第37話 バンドマンは、揃えられなかった
ここはレイアノーティア。
音は重なり、波は揃い、乱れはやがて均衡に戻る。
だが歴史の中には、戻らない音があった。
拍を奪い、声を濁し、群れを裂いた波。
――人はそれを、魔王と呼んだ。
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次の日の夜。
ヴァルミオンの鐘が、半拍だけ遅れた。
一度。
二度。
三度目は――鳴らなかった。
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《青錆の弦亭》の中で、最初にそれへ気づいたのはミラだった。
グラスが小さく震えた。
皿を置く音が、ほんのわずかに遅れる。
笑い声が、綺麗に重ならない。
「え?」
客のひとりが、隣を見た。
「今なんて?」
「いや、そっちこそ」
声が噛み合わない。
ミラの指が止まる。
(……来た)
喉が乾く。
昨日の違和感が、今夜はもう違和感では済まない形で広がっていた。
ギターの弦が、何もしていないのに少しだけ重い。
空気そのものが、拍の置き場を失っている。
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街の中央広場。
空間が、波打っていた。
空気が歪む。
色が濁る。
輪郭が揺れる。
そこに“それ”は現れた。
姿は定まらない。
人型のようで、人ではない。
影のようで、光沢があった。
体表は黒く、その上を油膜のような虹色が絶えず揺れている。
顔のようなものはあるが、瞬きをしない。
代わりに、顔の上を目のようなものがいくつも動き回る。
見られているのか。
見られていないのか。
それすら揃わない。
口が開く。
声は出ない。
だが――
周囲の音が、勝手に外れた。
鐘楼の針が、ほんのわずかに逆を向く。
石畳の上の足音が、半拍だけ遅れる。
衛兵の号令が、互いを食い違う。
「右から――」
「違う、左だ!」
「散開!」
「誰が先に行くんだよ!」
剣が味方の盾を打つ。
怒声と悲鳴が同時に重なり、どちらも届ききらない。
誰かが叫んだ。
「魔王だ……!」
その言葉だけが、妙に綺麗に揃った。
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屋根の上。
エヴァンが静かに観測していた。
「顕現確認。《魔王ディソナンス》」
彼の目にだけ、糸のように構造が見える。
魔王の中心には、不規則な波形が渦巻いていた。
拍をずらすためだけに生まれたような、ひどく精密な乱れ。
「やはり試験には、ちょうどいい」
トンヌラを測るための、軽い揺らぎ。
そのはずだった。
だが――
ぽめが、ぱちりと目を開ける。
一瞬だけ。
ディソナンスの体表がぶれた。
波形がわずかに乱れる。
エヴァンの瞳が細くなる。
「……想定外」
そう言いながら、口元はわずかに緩んでいた。
「面白い。予定調和は崩れた。
だが旋律は、まだ私の手の内だ」
モノクルを指で撫でる。
「次は夜想曲と行こうじゃないか」
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店内。
音が濁る。
客同士が言い争い、
料理人が皿を落とし、
店員が運んでいた酒をひっくり返す。
ディソナンスの姿が、窓越しに歪んで見えた。
ミラの喉が詰まる。
(あれは……)
目が合う。
いや。
目が“合わない”。
視線がずれる。
焦点が定まらない。
存在そのものが、「揃わない」という圧を持っていた。
ミラの顔が歪む。
(間違いない……)
全身から脂汗が吹き出る。
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歓声。
ドラムが走る。
ベースが遅れる。
ギターが浮く。
「ミラ、早い!」
「合わせろよ!」
「置いてくな!」
あの日と同じだ。
音はあるのに、繋がらなかった。
呼吸はしているのに、ひとつの拍へ収まらなかった。
そこへ、外から半拍だけ押される。
少しずつ。
何度も。
きれいに。
(あたしが揃えられなかった)
胸が締め付けられる。
その傷が、ディソナンスの前ではそのまま強い武器になる。
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ディソナンスが一歩、一歩と進む。
その足取りに合わせて、街の呼吸がずれる。
灯りが消え、子どもが泣き、衛兵が膝をつく。
トンヌラは立った。
「……騒がしい」
それだけ。
……に、見えた。
(嘘だろ、普通に怖い)
(なんだあれ)
(いや、魔王って実在するの)
だが黙っていると、外から見る分には落ち着いて見える。
それがこの男の厄介なところだった。
(だが逃げたら格好がつかない)
ディソナンスの波が、ほんの一瞬だけ揺れる。
リズムに乗らない存在。
崩れない核。
魔王の表面に、小さな亀裂が走った。
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ガルドが一歩だけ前へ出ると境界が生まれる。
ディソナンスそのものではなく、周囲で乱れた人間たちの流れが一瞬止まる。
ぶつかりかけた衛兵同士が、わずかに距離を取る。
「下がってください」
ガルドが低く言う。
「俺が立ちます」
「立ってどうにかなる相手かよ!」
誰かが叫ぶ。
「分かりません」
ガルドは真顔で答えた。
「でも、立たないよりはいいです」
コムギはリュックを抱えて、半泣きの顔でアタフタする。
「ちょっと、みなさん落ち着いてください!」
「落ち着けるわけないだろ!」
「わ、分かりますけど! でも、今それで喧嘩したら余計だめです!」
「コムギさん、左です」
フィーが声を飛ばす。
「はいっ!」
フィー自身も、呼吸を読もうとしていた。
人の方はまだ分かる。
乱れた脈も、恐慌も、どこから崩れるかも。
だがディソナンスそのものは、呼吸のない生き物みたいだった。
リズムだけを壊す。
そこに命の律動は感じられない。
「……まずいですね」
フィーが小さく言う。
「分かる」
トンヌラが即答する。
「いや、団長さんの“分かる”は今日は当てにならない気もします」
コムギが言う。
「お前も余裕ないな」
「ありますよ! ちょっとだけ!」
それでも声があるだけ、まだましだった。
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ミラはギターを握った。
震えが止まらない。
心が掻きむしられる。
(あの時と、全部一緒だ)
指が動かない。
喉も開かない。
胸の奥で、“また揃えられない”が膨らんでいく。
(あたしは揃えられなかった)
(また置いていかれる)
(また誰かを置いていく)
ディソナンスは強いのではない。
“ずらす”だけだ。
なのに、その“だけ”で人の心は簡単に崩れる。
ミラの視界の端で、トンヌラが崩れていない。
怖がっているはずなのに、拍の外側に立ったまま、妙にここにいる。
腹には響いた。
あの言葉が、今さら頭の奥で鳴る。
持ち上げてはいない。
期待してもいない。
ただ、そこにあった音を、そのまま受け取った言葉。
それだけで、立てることもある。
ミラは歯を食いしばった。
(あたしは世界で一番ロックな……)
息を吸う。
指が、わずかに動く。
「……バンドマンなんだ」
ひとりでも。
ディソナンスの目のようなものが、初めて“固定”された。
揃えられたからではない。
目標を見つけたからだ。
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屋根の上。
エヴァンが静かに言う。
「来るか」
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ミラは目を閉じる。
過去の罵声。
空白になったステージ。
去っていった元締め。
解散したバンド。
ひとり残された自分。
全部、まだ痛い。
全部、まだ消えていない。
だからこそ、ディソナンスは効く。
その痛みの真ん中へ、真正面からずれを差し込んでくる。
ミラの指は震える。
それでも、ギターは落とさない。
ディソナンスが膨張する。
体表が崩れ、
虹色の油膜が裂け、
街の拍が崩壊寸前になる。
ミラが、弦を強く掻き鳴らした。
一音。
ディソナンスの輪郭が、ほんのわずかにぶれる。
だが、まだ足りない。
揃わない。
届かない。
でも、逃げない。
ここはレイアノーティア。
波はやがて均衡に戻る。
――戻れなかった波だけが、物語になる。
そして今、ひとりのバンドマンが、
“揃えられなかった痛み”のただ中で、
まだ心だけは負けきっていなかった。
⸻
第37話 了




