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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第4章 拍を奪うもの バンドマン

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第37話 バンドマンは、揃えられなかった

 ここはレイアノーティア。

 音は重なり、波は揃い、乱れはやがて均衡に戻る。


 だが歴史の中には、戻らない音があった。

 拍を奪い、声を濁し、群れを裂いた波。


 ――人はそれを、魔王と呼んだ。


 

 次の日の夜。


 ヴァルミオンの鐘が、半拍だけ遅れた。


 一度。

 二度。


 三度目は――鳴らなかった。



《青錆の弦亭》の中で、最初にそれへ気づいたのはミラだった。


 グラスが小さく震えた。

 皿を置く音が、ほんのわずかに遅れる。

 笑い声が、綺麗に重ならない。


「え?」

 客のひとりが、隣を見た。

「今なんて?」

「いや、そっちこそ」


 声が噛み合わない。


 ミラの指が止まる。


(……来た)


 喉が乾く。

 昨日の違和感が、今夜はもう違和感では済まない形で広がっていた。


 ギターの弦が、何もしていないのに少しだけ重い。

 空気そのものが、拍の置き場を失っている。



 街の中央広場。


 空間が、波打っていた。


 空気が歪む。

 色が濁る。

 輪郭が揺れる。


 そこに“それ”は現れた。


 姿は定まらない。


 人型のようで、人ではない。

 影のようで、光沢があった。

 体表は黒く、その上を油膜のような虹色が絶えず揺れている。


 顔のようなものはあるが、瞬きをしない。

 代わりに、顔の上を目のようなものがいくつも動き回る。


 見られているのか。

 見られていないのか。

 それすら揃わない。


 口が開く。


 声は出ない。


 だが――


 周囲の音が、勝手に外れた。


 鐘楼の針が、ほんのわずかに逆を向く。

 石畳の上の足音が、半拍だけ遅れる。

 衛兵の号令が、互いを食い違う。


「右から――」

「違う、左だ!」

「散開!」

「誰が先に行くんだよ!」


 剣が味方の盾を打つ。

 怒声と悲鳴が同時に重なり、どちらも届ききらない。


 誰かが叫んだ。


「魔王だ……!」


 その言葉だけが、妙に綺麗に揃った。



 屋根の上。


 エヴァンが静かに観測していた。


「顕現確認。《魔王ディソナンス》」


 彼の目にだけ、糸のように構造が見える。


 魔王の中心には、不規則な波形が渦巻いていた。

 拍をずらすためだけに生まれたような、ひどく精密な乱れ。



「やはり試験には、ちょうどいい」


 トンヌラを測るための、軽い揺らぎ。

 そのはずだった。


 だが――


 ぽめが、ぱちりと目を開ける。


 一瞬だけ。


 ディソナンスの体表がぶれた。

 波形がわずかに乱れる。


 エヴァンの瞳が細くなる。


「……想定外」


 そう言いながら、口元はわずかに緩んでいた。


「面白い。予定調和は崩れた。

 だが旋律は、まだ私の手の内だ」


 モノクルを指で撫でる。


「次は夜想曲ノクターンと行こうじゃないか」



 店内。


 音が濁る。


 客同士が言い争い、

 料理人が皿を落とし、

 店員が運んでいた酒をひっくり返す。


 ディソナンスの姿が、窓越しに歪んで見えた。


 ミラの喉が詰まる。


(あれは……)


 目が合う。


 いや。


 目が“合わない”。


 視線がずれる。

 焦点が定まらない。

 存在そのものが、「揃わない」という圧を持っていた。


 ミラの顔が歪む。


(間違いない……)


 全身から脂汗が吹き出る。



 歓声。

 ドラムが走る。

 ベースが遅れる。

 ギターが浮く。


「ミラ、早い!」

「合わせろよ!」

「置いてくな!」


 あの日と同じだ。


 音はあるのに、繋がらなかった。

 呼吸はしているのに、ひとつの拍へ収まらなかった。


 そこへ、外から半拍だけ押される。

 少しずつ。

 何度も。

 きれいに。


(あたしが揃えられなかった)


 胸が締め付けられる。

 その傷が、ディソナンスの前ではそのまま強い武器になる。



 ディソナンスが一歩、一歩と進む。


 その足取りに合わせて、街の呼吸がずれる。

 灯りが消え、子どもが泣き、衛兵が膝をつく。


 トンヌラは立った。


「……騒がしい」


 それだけ。


 ……に、見えた。


(嘘だろ、普通に怖い)

(なんだあれ)

(いや、魔王って実在するの)


 だが黙っていると、外から見る分には落ち着いて見える。

 それがこの男の厄介なところだった。


(だが逃げたら格好がつかない)


 ディソナンスの波が、ほんの一瞬だけ揺れる。


 リズムに乗らない存在。

 崩れない核。


 魔王の表面に、小さな亀裂が走った。



 ガルドが一歩だけ前へ出ると境界が生まれる。


 ディソナンスそのものではなく、周囲で乱れた人間たちの流れが一瞬止まる。

 ぶつかりかけた衛兵同士が、わずかに距離を取る。


「下がってください」

 ガルドが低く言う。

「俺が立ちます」

「立ってどうにかなる相手かよ!」

 誰かが叫ぶ。

「分かりません」

 ガルドは真顔で答えた。

「でも、立たないよりはいいです」


 コムギはリュックを抱えて、半泣きの顔でアタフタする。


「ちょっと、みなさん落ち着いてください!」

「落ち着けるわけないだろ!」

「わ、分かりますけど! でも、今それで喧嘩したら余計だめです!」

「コムギさん、左です」

 フィーが声を飛ばす。

「はいっ!」


 フィー自身も、呼吸を読もうとしていた。

 人の方はまだ分かる。

 乱れた脈も、恐慌も、どこから崩れるかも。


 だがディソナンスそのものは、呼吸のない生き物みたいだった。

 リズムだけを壊す。

 そこに命の律動は感じられない。


「……まずいですね」

 フィーが小さく言う。

「分かる」

 トンヌラが即答する。

「いや、団長さんの“分かる”は今日は当てにならない気もします」

 コムギが言う。

「お前も余裕ないな」

「ありますよ! ちょっとだけ!」


 それでも声があるだけ、まだましだった。



 ミラはギターを握った。


 震えが止まらない。


 心が掻きむしられる。


(あの時と、全部一緒だ)


 指が動かない。

 喉も開かない。

 胸の奥で、“また揃えられない”が膨らんでいく。


(あたしは揃えられなかった)

(また置いていかれる)

(また誰かを置いていく)


 ディソナンスは強いのではない。

 “ずらす”だけだ。


 なのに、その“だけ”で人の心は簡単に崩れる。


 ミラの視界の端で、トンヌラが崩れていない。

 怖がっているはずなのに、拍の外側に立ったまま、妙にここにいる。


 腹には響いた。


 あの言葉が、今さら頭の奥で鳴る。


 持ち上げてはいない。

 期待してもいない。

 ただ、そこにあった音を、そのまま受け取った言葉。


 それだけで、立てることもある。


 ミラは歯を食いしばった。


(あたしは世界で一番ロックな……)


 息を吸う。


 指が、わずかに動く。


「……バンドマンなんだ」


 ひとりでも。


 ディソナンスの目のようなものが、初めて“固定”された。


 揃えられたからではない。

 目標を見つけたからだ。



 屋根の上。


 エヴァンが静かに言う。


「来るか」



 ミラは目を閉じる。


 過去の罵声。

 空白になったステージ。

 去っていった元締め。

 解散したバンド。

 ひとり残された自分。


 全部、まだ痛い。


 全部、まだ消えていない。


 だからこそ、ディソナンスは効く。


 その痛みの真ん中へ、真正面からずれを差し込んでくる。


 ミラの指は震える。

 それでも、ギターは落とさない。


 ディソナンスが膨張する。


 体表が崩れ、

 虹色の油膜が裂け、

 街の拍が崩壊寸前になる。


 ミラが、弦を強く掻き鳴らした。


 一音。


 ディソナンスの輪郭が、ほんのわずかにぶれる。


 だが、まだ足りない。


 揃わない。

 届かない。

 でも、逃げない。


 ここはレイアノーティア。

 波はやがて均衡に戻る。


 ――戻れなかった波だけが、物語になる。


 そして今、ひとりのバンドマンが、

 “揃えられなかった痛み”のただ中で、

 まだ心だけは負けきっていなかった。



 第37話 了


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