第43話 栄養と空腹の街
ここはレイアノーティア。
名は人を座らせ、役目は人を歩かせる。
そして数字は、人を安心させる。
足りている。回っている。問題ない。
そう言い切れるだけの数が並べば、人はだいたい少しだけ安心する。
だが、ときどき数字は、
足りていないものを上手く隠す。
⸻
メルグラフ連邦は、遠くから見ても整った国だった。
街道は広い。
荷車は詰まらず流れ、門の出入りは速く、見張りの目も行き届いている。
無駄が少ない、洗練された国。
中へ入れば、なおさらだった。
石畳は広く、道は真っ直ぐ。
倉庫の壁には穀物袋が積まれ、荷札の紐は色ごとに分けられている。
秤が揺れ、帳簿が開き、商人たちの声が絶えず飛び交っていた。
ここでは剣よりも、数字の方が強い。
どれだけ運べるか。
どれだけ残るか。
どれだけ損を減らせるか。
それをきっちり回せる者が、この街では強者だった。
「……いい匂い」
ミラが鼻を鳴らした。
焼きたてのパン。
煮込み肉。
甘い果実の香り。
香辛料と油の熱が、風に混ざって流れていく。
食の都、という触れ込みは伊達ではないらしい。
コムギの目が、静かに輝いた。
「油の温度管理が完璧ですね」
「どこ見てるんですか」
ミラが即座に突っ込む。
「大事なところです!」
コムギは真顔だった。
「香りの立ち方が安定してます。あと揚げ音が均一!」
「違いが全然分からん」
トンヌラが言う。
「団長さんは分からなくていいです」
「急に切るな」
「私の担当領域なので!」
「それはそうです」
フィーが頷いた。
「ですよね!?」
「はい。食べる前から分かることもあります」
「フィーさんまで!?」
「私は匂いで分かるだけです」
「それも十分すごいですよ!」
ガルドは周囲を見回しながら、小さく言った。
「整ってますね」
「うん、すごくね」
ミラも珍しく素直に同意する。
「嫌な言い方すると、お行儀のいい街」
「嫌な言い方なんですか」
コムギが聞く。
「良い意味でもあるけど、きっちりしすぎてると疲れる時あるじゃん」
「わかるような、わからないような……」
「団長さんはどうです?」
「飯がうまそうだ」
「ですよね!」
コムギが即答した。
「さすがにそこは一致しました!」
⸻
しばらく市場通りを歩く。
肉屋の軒先。
果物の山。
乾燥した香草を吊るした店。
焼き串の煙。
通りを埋める人の活気。
コムギは完全に目が忙しかった。
「あっ、あの保存肉、塩の入り方きれいです」
「見ただけで分かるの?」
ミラが呆れる。
「なんとなく!」
「なんとなくでそこまで言うんだ」
「補給担当ですから!」
「便利な言葉だな」
トンヌラが言う。
「団長さんの“名を預かる”よりは具体的です」
「いきなり責められた」
「事実です」
ガルドがまた静かに補足した。
「今日はガルドさんもずいぶん切れ味ありますね!?」
「事実なので」
「最近みんなその返し好きですよね!」
ぽめは相変わらず、とことことついてきていた。
人混みの中でも踏まれない。
避けているわけでもないのに、なぜかちゃんと隙間を通る。
フィーが少しだけ目を細める。
「器用ですね、この子」
「犬だからな」
トンヌラが言う。
「それで終わらせるの、ちょっとずるくない?」
ミラが笑った。
⸻
だが。
市場の賑わいを抜け、一本裏の通りへ入った瞬間、空気が変わった。
石は欠けている。
壁は剥がれ、日当たりも悪い。
人通りが減り、声が引く。
地面に座り込む人影があった。
空の椀。
古い布。
子供。
痩せた老人。
さっきまでの匂いが嘘みたいに、ここには食の熱が薄い。
ミラの足が止まる。
「……同じ街?」
声音が少し低い。
コムギはすぐに、周囲の人間を見る目に切り替わった。
食材ではなく、人の顔を見る目だった。
「栄養は足りています」
ぽつりと言う。
「え?」
ミラが振り向く。
「少なくとも、完全な飢餓ではありません」
コムギは静かに続ける。
「痩せ方が違う。水も入ってるし、最低限の配給もあるはずです」
「じゃあなんでこうなってるの」
「……気力が、ないんです」
フィーが小さく言った。
子供の目は虚ろだった。
空腹で焦っている目ではない。
泣きたいのを我慢している目でもない。
ただ、何かを諦めたみたいに、焦点が浅い。
「なんかリズムが合わないね」
ミラが呟く。
「はい」
フィーは頷いた。
「生き物って、弱ってる時ほど生きようとするのが当たり前なんですが」
「出てない?」
「気力が薄い……」
「うわ……」
コムギが唇を結ぶ。
ガルドは黙って立っていた。
その目が、いつもより少しだけ厳しい。
「どうしました?」
フィーが聞く。
ガルドは少しだけ間を置いて答えた。
「……立ちにくいです」
「それ、かなりの警報じゃないですか?」
コムギが真顔になる。
「はい」
「そんな基準ある?」
ミラが言う。
「俺の中にはあります」
「あるんだ……」
トンヌラは腕を組んだまま、その子供を見ていた。
(居場所がない顔だ)
ふと思った。
思っただけで、上手く言葉にはならない。
役目がない、ではない。
名前がない、でもない。
ただ、自分がここにいていいと思えていない顔だった。それが少し、不安になる。
だが、今ここで何かを言って変わるわけではない。
言葉が届く前に、別の何かが削れている空気だった。
⸻
ぽめが一瞬だけ目を開けた。
「……」
裏路地の空気を見たあと、すぐまた目を閉じる。
「すぴ」
「寝るんかい」
ミラが反射で言った。
「でもまあ、こいつが起きたら余計やだな」
「はい」
フィーが小さく頷く。
「この子、こういう時だけ少し反応しますよね」
「ありがたくない特技ですね……」
コムギが呟く。
その時だった。
大通りの方から、蹄の音が響く。
重くはない。
だが、力強い音だった。
一行が通りへ戻ると、豪奢な馬車が目の前で止まった。
金斑の紋章。
磨かれた扉。
馬具まで無駄なく整えられている。
御者が降り、続いて中から男が現れた。
整えられた髭。
高価な衣装。
姿勢も悪くない。
だが、目の奥だけが落ち着いていなかった。
「失礼」
その視線が、まっすぐコムギへ向く。
「その鍋……あなた、管理栄養士ではないか?」
コムギはぱちりと瞬きをした。
「はい。元ですが」
「元?」
男の眉がわずかに動く。
「……まあ、いい」
そして、その場で深く頭を下げた。
「我が名はアルディウス・ヴァン=メルグラフ」
ミラが小さく息を呑む。
「え、あの?」
「有名なんですか?」
コムギが小声で聞く。
「連邦の食い物と薬草の流れ握ってるやつ」
「食材の人ですか!?」
「ざっくり言うとそう」
「ちょっと急に親近感湧きました」
「湧かせるな」
アルディウスの声は、名に似合わず焦っていた。
「娘が……倒れたのだ」
言葉が少し乱れる。
「医師にも見せた。祈祷師にも見せた。だが原因が分からない」
コムギを見る。
「力を貸してほしい」
コムギはすぐには返事をしなかった。
代わりに一度、フィーを見る。
フィーも小さく頷く。
ミラは腕を組み、ガルドは静かにアルディウスの立ち方を見ていた。
ため息をついたあと、トンヌラが一歩だけ前へ出る。
「話を聞こう」
偉そうだった。
だがこの場では、その偉そうさが少し助かった。
アルディウスは明らかに、誰かに決めてもらいたい顔をしていたからだ。
⸻
豪奢な馬車が再び動き出す。
一行は屋敷へ向かう。
道中、塀の外に、さっき裏路地で見たような子供が立っていた。
痩せてはいない。
だが目が薄い。
アルディウスはそれに気づかない。
正確には――
見えていない。
トンヌラはそれを横目で見た。言葉にできない。うまくまとまらなかった。
コムギは荷を抱え直す。
フィーは静かに息を吸う。
ミラは窓の外の街を見て、さっきの裏路地をまだ引きずっている顔だった。
ガルドは黙って前を見ていた。
ぽめだけが、いつも通り丸い。
ここはレイアノーティア。
数字は人を安心させる。
だが数字で回る街ほど、
帳簿に載らない空白を上手く隠すことがある。
そしてその空白は、
だいたい一番遅れて、いちばん重い形で返ってくる。
⸻
第43話 了




