第28話 覚悟の予兆
ここはレイアノーティア。
名は人を座らせ、役目は人を歩かせる。
けれど、ときどき世界は、
名前でも役目でも止まらないものを寄こす。
その時、人が最後に掴むのは、
強さではなく――
もう失いたくない、という感情だったりする。
⸻
五日目の朝は、最初から空気が悪かった。
重いわけではないし、湿っているわけでもない。
なのに、歩き出した瞬間から全員の呼吸が少しだけ荒い。
馬が二度、何もない方向を見た。
草が風もないのに擦れた。
ぽめだけが、何事もない顔であくびをしていた。
「……朝からやな感じです」
コムギが鍋を抱えたまま言う。
「同感です」
ガルドが短く返す。
フィーは前を見たまま、返事をしなかった。
昨日の夜、口に出してしまったことで、むしろ嫌な輪郭がはっきりした気がする。
魔物の分布が、明らかに作為的だ。
何より、「避けたはずの先」にまで次がいる。
理解はできる。
どこが変かも、前よりは慣れてきた。しかしそれで止められるとは限らない。
そこが一番、嫌だった。
(この前と一緒じゃないか)
トンヌラが腕を組んだまま言う。
「今日は最初から騒がしいな」
「団長さん、それ分かるんですか?」
フィーが少し意外そうに聞く。
「分からん」
「分からないんですね」
「だが、昨日までより面倒そうな顔はしてる」
「誰がです?」
「全員だ」
「うわ、当たり前だけど当たってます……」
コムギが本気で嫌そうな顔をした。
⸻
午前のうちは、まだ何とか避けられた。
フィーが進路を変える。
馬の歩幅を合わせる。
立ち止まり、少し待ち、また進む。
だが、避けた先に別の気配がある。
右を避ければ左。
左を避ければ前。
前を捌けば、遅れて後ろ。
「……一段と多いですね」
フィーが小さく言った。
「それ、あんまり聞きたくないやつです!」
コムギが叫ぶ。
ガルドが前を見たまま聞く。
「避けきれますか」
「今は、まだ」
「“今は”ですね」
「はい」
「嫌なやつです」
フィーとガルドが揃って頷いた。
コムギは鍋を抱えたまま首を振る。
「二人で納得しないでくださいよー!」
ぽめはその少し後ろを、あいかわらず妙な距離でついて来ていた。
呼んでも寄らない。
追っても逃げすぎない。
やはり、どこか変だ。
そしてフィーは、そのぽめを見るたびに、胸の奥が少しだけ軋む。
似ている。
白くて、小さくて、丸くて、
妙に人のそばにいるくせに、肝心なところで少しだけ距離を取る感じまで。
思い出したくないのに。
⸻
最初の崩れは、昼過ぎだった。
水場に寄る手前の細い道で、前方の藪が一斉に揺れた。
ひとつではない。
ふたつでもない。
フィーの足が止まる。
「……まずい」
「何匹です?」
ガルドが聞く。
「分からないです」
「分からない!?」
コムギの声が裏返る。
それは、この数日で初めてだった。
フィーが読み切れない。
それだけで、隊の空気が一段冷える。
次の瞬間、左右の茂みから同時に魔物が飛び出した。
狼型。
犬より大きく、牙が長い。
しかも動きに統率が取れている。一体が脅し、別の一体が回り込み、さらに後ろにもう一匹いる。
「下がってください」
ガルドが前に出る。
盾を構え、一歩だけ前へ出る。
それだけで空気が変わる。
魔物の一体が飛びかかりかけて、そこでほんのわずかに軌道を迷った。
踏み込めばぶつかる。
ぶつかれば面倒だと、本能が知る。
ガルドは動かない。
ただ立つ。
肩を開き、重心を落とし、前へ抜けようとする気配だけを止める。
守るための立ち方だった。
「コムギさん、後ろです」
「わ、分かりました!」
コムギが鍋を抱えて飛び下がる。
トンヌラは半歩だけずれて、ずれたことを悟られないよう、腕を組み直した。
(来るな…来るなよ)
(ガルド、頼む)
内心だけが忙しい。
フィーは気配を追う。
前に二。
横に一。
もう一匹、少し離れて様子を見ている。
読める。
呼吸も、狙いも、次に動く順番も。
読めるのに――
「左から来ます!」
声に出した瞬間、別の一体が右へ回る。
ガルドが体をずらし、両方の間へ立つ。
受ける。
押し返さない。
ただ、通さない。
魔物が低く唸り、距離を測る。
その背後で、さらにもう一匹が覗く。
「増えてる……」
フィーの声が、ほんの少しだけ揺れた。
⸻
小さな衝突は、その後も断続的に続いた。
まともにぶつかるほどではない。
だが、気を抜くとすぐ寄られる。
ガルドが前に立つ。
「相手が正面じゃないと、止まりません。俺の後ろへ集まってください!」
フィーが進路をずらす。
コムギが「ちょ、ちょっと!」「またです!?」「多いですって!」と叫びながらも、鍋と補給だけは手放さない。
トンヌラは、何もしていないのに何かしているように見える位置を保つ。
その妙な連携が、かろうじて全体を保っていた。
けれど、削られる。
小さく。
確実に。
馬も落ち着かない。
コムギの声も、少しずつ高くなる。
フィーの視線は忙しくなり、ガルドの呼吸は目に見えて重くなっていく。
「ガルドさん、大丈夫ですか!?」
コムギが叫ぶ。
「大丈夫ではないです」
「正直!」
「でも、立てます」
「うわ、それはそれで怖いです!」
魔物はすぐには引かない。
昨日までのように、少し見て、諦める距離ではない。
今日は明らかに徒党を組んだ兵士のようにまとまっていた。
フィーの呼吸が荒くなる。
多い。
多すぎる。
その感覚が、胸の奥の古い傷へまっすぐ繋がる。
あの時もそうだった。
読むことはできた。
呼吸も、興奮も、弱り方も。
どの順で危なくなるかも、何から先に崩れるかも。
全部ではないにせよ、かなり見えていた。
なのに、何もできなかった。
怪我人がいて、傷ついた生き物がいて、
犬が震えていて、
声をかけることしかできなかった。
「フィーさん!」
コムギの声で今に引き戻される。
目の前では、ガルドがまだ立っていた。
押されている。
踏み込まれている。
それでも、一歩も引かない。
守っている。
その立ち方だけで、相手が前へ出るのを諦めるまで。
フィーは息を吸う。
今は、あの時じゃない。
一人じゃない。
分かっている。
分かっているのに、体が一度覚えた怖さは、簡単には消えない。
⸻
そして、限界に近い局面は唐突に来た。
細い坂を上がる途中、前後左右の気配が一気に重なった。
「……囲まれてる」
トンヌラが初めて、はっきり言った。
コムギの顔色が変わる。
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください……!」
「落ち着いてください」
ガルドが言う。
「落ち着けないです!」
「俺も同じです」
「ガルドさんまで!?」
フィーは目を走らせる。
前に二。
横に三。
後ろに少なくとも一。
どの魔物も、引く気配がない。
その瞬間、胸の奥で何かが落ちた。
(無理だ)
そう思ったのは、魔物の数を見たからではない。
この配置を、昔どこかで知っているからだ。
助けたい相手が多すぎて、
見えていても間に合わなくて、
何を先にすればいいか分かっているのに、その全部には届かない時の配置だった。
ぽめが、小さく鳴いた。
フィーの目がそちらへ向く。
白い毛。
小さな体。
呼吸は落ち着いている。
でも、ここにいる。
守りたい、と思った瞬間、昔の光景が重なる。
湿った毛。
震える体。
弱くなっていく呼吸。
間に合わなかった手。
「……っ」
喉が詰まる。
また同じになる。
そう思った。
誰も失いたくない。
この子も。
もう、ああいう顔は見たくない。
でも、自分は――
理解できるだけだ。
⸻
その時だった。
ぽめが、ふわあと大きくあくびをした。
間の抜けた、眠そうなあくびだった。
なのに。
空気が止まる。
魔物の動きが、ほんの一瞬だけぴたりと止まった。
唸り声も、飛びかかる直前の筋肉の張りも、何かを思い出したみたいに緩む。
ガルドが前に立ったまま、動かない。
コムギも「……え?」と固まる。
トンヌラは腕を組んだまま、内心でだけ叫んだ。
(何だ今の)
フィーも息を呑む。
魔物たちは、一歩、二歩と距離を取り、
それから一匹ずつ森の奥へ引いていった。
逃げたわけではない。
戦う気が削がれた、とでも言うような去り方だった。
静寂が落ちる。
誰もすぐには喋れなかった。
最初に声を出したのは、やはりコムギだった。
「……な、何ですか今の」
それは疑問でもあり、悲鳴でもあり、感想でもあった。
ガルドがゆっくり息を吐く。
「助かりました……?」
「たぶん」
フィーが答える。
「どういうことですか!?」
「分からないです、今のは」
「私も分からないです!」
「俺もです」
「ガルドさんまで!?」
トンヌラがぽめを見た。
ぽめは寝ている。
とても安らかだ。
信じられないくらいリラックスしている。
「……犬だな」
「今の見て、それで済ませます!?」
コムギが叫ぶ。
だがフィーは、ぽめから目を離せなかった。
助かった。
でも、助けられたのは自分ではない。
あれが何だったのかも分からない。
そして、次も同じように止まる保証はどこにもない。
火照った息をゆっくり吐きながら、フィーは小さく言った。
「……次は、ないかもしれません」
コムギが息を呑んだ。
「うう……今のは普通に怖いです……」
「すみません」
コムギの声に、少しだけ現実が戻る。
だが、戻ったからこそ分かる。
今のは解決ではなく保留だ。
それも、ひどく頼りない形の。
⸻
その夜の野営は、誰も深く眠れなかった。
火を大きめにし、コムギは何度も鍋をかき回し、ガルドは座っていても前を見ていた。
トンヌラは腕を組んだままボーッとしているフリをして、実際にはかなり本気で考えていた。
(この前と同じだ)
フィーは、少し離れたところにいるぽめを見ていた。
似ている。
今日、それをもう否定できなくなった。
同じ犬ではない。
同じであるはずもない。
なのに、心の一番柔らかいところがざわざわする。
勝手に重ねてしまう。
守れなかった。
あの時は。
理解していた。
呼吸も、弱り方も、危ない順番も。
でも、理解は届くことと同じじゃなかった。
自分は見えているだけだった。
「……この子も守りたいか」
トンヌラの声がした。
フィーは少しだけ驚いて、振り返る。
「……はい」
「そうか」
「雑ですね」
「分かったことを雑に受け取ってるだけだ」
「それ、たまにずるいです」
「今さらだな」
ぽめは丸くなったまま、眠そうに目を細めている。
フィーは火を見ながら、小さく言った。
「誰も失いたくないんです」
「……」
「でも、見えてるだけで間に合わないなら、また同じになる」
「今は一人じゃない」
トンヌラが言う。
その言葉に、フィーはすぐには返せなかった。
一人ではない。
それは本当だ。
ガルドがいる。
コムギがいる。
トンヌラもいる。
ぽめまでいる。
でも、それでも足りないかもしれない。
その怖さだけは、まだ胸の奥から動かない。
「……分かってます」
やっと、それだけ言う。
トンヌラはそれ以上は踏み込まなかった。
踏み込めないというより、今はその距離でいいと判断したのだろう。
火が鳴る。
夜が深くなる。
ぽめは眠る。
フィーの不安は、眠らない。
ここはレイアノーティア。
覚悟はいつも、大きな声で始まるわけじゃない。
むしろその前には、
自分ではどうにもならないかもしれない、という恐れがある。
見えているだけでは足りない。
分かるだけでは守れない。
その痛みが、いつか力になる前の夜は、
だいたい静かで、長い。
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第28話 了




