第35話 音が揺らぐ夜
ここはレイアノーティア。
名は人を座らせ、役目は人を歩かせる。
音は波となり、
波は重なり、
やがて均衡に戻る。
――戻らないさざ波だけが、ひとつ。
それは、誰のものでもないはずの波。
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三日目の夜。
「検証三回目です」
コムギが真顔で言った。
「統計的に、偶然とは言い切れません」
「何の統計だ」
トンヌラが聞く。
「おいしい店は三回行ってもおいしいのか、です!」
「なんだそれ」
「大事な検証です!」
「俺も、あの店は気に入りました」
ガルドが静かに頷く。
「ガルドさんまで」
「立ちやすいです」
「それたぶん褒めてるんでしょうけど、独特すぎて」
フィーが小さく笑い、すぐ真剣な顔に戻る。
「実は私も少し、気になることがあります」
「何です?」
コムギが聞く。
「昨日の風です」
「風?」
「はい。少しだけ、気になっていて」
「私はご飯の方が気になります!」
「お前はずっとそうだな」
トンヌラが言う。
「だって大事ですし! 団長さんも魚が気になるんでしょう?」
「……それはそうだ」
「ほらー!」
理由は、まあ十分だった。
⸻
《青錆の弦亭》
扉を開けると、いつもの匂いがした。
その上を、ギターの音が滑っていく。
今日は客が多かった。
笑い声も、皿の鳴る音も、注文を呼ぶ声も、昨日より一段だけ多い。
それなのに、店の空気は妙に軽かった。
ミラは舞台の上から、一行が入ってきた瞬間に気づく。
(来た)
もう驚かない。
来てほしいとも思っていた。
同じ席。
同じ空気。
同じ温度。
そして今日は、何かが少し違う。
客の呼吸が、ほんの半拍だけ速い。
気のせいだと言われたら、それまでの差だ。
でも、音の人間はそういうわずかなズレで食っている。
ミラの指が、一瞬だけ強く弦を押さえた。
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一曲目。
完璧だった。
二曲目。
問題ない。
三曲目の途中。
チリ。
ほんのわずかに、弦の裏側でざらつく音がした。
ミラだけが気づく。
(今の、違う)
指は正確だった。
チューニングも狂っていない。
手元に乱れはない。
客は笑っている。
料理は運ばれている。
誰も気にしていない。
だが、音の裏側がざらついた。
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トンヌラたちの席では、相変わらず会話が平和だった。
「魚、どうします?」
コムギが聞く。
「まだ悩んでいる」
トンヌラが真顔で答える。
「昨日も同じこと言ってませんでした?」
「魚というものは、見極めが大事だ」
「そこまでですか!?」
「俺は肉も捨てがたいです」
ガルドが言う。
「ガルドさん、それ両方頼む流れじゃないですか」
「可能なら」
「可能です。すいませーん!」
コムギが店員を呼んだ。
「補給担当として、そこは柔軟にいきます!」
「お前の柔軟さ、だいたい食事に向くな」
「大事ですから!」
フィーは舞台を見ていた。
「……少し」
「何です?」
コムギが聞く。
「力みがあります」
「ミラさんですか?」
「はい。昨日より、少しだけ」
「緊張ですか?」
「たぶん、それだけじゃないんですよね」
ぽめは椅子の下で丸い。
丸いまま、まだ寝ている。
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四曲目。
今度はコードが、ほんの半拍だけ遅れた。
いや、遅れたのではない。
どこかが、先に進んだ。
ミラの背中に冷たい汗が伝う。
(あたし、ズレてないよね?)
客の呼吸は普通。
手拍子も普通。
店員の足音も、皿を置く音も、見た目には何も変わらない。
でも合わない。
どこか一枚、薄い膜みたいなものが、音の上にかぶさっている。
合わせようとすると、少しだけ外れる。
外れたと思って戻すと、もう半拍ずれている。
(なに、これ)
ミラの喉がひりつく。
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舞台の端。
ぽめが、ぱちりと目を開けた。
「……」
一瞬だけだった。
眠そうな顔が、ほんのわずかに起きる。
そしてまた、何事もなかったみたいに目を細める。
フィーはその小さな変化を見逃さなかった。
「ぽめ?」
小さく呼ぶ。
ぽめは返事をしない。
だが耳だけが、ほんの少しだけ舞台の方を向いていた。
フィーの胸の奥に、嫌な感覚が走る。
「……この子、起きました」
「珍しいですか?」
コムギが聞く。
「少し」
「そんなに気になります?」
「はい」
「ひえっ」
コムギが肩をすくめる。
「それ、気にした方がいいやつですね?」
「たぶん」
「たぶん、が怖いです……」
ガルドも前を見たまま、小さく言った。
「俺も、何かあります」
「何がです?」
コムギが聞く。
「分からないです。でも、少し落ち着かない」
「ガルドさんがそう言う時って、何かあるんですよね……」
トンヌラは水を飲みながら、ふと呟く。
「……今日は少し騒がしいな」
「混んでますしね」
コムギが言う。
「そうじゃない」
トンヌラは眉をひそめた。
「何がです?」
「分からん」
意味不明だった。
だが、ミラはその言葉に反応した。
(分かるの?)
分かる、というより、拾っている。
音の理屈ではなく、場の違和感を。
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曲が終わる。
拍手はいつもより大きかった。
客は楽しんでいる。
声も出る。
空気も悪くない。
それなのに、手応えがない。
(なんで)
音は外れていない。
声も届いている。
客の反応もある。
なのに、胸の奥につっかえるような感覚。
終わったあとに残るはずの“繋がった感じ”だけが、どこかに抜け落ちている。
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店の外。
風が一度、逆向きに流れた。
遠くで鐘が鳴る。
今度は――ほんのわずかに不協和だった。
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観測室。
水晶の表面に、細い亀裂みたいな線が一度だけ走った。
ノインが顔を上げる。
「微細な振動。発生源不明」
リリカが身を乗り出す。
「ズレてる?」
「まだ誤差です」
「でも嫌な感じします」
「感じる、ではなく数値で」
「ノイン、そういう時ほんと硬いですよね」
「職務です」
「はいはい……でも、嫌な予感は大事ですよ」
「……」
ノインは答えなかった。
ただ、沈黙が少し長かった。
エヴァンは目を閉じたまま、静かに言う。
「許容誤差、範囲内」
「長官」
ノインが呼ぶ。
「前奏だ」
それだけだった。
まだ指は動かない。
だが、聴いてはいる。
⸻
店内。
ミラは、水を飲むふりをして呼吸を整えた。
だが整いきらない。
胸の奥にざらつきが残る。
そのまま、トンヌラのテーブルの前へ来る。
「今日、どうだった?」
強がった声だった。
トンヌラは少し考えた。
「腹には響いた」
「それ以外は?」
「……少し、うるさかった」
ミラの心臓が跳ねる。
「どこが」
「分からん」
「分からないんだ」
「だが、整ってない」
短い。
雑だ。
でも、核心だけは外していない。
ミラは数秒、黙った。
それから、いつもの強気な笑い方を作る。
「そっか。じゃあ整えてみせる」
宣言だった。
誰にでもなく。
まず、自分に向けた。
コムギが目をぱちぱちさせる。
「今の、ちょっとかっこよかったです」
「ちょっとだけ?」
ミラが聞く。
「かなりです!」
「じゃあ許す」
「上からだ……」
フィーが小さく笑う。
「でも、似合います」
「でしょ?」
「はい」
「いいですね、フィーさん。分かってる」
「何となくです」
「何となくでそこまで言われると嬉しいな」
ミラはそう言ったが、目の奥はまだ少し硬いままだった。
⸻
その夜。
街は何事もなく眠る。
戦いもない。
ただ――
どこかで、音が重なり損ねている。
まだ名はない。
だが確実に。
不協和音が、静かに息を潜めている。
ここはレイアノーティア。
波はやがて均衡に戻る。
――戻れなかった波だけが、物語になる。
⸻
第35話 了




