れ、脈を見る。
爪の色。
唇の乾き。
呼吸の深さ。
腹部のやせ方。
顔色。
かなり集中していた。
フィーも反対側へ回り、そっと呼吸を見ている。
喉の上下。
胸の広がり。
瞳の揺れ。
生き物としての律動。
しばらく、誰も喋らなかった。
ミラがじっと待ち、ガルドは扉の近くで立ったまま警戒している。
トンヌラは腕を組んで、いかにも何か見抜いていそうな顔でいる。
実際には、何となく普通じゃないということしか分かっていない。
ぽめだけが、部屋の隅で丸かった。
⸻
最初に口を開いたのはコムギだった。
「……栄養状態は悪くありません」
アルディウスの顔が揺れる。
「本当か」
「はい。少なくとも、栄養不足でこうなっている感じではないです」
「じゃあ何なんだ」
「まだそこまでは」
コムギは慎重に言葉を選ぶ。
「でも、“足りていない”という感じではないんです」
フィーも小さく頷いた。
「脈も弱くないです」
「熱も?」
ミラが聞く。
「ありません」
「じゃあ本当に何なの」
「分からないから困ってるんだろう」
トンヌラが言う。
「団長さん、今そこ整理しなくていいです」
コムギがすぐ返した。
「事実だ」
「今は優しさを優先してください!」
そのやり取りにも、エリシアはほとんど反応しなかった。
反応がないわけではない。
ただ、反応が“届くまで少し遠い”。
トンヌラはそこに引っかかった。
少女の目が、わずかにこちらへ向く。
でも焦点が合いきらない。
音を聞いているのに、意味へ辿り着く前で少し薄くなっている。
(揃っていない)
ふと、そう思う。
ミラも同じような顔をしていた。
あの“拍が外れた夜”に似たものを、この部屋にも感じている顔だった。
⸻
「……エリシア」
アルディウスが呼ぶ。
少女の睫毛がかすかに動く。
返事はない。
だが、完全に無反応でもない。
「聞こえているか」
「……お、おさま……」
コムギが慌てて訂正する。
「お父さま、って言いたいんですよね!?」
「静かに」
フィーが小さく制した。
エリシアの唇が、少しだけ開く。
「……だい、じょうぶ」
声は細い。
言葉の形はある。
だが、“大丈夫”と言うための力だけを、ぎりぎりで集めたみたいな弱々しい声だった。
ミラの眉が寄る。
「全然大丈夫じゃなさそうなんだけど」
「私もそう思います」
コムギが即答する。
「でも、大丈夫と言う人ほど、大丈夫じゃない時あります」
フィーが頷いた。
アルディウスが娘の手を握る。
「無理に喋らなくていい」
声が震えていた。
「助ける。必ず助けるから」
その言葉に、エリシアの指がほんの少しだけ動く。
だが握り返すには届かない。
⸻
コムギはゆっくり立ち上がった。
いつもの元気な軽さではなく、少しだけ重い顔だった。
「これは……欠乏ではありません」
部屋の空気が止まる。
「欠乏ではない?」
アルディウスが聞く。
コムギは頷いた。
「はい。足りないんじゃないんです。削がれています」
ミラが顔を上げる。
「何を」
「生きる気力そのものです」
コムギは静かに答えた。
その言葉に、誰よりも先にフィーが小さく息を呑んだ。
「同じ、ですね」
「同じ?」
アルディウスが振り向く。
「裏路地の子たちです」
フィーは部屋の窓の向こうを見た。
「あの子たちも、お腹が空いているというより……“薄い”感じがしたんです」
「薄い」
「生きようとする力が」
「そんなものまで分かるのか」
トンヌラが聞く。
「全部じゃないです」
フィーは正直に言う。
「でも、そういう時の呼吸や目の感じは注意深く見たらわかります」
ミラがギターの肩紐を握り直す。
「最悪じゃん」
短い言葉だったが、それで十分だった。
コムギも静かに続ける。
「今の私では、どうにもできません」
「そんな……」
アルディウスの顔から色が引く。
「食事を整えることはできます。体力を落とさない工夫もできます。けどこれは、栄養を足せば済む話じゃないんです」
「じゃあ娘は」
「分かりません」
コムギは目を伏せなかった。
「このままなら、意思そのものが希薄で、ずっと寝たきりになる可能性があります」
アルディウスの拳が震える。
「命に別状は?」
「今すぐではありません」
フィーが答える。
「でも“生きる”気力が少しずつ無くなっていく感じです」
「なんだそれは……」
部屋の空気が重くなる。
⸻
その時。
エリシアの目が、ふと天井の方へ向いた。
何もない空間を見ている。
いや、何もないはずの場所を見ている。
「……あそこ」
小さな声だった。
全員の視線が上がる。
もちろん、天井には何もない。
豪奢な装飾と薄い影があるだけだ。
だが、フィーが先に反応した。
「……揺れてる」
「え?」
コムギが顔を上げる。
「何が」
「空気が」
フィーの声は低い。
「ほんの少しだけ」
ミラも目を凝らした。
音の人間の直感で分かる。
視界ではなく、場の拍が微妙に外れている感じ。
「……やだ」
「見えるんですか?」
コムギが聞く。
「気持ち悪い」
「わかります」
フィーが頷く。
トンヌラも天井を見た。
何も分からない。
だが、何もない場所を全員が見ている時点で嫌だった。
(やばいな、これ)
顔には出さない。
出さないまま、少しだけ顎を上げる。
「普通ではないな」
「今さらだけどね」
ミラが返した。
⸻
コムギは窓の外を見た。
遠くに、山脈が見える。
青く連なる山並み。
静かすぎる影。
レイアノーティアが生まれた遥か太古。人の起源と言い伝えられる、原初の山脈。
「……原初の葡萄」
ぽつりと呟く。
アルディウスが顔を上げる。
「何だ」
「聞いたことがあります」
コムギはゆっくり言葉を繋ぐ。
「原初の山脈のどこかにある葡萄です。活力を呼び戻す力があるって」
「伝承では?」
「そうかもしれません」
「それで救えるのか」
「分かりません」
コムギは正直だった。
「でも、今ある手段の中では、いちばん可能性があります」
アルディウスは沈黙した。
その横顔に、富豪の計算はもう残っていない。
ただ、父親の迷いと恐れだけがある。
「山は危険だ」
ようやく出た言葉はそれだった。
「最近、“災い”が出るという話もある」
「出るんだろうな」
トンヌラが呟く。
「団長さん、そういうところ妙に説得力ありますよね」
ミラが言う。
「経験則だ」
「何の経験なんですか」
「嫌な予感はだいたい当たる」
「それは少し分かります」
フィーが真顔で頷いた。
「フィーさんは乗らないでください! 余計怖いです!」
コムギが半泣きで言う。
だが、冗談めいた空気はすぐ消えた。
エリシアが、また天井を見ていたからだ。
何かが少しずつ、削れていく。
その時間が、もう始まっている。
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アルディウスが深く頭を下げた。
「頼む」
その姿は連邦の支配者ではなく、ただの父親だった。
「娘を助けてほしい」
トンヌラたちは答えない。
すぐに答えられる話ではない。
けれど、誰も断る顔もしていなかった。
コムギは拳を握る。
フィーはエリシアの呼吸をもう一度見る。
ミラは天井の違和感から目を離さない。
ガルドは静かに立ち、トンヌラは腕を組んでいる。
ぽめだけが、部屋の隅で丸い。
「……すぴ」
いつもの無責任さだった。
だがその丸さだけが、逆にこの部屋の異様さを際立たせていた。
ここはレイアノーティア。
足りているのに、満たされないものがある。
削がれているのは、命ではない。
もっと静かで、もっと厄介な何かだ。
だからこそ、それを取り戻す道は、
たぶん少し遠くて、少し危ない場所にしかない。
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第44話 了




