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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第4章 拍を奪うもの バンドマン

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第36話 ずれた拍の正体

 ここはレイアノーティア。

 音は揃い、役目は収まる。


 ――だが、ずれはいつも内側から始まる。



 夜。

 《青錆の弦亭》は閉店していた。


 客は帰り、椅子は裏返され、皿の音ももうしない。

 酒と油の匂いだけが、少し遅れて残っている。


 舞台の上で、ミラはひとり座っていた。


 ギターを抱えたまま、弦を一本ずつ鳴らす。


 高音。

 低音。

 和音。

 指板の感触。


 どれも正しい。

 狂いはない。


 なのに、今夜の違和感だけが消えなかった。


「……なんで」


 小さく呟く。


 もう一度、弦を鳴らす。

 同じ音が返る。


 正しい。

 外れていない。

 それがむしろ、気持ち悪い。


(今日のズレは、あたしのミスじゃない)


 そこまでは、もう分かっている。

 指も、声も、間の取り方も崩していない。


 でも、何かが噛み合わない。


 噛み合わないまま、客は笑っていて、拍手もしていて、店も回っている。

 そのこと自体が、ミラには余計に不気味だった。


「……あたしが、遅れてる?」


 口に出した瞬間、胸がざわつく。


 それは今夜の違和感ではなく、もっと古い傷を、乱暴に引きずり起こす言葉だった。



 小さな大会の、小さなステージ。

 客はそこそこ入っていて、照明だけが妙に熱かったことだけ、今でも鮮明に覚えている。


 職業バンドマンだった頃のミラにとって、その日は特別だった。


 技術も、センスも悪くない。

 無名の新人ながら人気は右肩上がり。

 期待を背負った若いバンド。


 地元のイベントを仕切る元締めが見に来ている。

 ここで目をかけられれば、もっと大きなステージに立てる。


(もっとたくさんの人に届けたい)


 その日、ミラは完璧に弾いた。

 少なくとも、自分ではそう思っていた。


 だが、始まってすぐに何かがおかしくなる。


 ドラムは走る。

 ベースは微妙に遅れる。

 ギターは揃っているはずなのに、サビへ入った瞬間に空気が外れる。


「ミラ、早い!」

「いや、そっちが遅いって!」

「合わせろよ!」


 何度も、そう言われた。


 でも、おかしかった。

 練習通りなら、こんなふうにはならないはずだった。


 今日はドラムが速い。

 次はベースが半拍遅れる。

 焦った瞬間、自分のギターだけが妙に浮く。


 誰か一人が悪いわけじゃない。

 なのに、必ずどこかが噛み合わなくなる。


 今なら思う。


 あれは、ただの緊張や未熟さだけではなかった。


 あまりにも、きれいにずれすぎていた。


 口論になるタイミング。

 息が合わなくなる瞬間。

 視線が外れる場所。


 何もかもが、誰かに“半拍だけ”押されたみたいに、少しずつずれていた。


 ふと客席の奥を見る。


 元締めがいた席は、もう空だった。


 その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。

 今でも、あの感覚だけは妙に生々しく残っている。


 それがきっかけで、バンドは解散した。


 当時のミラに、原因は分からなかった。

 だから全部、自分のせいだと思うしかなかった。


(あたしが置いていったんだ)


 その思い込みだけが、長く残った。


 それからずっと――

 あたしは、ひとりぼっちのバンドマンだった。



 現実へ戻る。


 ミラは弦を爪で弾いた。

 カラン、と乾いた音が店内に響く。


(今日のズレは、あの時と同じだ)


 それは分かる。

 分かるのに、胸の奥はそれだけで済ませてくれない。


(でも……)


 もし、昔の“揃えられなかった感覚”が、今もまだ自分の中で鳴っているなら。


 それは、かなり嫌だった。


 嫌で、認めたくなくて、でも無視もできない。



 店の外で、小さな足音がした。


「……くぁ」


 ぽめだった。


 白くて、丸くて、いつも眠そうで、だいたい意味が分からない犬。

 どういうわけか、今夜も店の前にいる。


「なんであんたがいるの」


 問いかけても、ぽめは答えない。

 ただ丸い。


 ミラは少しだけ笑いそうになった。

 この数日で、ぽめの意味不明さには少し慣れている。


 だが今日は違った。


 ぽめは、店の中を見上げていた。


 眠そうな顔のまま。

 でも、見ている。


 次の瞬間、低く小さく唸った。


「……ゥゥ」


 空気が、ぴんと張る。


 ミラの背中に冷たいものが走った。



 触れていない弦が鳴る。


 ビィン――


 店内に、不協和が走った。


 ミラは息を呑む。


(今の、外?)


 天井の梁。

 店の奥。

 壁際の暗がり。


 姿はない。

 何も見えない。

 なのに、“音だけがずれているもの”がいる気がした。


 大きな殺意ではない。

 悪意と呼ぶには、あまりにも冷たい。

 ただ、合わない。

 揃わない。


 ミラはギターを抱きしめたまま、じっと店内を見た。


「……なに、今の」


 答えはない。


(これって、あの日と一緒じゃん)


 額を、冷たい汗が滑った。


 ぽめが一歩、前に出る。


 丸いまま。

 眠そうなまま。

 でも、その足取りだけが少し違った。


「……わん」


 一度だけ、吠える。


 大きくない。

 だが、その一声で空気が整う。


 張っていた緊張が、ふっとほどける。

 梁のざらつきが消える。

 鳴っていた弦が止まる。

 店内に戻るのは、ただの夜の静けさだ。


 ミラはしばらく動けなかった。


 ぽめは、何もなかった顔でその場に座る。

 そして次の瞬間には、もう寝ていた。


「……すぴ」


「寝るんかい」


 思わずツッコミが口から出た。


 それで少しだけ、呼吸が戻る。



 ミラは舞台の縁へ座り込んだ。


 ギターを膝に置いたまま、しばらく指先を見つめる。


(外から来た)


 それは、もう間違いない。


 でも。


(あたしの中にも、あった)


 速くなりすぎる衝動。

 置いていく恐怖。

 揃えたい焦り。

 揃わなかった記憶。


 そして、本当はどこかでずっと思っていた。


 あの日のライブは、自分だけのせいにしては、少しおかしすぎたと。


 誰かのミスではなく、

 全体が少しずつ、きれいに壊れていった。


 外のズレは、内側のズレと共鳴する。

 それだけで、泣きたくなるほど古い痛みが、簡単に息を吹き返す。


 そこまで理解した瞬間、ミラは少しだけ笑った。


 嬉しいからではない。

 腹が立ったからだ。


「……やってやる」


 誰にでもなく言う。


 合わせるんじゃない。

 置いていかれないように怯えるんじゃない。

 奪う。


 自分の拍で。

 自分のテンポで。

 自分が、場を持っていく側になる。


 まだ、はっきりとはできない。

 でも、その方向だけは見えた。



 遠く離れた観測室。


 水晶が微細に波打っていた。


「干渉痕、消失」

 ノインが呟く。


「消えた?」

 リリカが身を乗り出す。

「一時的に」

「なにこれ?」

「え、消したの? 今の一声で?」


 リリカは端末を抱え直す。


「ミラの件、やっぱり似てるんですね」

「何がです」

「昔のバンド」

「……」

「きれいにずれすぎてる。今のこれと同じで」


 ノインはすぐには答えなかった。


「当時の局所調整記録は、断片しか残っていません」

「でも、あった」

「示唆できる程度には」

「やだなあ……」

 リリカが顔をしかめる。

「本人、ずっと自分のせいだと思ってるのに」

「その方が管理しやすい」

「そういうの嫌いです」

「知っています」


 エヴァンは目を閉じたまま言う。


「前奏だ」


 指が机を鳴らす。


「まだ旋律にはしない」


 だがその声音には、すでに次を見ている冷たさがあった。


「ディソナンス《不協和の魔王》は、もう目覚めている」



 店の前。


 ぽめは丸い。


 ミラはその姿を見下ろした。


「……あんた、何者?」


 答えはない。


 だが、さっきの一声だけは耳に残っていた。


 拍を奪った。

 ずれた空気を、一瞬だけ自分の側へ戻した。


 あのやり方は、たぶん“整える”とは少し違う。


 もっと勝手で、もっと強引で、なのに自然だった。


 ミラは小さく息を吐く。


「……負けてらんないな」


 ぽめは寝ていた。


 ここはレイアノーティア。

 ずれは、内側と外側で共鳴する。


 だからこそ、崩れる時は一気だ。

 だが逆に、どちらかが立てば、もう片方も踏みとどまれる。


 その中心で今、

 ひとりの歌い手が、覚悟の予兆に触れつつあった。



 第36話 了


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