第38話 拍の奪い合い
ここはレイアノーティア。
拍は人をつなぎ、
音は場を支える。
だが、ときどき世界は、
つなぐための拍そのものを奪いに来る。
そうなると人は、
自分の足で立っているのか、
ただ崩れ損ねているだけなのかも分からなくなる。
⸻
ディソナンスが一歩進むたび、街の拍がずれた。
鐘楼の針が微妙に遅れる。
石畳を走る足音が揃わない。
悲鳴と怒号が同じ空へ上がるのに、どちらも誰かへ届ききらない。
“戦場”と呼ぶにはまだ早い。
だが、戦場の手前で一番嫌な崩れ方をしていた。
誰もが、半拍ずつ噛み合わない。
「右だ!」
「左だろ!」
「散開!」
「誰の指示だよ!」
衛兵たちは互いの声を拾い損ね、
市民は逃げる方向をぶつけ合い、
店の灯りは不安定に明滅する。
ディソナンスは、笑わない。無機質に世界をずらしていく。
⸻
ガルドがまた一歩前へ出る。
「下がってください」
低い声。
大きくはない。
だが、その一言で、前へ出かけた数人の足が一瞬だけ止まる。
ガルドは立つ。
押し返しはしない。
攻撃もしない。
ただ、ここから先へは通さないという立ち方だけで立ち続ける。
それでも今日は、相性が悪い。
ディソナンス本体がこちらへ迫るというより、
その周囲でずれた人間たちの流れが、何度も崩れかけて押し寄せる。
ガルドの呼吸が重くなる。彼の仕事は、魔王より、人々の流れを止める他なかった。
「……これはまずいです」
それでも立つしかなかった。
コムギが叫ぶ。
「はいこれ飲んでください! あとちょっと舐めてください! 頭回らなくなる前に!」
「こんな時に飯かよ!」
半ば錯乱した男が言う。
「こういう時だからです!」
コムギは噛みつくように返した。
「倒れたら元も子もないでしょ!」
声は明るい。
だが、明るいだけで押し切れる状況でもなかった。
フィーは人の呼吸を見ていた。
乱れた脈。
浅い呼吸。
恐慌の手前で固まる肩。
「落ち着いてください!みんな混乱しています」
フィーの掛け声に、衛兵が少し遅れて従う。
今のフィーには、ここまでなら届く。
整えられる。
けれど、場全体を覆うこの“ずれ”そのものはまだ別物だった。
トンヌラは腕を組んで立つ。
何もしていない。
だが、この場で何もしていないように立ち続けるのも、けっこう神経を使う。
(こわい)
(めちゃくちゃこわい)
(でも今さら逃げたら全部ダサい)
内心だけが、かなり忙しい。
⸻
ミラは、その少し後ろで立ち尽くしていた。
ギターを持っている。
持っているだけで、まだ鳴らせない。
ディソナンスを見るたび、胸の奥がずれる。
外のズレ。
内側のズレ。
過去の傷。
今の恐怖。
全部が、同じリズムで悪い方へ重なっていく。
(まただ)
頭の奥で誰かの声が鳴る。
――ミラ、早い。
――合わせろよ。
――置いてくな。
昔の言葉だ。
もう終わったはずの言葉。
なのに今この場では、少しも終わっていない。
違う。
違うはずだ。
でも、体が知っている。
こういう圧の中で、自分は揃えられなかった。
場をまとめられなかった。
音を一つにできなかった。
結果、置いていった。
「ミラさん!」
コムギの声が飛ぶ。
振り向けない。
「ミラさん、大丈夫ですか!?」
「……」
「返事してくださいよ!」
コムギの声は届く。
でも、届くだけだ。
そこから先へ行く余裕が、今のミラにはない。
ガルドが低く言う。
「コムギさん、今は無理に引っ張らない方がいいです」
「でも……!」
「今俺たちにできることは、混乱を抑えることだけです」
「……分かりました」
コムギが唇を噛む。
人の波の隙間から、フィーはミラを見た。
あの顔は知っている。
理解できるのに、心が負けた顔。
過去の痛みがフラッシュバックしてしまった時の顔。
「……ミラさん」
小さく呼ぶ。
ミラはその声が聞こえていたが、答えない。
答えられない。
⸻
ディソナンスが、また一歩進む。
その動きに合わせて、街の空気が大きく揺れた。
舞台の床板。
石畳。
窓ガラス。
人の鼓動。
どれもこれもが、ほんの半拍ずつ外れていく。
ミラの指先が震える。
(無理だ)
ひどく素直な言葉だった。
「あの時と同じ……あたしには揃えられない」
弾けたとしても、また同じになる。
また誰かを置いていく。
また、自分だけが先に行く。
また、終わる。
怖い。
その恐怖を、ディソナンスは知っているみたいだった。
いや、知っている必要すらない。
“ずれる”ことそのものが、ミラにとって十分な痛みだからだ。
膝が少しだけ折れそうになる。
そこへ、トンヌラの声が落ちた。
「おい」
短い。
だが妙に通る。
ミラが、かろうじて顔を上げる。
「お前、今どこ見てる」
「……」
「過去か」
「……っ」
答えられない。
だが、図星だった。
トンヌラは眉をひそめる。
何を言えばいいか分からない。
でも、何も言わないとまずいことだけは分かる。
だから雑になる。
「今ここだろ」
「そんなの……」
ようやくミラの声が出た。
「そんなの、分かってる」
「分かってない顔だ」
「うるさい」
その一言に、少しだけ人間味が戻る。
トンヌラは内心でほっとした。
(返した)
(返せるならまだ沈みきってない)
ディソナンスが低く波打つ。
周囲の拍がまた乱れる。
ミラは歯を食いしばる。
「……また、あたしが壊す」
「壊してない」
トンヌラが即答する。
「壊した」
「壊してない」
「見てないくせに」
「見てない。だがそういう時は大体思い込みだ」
「最低」
「知ってる」
コムギがぽかんとする。
「団長さん、それ励ましてるんです?」
「たぶん」
「雑!」
「でも、ちょっと効いてます」
フィーが言う。
実際、効いていた。
優しくはない。
丁寧でもない。
でも、過去の“確定した失敗”として自分を閉じ込める言い方だけは、切ってくる。
ミラの呼吸が、一拍だけ戻る。
⸻
ディソナンスの波が、今度はギターの弦そのものを揺らした。
ビィン、と不快な音が鳴る。
ミラの肩が跳ねる。
また置いていかれる。
また、場が壊れる。
また、自分だけが間に合わない。
その時。
トンヌラが、深く息を吸った。
ほんの少し前へ出る。
何もできない。
でも、ここで黙っているわけにはいかない。
ミラの目が、かろうじてそちらを見る。
ガルドは前に立っている。
コムギは鍋を抱えている。
フィーは呼吸を見ている。
ぽめは、なぜかまた丸い。
そして、トンヌラだけが、場の外側みたいな顔でそこにいる。
ミラは、その姿に少しだけ腹が立った。
何でそんな顔でいられるんだ。
何で、まだそこに立っていられるんだ。
でも、その腹立たしさが、完全に折れるのを少しだけ止めた。
トンヌラは息を吸いきる。
「……」
その一歩手前で、空気が止まった。
ここはレイアノーティア。
拍は奪われることがある。
けれど、その奪われた拍を、
誰のものとして取り返すかは、
まだ決まっていない。
ディソナンスはずらす。
ミラは揺らぐ。
トンヌラは外側に立つ。
その三つが同じ場に立った時、
次に鳴る一音は、たぶんただの音では済まない。
⸻
第38話 了
ここから章の終わりまで走ります。
私自身1番好きなエヴァンの見せ所を早く見たいです。




