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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第3章 治す者 ペットシッター

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第28話 覚悟の予兆

 ここはレイアノーティア。

 名は人を座らせ、役目は人を歩かせる。


 けれど、ときどき世界は、

 名前でも役目でも止まらないものを寄こす。


 その時、人が最後に掴むのは、

 強さではなく――

 もう失いたくない、という感情だったりする。



 五日目の朝は、最初から空気が悪かった。


 重いわけではないし、湿っているわけでもない。

 なのに、歩き出した瞬間から全員の呼吸が少しだけ荒い。


 馬が二度、何もない方向を見た。

 草が風もないのに擦れた。

 ぽめだけが、何事もない顔であくびをしていた。


「……朝からやな感じです」

 コムギが鍋を抱えたまま言う。


「同感です」

 ガルドが短く返す。


 フィーは前を見たまま、返事をしなかった。

 昨日の夜、口に出してしまったことで、むしろ嫌な輪郭がはっきりした気がする。


 

 魔物の分布が、明らかに作為的だ。

 何より、「避けたはずの先」にまで次がいる。


 理解はできる。

 どこが変かも、前よりは慣れてきた。しかしそれで止められるとは限らない。


 そこが一番、嫌だった。


(この前と一緒じゃないか)


 トンヌラが腕を組んだまま言う。


「今日は最初から騒がしいな」

「団長さん、それ分かるんですか?」

 フィーが少し意外そうに聞く。

「分からん」

「分からないんですね」

「だが、昨日までより面倒そうな顔はしてる」

「誰がです?」

「全員だ」

「うわ、当たり前だけど当たってます……」


 コムギが本気で嫌そうな顔をした。



 午前のうちは、まだ何とか避けられた。


 フィーが進路を変える。

 馬の歩幅を合わせる。

 立ち止まり、少し待ち、また進む。


 だが、避けた先に別の気配がある。


 右を避ければ左。

 左を避ければ前。

 前を捌けば、遅れて後ろ。


「……一段と多いですね」

 フィーが小さく言った。


「それ、あんまり聞きたくないやつです!」

 コムギが叫ぶ。


 ガルドが前を見たまま聞く。


「避けきれますか」


「今は、まだ」

「“今は”ですね」

「はい」

「嫌なやつです」


 フィーとガルドが揃って頷いた。

 コムギは鍋を抱えたまま首を振る。


「二人で納得しないでくださいよー!」


 ぽめはその少し後ろを、あいかわらず妙な距離でついて来ていた。

 呼んでも寄らない。

 追っても逃げすぎない。

 やはり、どこか変だ。


 そしてフィーは、そのぽめを見るたびに、胸の奥が少しだけ軋む。


 似ている。


 白くて、小さくて、丸くて、

 妙に人のそばにいるくせに、肝心なところで少しだけ距離を取る感じまで。


 思い出したくないのに。



 最初の崩れは、昼過ぎだった。


 水場に寄る手前の細い道で、前方の藪が一斉に揺れた。

 ひとつではない。

 ふたつでもない。


 フィーの足が止まる。


「……まずい」

「何匹です?」

 ガルドが聞く。

「分からないです」

「分からない!?」

 コムギの声が裏返る。


 それは、この数日で初めてだった。


 フィーが読み切れない。

 それだけで、隊の空気が一段冷える。


 次の瞬間、左右の茂みから同時に魔物が飛び出した。


 狼型。

 犬より大きく、牙が長い。

 しかも動きに統率が取れている。一体が脅し、別の一体が回り込み、さらに後ろにもう一匹いる。


「下がってください」

 ガルドが前に出る。


 盾を構え、一歩だけ前へ出る。


 それだけで空気が変わる。


 魔物の一体が飛びかかりかけて、そこでほんのわずかに軌道を迷った。

 踏み込めばぶつかる。

 ぶつかれば面倒だと、本能が知る。


 ガルドは動かない。

 ただ立つ。


 肩を開き、重心を落とし、前へ抜けようとする気配だけを止める。

 守るための立ち方だった。


「コムギさん、後ろです」

「わ、分かりました!」


 コムギが鍋を抱えて飛び下がる。

 トンヌラは半歩だけずれて、ずれたことを悟られないよう、腕を組み直した。


(来るな…来るなよ)

(ガルド、頼む)


 内心だけが忙しい。


 フィーは気配を追う。

 前に二。

 横に一。

 もう一匹、少し離れて様子を見ている。


 読める。

 呼吸も、狙いも、次に動く順番も。

 読めるのに――


「左から来ます!」

 声に出した瞬間、別の一体が右へ回る。


 ガルドが体をずらし、両方の間へ立つ。

 受ける。

 押し返さない。

 ただ、通さない。


 魔物が低く唸り、距離を測る。

 その背後で、さらにもう一匹が覗く。


「増えてる……」

 フィーの声が、ほんの少しだけ揺れた。



 小さな衝突は、その後も断続的に続いた。


 まともにぶつかるほどではない。

 だが、気を抜くとすぐ寄られる。


 ガルドが前に立つ。


「相手が正面じゃないと、止まりません。俺の後ろへ集まってください!」

 フィーが進路をずらす。

 コムギが「ちょ、ちょっと!」「またです!?」「多いですって!」と叫びながらも、鍋と補給だけは手放さない。

 トンヌラは、何もしていないのに何かしているように見える位置を保つ。


 その妙な連携が、かろうじて全体を保っていた。


 けれど、削られる。


 小さく。

 確実に。


 馬も落ち着かない。

 コムギの声も、少しずつ高くなる。

 フィーの視線は忙しくなり、ガルドの呼吸は目に見えて重くなっていく。


「ガルドさん、大丈夫ですか!?」

 コムギが叫ぶ。

「大丈夫ではないです」

「正直!」

「でも、立てます」

「うわ、それはそれで怖いです!」


 魔物はすぐには引かない。

 昨日までのように、少し見て、諦める距離ではない。

 今日は明らかに徒党を組んだ兵士のようにまとまっていた。


 フィーの呼吸が荒くなる。


 多い。

 多すぎる。


 その感覚が、胸の奥の古い傷へまっすぐ繋がる。


 あの時もそうだった。


 読むことはできた。

 呼吸も、興奮も、弱り方も。

 どの順で危なくなるかも、何から先に崩れるかも。

 全部ではないにせよ、かなり見えていた。


 なのに、何もできなかった。


 怪我人がいて、傷ついた生き物がいて、

 犬が震えていて、

 声をかけることしかできなかった。


「フィーさん!」

 コムギの声で今に引き戻される。


 目の前では、ガルドがまだ立っていた。


 押されている。

 踏み込まれている。

 それでも、一歩も引かない。


 守っている。

 その立ち方だけで、相手が前へ出るのを諦めるまで。


 フィーは息を吸う。


 今は、あの時じゃない。

  一人じゃない。

 分かっている。

 分かっているのに、体が一度覚えた怖さは、簡単には消えない。



 そして、限界に近い局面は唐突に来た。


 細い坂を上がる途中、前後左右の気配が一気に重なった。


「……囲まれてる」

 トンヌラが初めて、はっきり言った。


 コムギの顔色が変わる。


「えっ、ちょ、ちょっと待ってください……!」

「落ち着いてください」

 ガルドが言う。

「落ち着けないです!」

「俺も同じです」

「ガルドさんまで!?」


 フィーは目を走らせる。


 前に二。

 横に三。

 後ろに少なくとも一。

 どの魔物も、引く気配がない。


 その瞬間、胸の奥で何かが落ちた。


 (無理だ)


 そう思ったのは、魔物の数を見たからではない。

 この配置を、昔どこかで知っているからだ。


 助けたい相手が多すぎて、

 見えていても間に合わなくて、

 何を先にすればいいか分かっているのに、その全部には届かない時の配置だった。


 ぽめが、小さく鳴いた。


 フィーの目がそちらへ向く。


 白い毛。

 小さな体。

 呼吸は落ち着いている。

 でも、ここにいる。


 守りたい、と思った瞬間、昔の光景が重なる。


 湿った毛。

 震える体。

 弱くなっていく呼吸。

 間に合わなかった手。


「……っ」


 喉が詰まる。


 また同じになる。

 そう思った。


 誰も失いたくない。

 この子も。

 もう、ああいう顔は見たくない。


 でも、自分は――


 理解できるだけだ。



 その時だった。


 ぽめが、ふわあと大きくあくびをした。


 間の抜けた、眠そうなあくびだった。


 なのに。


 空気が止まる。


 魔物の動きが、ほんの一瞬だけぴたりと止まった。

 唸り声も、飛びかかる直前の筋肉の張りも、何かを思い出したみたいに緩む。


 ガルドが前に立ったまま、動かない。

 コムギも「……え?」と固まる。

 トンヌラは腕を組んだまま、内心でだけ叫んだ。


(何だ今の)


 フィーも息を呑む。


 魔物たちは、一歩、二歩と距離を取り、

 それから一匹ずつ森の奥へ引いていった。


 逃げたわけではない。

 戦う気が削がれた、とでも言うような去り方だった。


 静寂が落ちる。


 誰もすぐには喋れなかった。


 最初に声を出したのは、やはりコムギだった。


「……な、何ですか今の」

 それは疑問でもあり、悲鳴でもあり、感想でもあった。


 ガルドがゆっくり息を吐く。


「助かりました……?」

「たぶん」

 フィーが答える。

「どういうことですか!?」

「分からないです、今のは」

「私も分からないです!」

「俺もです」

「ガルドさんまで!?」


 トンヌラがぽめを見た。


 ぽめは寝ている。

 とても安らかだ。

 信じられないくらいリラックスしている。


「……犬だな」

「今の見て、それで済ませます!?」

 コムギが叫ぶ。


 だがフィーは、ぽめから目を離せなかった。


 助かった。

 でも、助けられたのは自分ではない。

 あれが何だったのかも分からない。


 そして、次も同じように止まる保証はどこにもない。


 火照った息をゆっくり吐きながら、フィーは小さく言った。


「……次は、ないかもしれません」


 コムギが息を呑んだ。


「うう……今のは普通に怖いです……」

「すみません」


 コムギの声に、少しだけ現実が戻る。


 だが、戻ったからこそ分かる。


 今のは解決ではなく保留だ。

 それも、ひどく頼りない形の。



 その夜の野営は、誰も深く眠れなかった。


 火を大きめにし、コムギは何度も鍋をかき回し、ガルドは座っていても前を見ていた。

 トンヌラは腕を組んだままボーッとしているフリをして、実際にはかなり本気で考えていた。


(この前と同じだ)


 フィーは、少し離れたところにいるぽめを見ていた。


 似ている。

 今日、それをもう否定できなくなった。


 同じ犬ではない。

 同じであるはずもない。

 なのに、心の一番柔らかいところがざわざわする。


 勝手に重ねてしまう。

 守れなかった。

 あの時は。


 理解していた。

 呼吸も、弱り方も、危ない順番も。

 でも、理解は届くことと同じじゃなかった。


 自分は見えているだけだった。


「……この子も守りたいか」

 トンヌラの声がした。


 フィーは少しだけ驚いて、振り返る。


「……はい」

「そうか」

「雑ですね」

「分かったことを雑に受け取ってるだけだ」

「それ、たまにずるいです」

「今さらだな」


 ぽめは丸くなったまま、眠そうに目を細めている。


 フィーは火を見ながら、小さく言った。


「誰も失いたくないんです」

「……」

「でも、見えてるだけで間に合わないなら、また同じになる」

「今は一人じゃない」

 トンヌラが言う。


 その言葉に、フィーはすぐには返せなかった。


 一人ではない。

 それは本当だ。

 ガルドがいる。

 コムギがいる。

 トンヌラもいる。

 ぽめまでいる。


 でも、それでも足りないかもしれない。

 その怖さだけは、まだ胸の奥から動かない。


「……分かってます」

 やっと、それだけ言う。


 トンヌラはそれ以上は踏み込まなかった。

 踏み込めないというより、今はその距離でいいと判断したのだろう。


 火が鳴る。

 夜が深くなる。

 ぽめは眠る。

 フィーの不安は、眠らない。


 ここはレイアノーティア。

 覚悟はいつも、大きな声で始まるわけじゃない。


 むしろその前には、

 自分ではどうにもならないかもしれない、という恐れがある。


 見えているだけでは足りない。

 分かるだけでは守れない。

 その痛みが、いつか力になる前の夜は、

 だいたい静かで、長い。



 第28話 了


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