第36話 ずれた拍の正体
ここはレイアノーティア。
音は揃い、役目は収まる。
――だが、ずれはいつも内側から始まる。
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夜。
《青錆の弦亭》は閉店していた。
客は帰り、椅子は裏返され、皿の音ももうしない。
酒と油の匂いだけが、少し遅れて残っている。
舞台の上で、ミラはひとり座っていた。
ギターを抱えたまま、弦を一本ずつ鳴らす。
高音。
低音。
和音。
指板の感触。
どれも正しい。
狂いはない。
なのに、今夜の違和感だけが消えなかった。
「……なんで」
小さく呟く。
もう一度、弦を鳴らす。
同じ音が返る。
正しい。
外れていない。
それがむしろ、気持ち悪い。
(今日のズレは、あたしのミスじゃない)
そこまでは、もう分かっている。
指も、声も、間の取り方も崩していない。
でも、何かが噛み合わない。
噛み合わないまま、客は笑っていて、拍手もしていて、店も回っている。
そのこと自体が、ミラには余計に不気味だった。
「……あたしが、遅れてる?」
口に出した瞬間、胸がざわつく。
それは今夜の違和感ではなく、もっと古い傷を、乱暴に引きずり起こす言葉だった。
⸻
小さな大会の、小さなステージ。
客はそこそこ入っていて、照明だけが妙に熱かったことだけ、今でも鮮明に覚えている。
職業だった頃のミラにとって、その日は特別だった。
技術も、センスも悪くない。
無名の新人ながら人気は右肩上がり。
期待を背負った若いバンド。
地元のイベントを仕切る元締めが見に来ている。
ここで目をかけられれば、もっと大きなステージに立てる。
(もっとたくさんの人に届けたい)
その日、ミラは完璧に弾いた。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
だが、始まってすぐに何かがおかしくなる。
ドラムは走る。
ベースは微妙に遅れる。
ギターは揃っているはずなのに、サビへ入った瞬間に空気が外れる。
「ミラ、早い!」
「いや、そっちが遅いって!」
「合わせろよ!」
何度も、そう言われた。
でも、おかしかった。
練習通りなら、こんなふうにはならないはずだった。
今日はドラムが速い。
次はベースが半拍遅れる。
焦った瞬間、自分のギターだけが妙に浮く。
誰か一人が悪いわけじゃない。
なのに、必ずどこかが噛み合わなくなる。
今なら思う。
あれは、ただの緊張や未熟さだけではなかった。
あまりにも、きれいにずれすぎていた。
口論になるタイミング。
息が合わなくなる瞬間。
視線が外れる場所。
何もかもが、誰かに“半拍だけ”押されたみたいに、少しずつずれていた。
ふと客席の奥を見る。
元締めがいた席は、もう空だった。
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
今でも、あの感覚だけは妙に生々しく残っている。
それがきっかけで、バンドは解散した。
当時のミラに、原因は分からなかった。
だから全部、自分のせいだと思うしかなかった。
(あたしが置いていったんだ)
その思い込みだけが、長く残った。
それからずっと――
あたしは、ひとりぼっちのバンドマンだった。
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現実へ戻る。
ミラは弦を爪で弾いた。
カラン、と乾いた音が店内に響く。
(今日のズレは、あの時と同じだ)
それは分かる。
分かるのに、胸の奥はそれだけで済ませてくれない。
(でも……)
もし、昔の“揃えられなかった感覚”が、今もまだ自分の中で鳴っているなら。
それは、かなり嫌だった。
嫌で、認めたくなくて、でも無視もできない。
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店の外で、小さな足音がした。
「……くぁ」
ぽめだった。
白くて、丸くて、いつも眠そうで、だいたい意味が分からない犬。
どういうわけか、今夜も店の前にいる。
「なんであんたがいるの」
問いかけても、ぽめは答えない。
ただ丸い。
ミラは少しだけ笑いそうになった。
この数日で、ぽめの意味不明さには少し慣れている。
だが今日は違った。
ぽめは、店の中を見上げていた。
眠そうな顔のまま。
でも、見ている。
次の瞬間、低く小さく唸った。
「……ゥゥ」
空気が、ぴんと張る。
ミラの背中に冷たいものが走った。
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触れていない弦が鳴る。
ビィン――
店内に、不協和が走った。
ミラは息を呑む。
(今の、外?)
天井の梁。
店の奥。
壁際の暗がり。
姿はない。
何も見えない。
なのに、“音だけがずれているもの”がいる気がした。
大きな殺意ではない。
悪意と呼ぶには、あまりにも冷たい。
ただ、合わない。
揃わない。
ミラはギターを抱きしめたまま、じっと店内を見た。
「……なに、今の」
答えはない。
(これって、あの日と一緒じゃん)
額を、冷たい汗が滑った。
ぽめが一歩、前に出る。
丸いまま。
眠そうなまま。
でも、その足取りだけが少し違った。
「……わん」
一度だけ、吠える。
大きくない。
だが、その一声で空気が整う。
張っていた緊張が、ふっとほどける。
梁のざらつきが消える。
鳴っていた弦が止まる。
店内に戻るのは、ただの夜の静けさだ。
ミラはしばらく動けなかった。
ぽめは、何もなかった顔でその場に座る。
そして次の瞬間には、もう寝ていた。
「……すぴ」
「寝るんかい」
思わずツッコミが口から出た。
それで少しだけ、呼吸が戻る。
⸻
ミラは舞台の縁へ座り込んだ。
ギターを膝に置いたまま、しばらく指先を見つめる。
(外から来た)
それは、もう間違いない。
でも。
(あたしの中にも、あった)
速くなりすぎる衝動。
置いていく恐怖。
揃えたい焦り。
揃わなかった記憶。
そして、本当はどこかでずっと思っていた。
あの日のライブは、自分だけのせいにしては、少しおかしすぎたと。
誰かのミスではなく、
全体が少しずつ、きれいに壊れていった。
外のズレは、内側のズレと共鳴する。
それだけで、泣きたくなるほど古い痛みが、簡単に息を吹き返す。
そこまで理解した瞬間、ミラは少しだけ笑った。
嬉しいからではない。
腹が立ったからだ。
「……やってやる」
誰にでもなく言う。
合わせるんじゃない。
置いていかれないように怯えるんじゃない。
奪う。
自分の拍で。
自分のテンポで。
自分が、場を持っていく側になる。
まだ、はっきりとはできない。
でも、その方向だけは見えた。
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遠く離れた観測室。
水晶が微細に波打っていた。
「干渉痕、消失」
ノインが呟く。
「消えた?」
リリカが身を乗り出す。
「一時的に」
「なにこれ?」
「え、消したの? 今の一声で?」
リリカは端末を抱え直す。
「ミラの件、やっぱり似てるんですね」
「何がです」
「昔のバンド」
「……」
「きれいにずれすぎてる。今のこれと同じで」
ノインはすぐには答えなかった。
「当時の局所調整記録は、断片しか残っていません」
「でも、あった」
「示唆できる程度には」
「やだなあ……」
リリカが顔をしかめる。
「本人、ずっと自分のせいだと思ってるのに」
「その方が管理しやすい」
「そういうの嫌いです」
「知っています」
エヴァンは目を閉じたまま言う。
「前奏だ」
指が机を鳴らす。
「まだ旋律にはしない」
だがその声音には、すでに次を見ている冷たさがあった。
「ディソナンス《不協和の魔王》は、もう目覚めている」
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店の前。
ぽめは丸い。
ミラはその姿を見下ろした。
「……あんた、何者?」
答えはない。
だが、さっきの一声だけは耳に残っていた。
拍を奪った。
ずれた空気を、一瞬だけ自分の側へ戻した。
あのやり方は、たぶん“整える”とは少し違う。
もっと勝手で、もっと強引で、なのに自然だった。
ミラは小さく息を吐く。
「……負けてらんないな」
ぽめは寝ていた。
ここはレイアノーティア。
ずれは、内側と外側で共鳴する。
だからこそ、崩れる時は一気だ。
だが逆に、どちらかが立てば、もう片方も踏みとどまれる。
その中心で今、
ひとりの歌い手が、覚悟の予兆に触れつつあった。
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第36話 了




