第27話 やさしさが足りなかった日
ここはレイアノーティア。
名は人を座らせ、役目は人を歩かせる。
けれど、ときどき世界は、
座る暇も、役目を選ぶ暇も与えない。
ただ足りなかったことだけを残して、
人の胸に、長く居座る。
⸻
四日目の朝、空気は明らかに変わっていた。
湿ってはいない。
風もある。
だが、肌を通る空気が、少しだけ重い。
最初は人間ではなく馬が気付いた。
耳を小さく動かし、鼻先を揺らし、足を運ぶたびにほんのわずかにためらう。
フィーはその様子を見て、黙ったまま歩幅を合わせていた。
コムギがリュックを抱え直す。
「……今日、なんかやです」
「そうですね」
「フィーさんまで!」
コムギが本気で嫌そうな顔をする。
ガルドは前を見たまま、小さく言った。
「昨日より、緊張しています」
「馬ですか?」
「馬も、俺たちもです」
「ひえー! 自覚あるやつです!」
それが余計に怖かった。
トンヌラは腕を組んだまま空を見た。
分からない。
だが、分からないままでも、何かが昨日より悪いことだけは分かる。
「風が悪いな」
「団長、それ便利な言葉すぎません?」
「便利だから使う」
「開き直りました!」
コムギが叫ぶ。
フィーはそのやり取りに少しだけ口元をゆるめたが、目だけは前を見たままだった。
⸻
午前のうちは、まだ避けられた。
右へ寄る。
少し待つ。
歩幅をずらす。
馬の向きを変える。
それで何度か、ぎりぎり戦闘を避けることができた。
だが、昨日までと違うのは、避けた先にもまた別の気配があることだった。
草の奥でひとつ。
水場の近くでふたつ。
離れた木陰にもうひとつ。
散っているようで、散りきっていない。
逃げた先に次がある。
フィーが足を止める回数は、昨日より明らかに増えていた。
「……こっちです」
「またですか?」
「またです」
「ひえ……」
コムギの怖がり方は、だんだん素直になってきた。
ガルドが低く聞く。
「今度は何匹です?」
「三匹……いえ、四」
「増えましたね」
「はい」
「よくないですね」
フィーは短く頷き、少しだけ唇を噛んだ。
昨日まではもっと楽に読めていた。
寄り方にも、間にも、まだ余裕があった。
今はそれどころではない。
見えるが、見えたところで避けられるとは限らない。
いやな感覚が、胸の奥を静かに撫でた。
⸻
最初に避けきれなかったのは、昼過ぎだった。
街道脇の低い茂み。
フィーが先に「止まって」と言った時には、もう一匹が飛び出していた。
大きくはない。
だが速い。
ガルドが一歩前へ出る。
「下がってください」
低い声だった。
それだけで隊の前に境界ができる。
魔物は飛びかかりかけて、そこでほんのわずかに軌道を迷った。
その一瞬で十分だった。
境界に弾かれた個体が地面を転がり、フィーが馬を引き、コムギ叫びながら鍋を抱えて飛び下がる。
「ちょ、ちょっと! 避けるって言ってましたよね!?」
「言いました」
「来てますけど!?」
「来ました」
「冷静!!」
トンヌラは腕を組んだまま、半歩だけ後ろへ下がった。
後ろへ下がったことを悟られないように、偉そうな顔だけは崩さない。
(やばい。来た)
(来るな来るな)
内心だけが忙しい。
その間にも、藪の向こうで二匹目が唸る。
三匹目の気配が少し離れて動く。
フィーの目が細くなる。
「……近すぎる」
「何です?」
「いえ」
言って、フィーは口を閉じた。
今のは誰に言ったわけでもない。
だが、自分の中で確かに嫌な形に近づいていた。
呼吸は読めたし足の運びも見える。
飛び出す角度も分かる。
だが全部は止められない。
⸻
どうにか一団をやりすごし、小さな水場まで退いたところで、コムギがへなへなと座り込んだ。
「なんとかなりましたね……」
「まだ始まったばかりです」
「始まってほしくなかったです!」
「俺も同感です」
「ガルドさんまで!」
ガルドは周囲を見ながら、少しだけ息を吐く。
「でも、今のはまだ小さい方です」
「まだ大きなのもいるってことですよね」
コムギが頭を抱える。
フィーは水場の縁にしゃがみ込み、馬の脚を見た。
震えてはいない。
ただ、落ち着きがない。
呼吸も少し速くなっていた。
「大丈夫」
馬に向けて言う。
それは馬への声で、同時に自分への声でもあった。
トンヌラが近くへ来る。
「お前は大丈夫か」
「……はい」
「嘘だな」
「団長さん、その言い方ちょっと容赦ないです」
「大丈夫ではないです。でも、動けます」
「ならそれでいい」
トンヌラはそう言ったが、フィーは少しだけ助かった顔をした。
大丈夫かと聞かれるのは苦手だった。
大丈夫ですと答える癖があるからだ。
だが、最初から嘘だと切られると、少しだけ肩の荷が降りた。
コムギが水を飲みながら、ふとぽめの方を見た。
「あれ、この子全然怖がってなくないですか?」
「怖がってないですね」
「肝のすわった犬」
「ポメラニアンだな」
「団長、それ答えになってません!」
ぽめは少し離れた場所で座り、いつも通り眠そうな顔をしていた。
さっきの騒ぎにも大して動じていない。
フィーの目が、また一瞬だけ止まる。
小さくて白い。
丸くて、ふわふわ。
妙に落ち着いている。
(似てる)
その言葉が胸に浮かんだ瞬間、フィーはすぐに視線を外した。
⸻
午後に入ると、避けきれない場面が露骨に増え始めた。
正面を避ければ横から来る。
横を捌けば、少し遅れて別の個体が現れた。
戦闘というほど大きくはないが、消耗が積み重なっていく。
いちばん嫌なテンポだった。
ガルドが前へ出る。
フィーが道をずらす。
コムギが「ひえー!」「またですか!」「多いです!」と叫びながらも鍋だけは守る。
トンヌラは腕を組み、何もしていないのに何かしていそうな位置にいる。
傍から見れば、妙な連携だった。
しかも、それが機能してしまう。
小さな群れをいなして、ようやく開けた場所に出た時、向こうから来た別班の冒険者が目を見開いた。
「……まだ無傷なのか」
「ええ。なんとか」
「こっちはもう二回も噛まれてる」
相手の目が、自然とトンヌラへ移る。
嫌な流れだった。
「やっぱり、ネームレスがいる隊は違うな……」
「違いますけど!?」
「何が」
「だいたい全部誤解だ」
「でも避けられてるじゃないですか」
「それはフィーさんが」
「そういうところが余計怖いんだよ」
どうしろというのか。
トンヌラは内心でそう思ったが、説明すればするほど怪しくなるのも分かっていた。
なので結局、いつもの雑な答えになる。
「知らん。避けたのはフィーだ」
「団長、それ訂正になってないです」
「事実だろ」
「そうなんですけどね」
コムギはそんな団長の態度にも慣れてしまっている。
フィーは困ったように笑ったが、その笑いは少し薄かった。
今のようなやり取りに救われるのは本当だ。
だが、その救われ方は、昔にはなかった。
昔は、見えていても届かなかった。
分かっていても、守れなかった。
あの時も、数は読めていた。
流れも分かっていた。
けれど多すぎた。
増える怪我人、吠える声が重なった。
血の匂いと湿った毛の匂いが混ざった。
そして、自分は結局治すことも、戻すこともできない。
息が浅くなる。
「フィーさん?」
コムギの声で、今に戻る。
「……すみません」
「大丈夫ですか?」
「はい」
「それ、たぶん大丈夫じゃないやつです!」
「鋭いですね」
「そこ褒められても困ります!」
コムギの反応に、ガルドが少しだけ口元を緩めた。
「コムギさんが騒いでるうちは、まだ大丈夫です」
「ガルドさん、それどういう意味ですか?」
「まだ元気なので、いけます」
「ひどい!」
その会話が、フィーの息を一拍だけ整えた。
⸻
野営地へ着く頃には、先日までとは打って変わって、全員が疲弊していた。
大きく壊れたわけではない。
だが、小さく削られている。
それが一番厄介だった。
(この前と似ているな)
コムギが鍋をかける。
ガルドが周囲を見る。
トンヌラが火の前に座る。
ぽめは少し離れた場所で丸くなる。
「ふあ」
フィーは鍋の湯気を見ながら、しばらく黙っていた。
火の匂い。
湯気。
少し焦げた根菜の匂い。
胸の奥に、別の匂いが蘇る。
湿ったシャツ。
血のついた毛。
震える呼吸。
そして、小さな生き物の体温。
あの時も、あまりにも多すぎた。
怪我をした人がいて、傷ついた生き物がいて、どこから手をつけても足りなかった。
大丈夫だと、何度も言った。
落ち着いてくださいと、何度も言った。
理解はできた。
呼吸も、弱り方も、何が起きるかも。
なのに何もできなかった。
ぽめが寝返りを打つ。
白い毛が火の明かりを少しだけ返す。
似ている。
今度は、その言葉を打ち消せなかった。
「……昔、似た子がいました」
自分でも驚くくらい、自然に口から出た。
コムギが顔を上げる。
ガルドも、トンヌラも、何も言わない。
フィーは火を見たまま続けた。
「大切にしてた子です」
「犬?」
トンヌラが聞く。
「はい。ポメラニアンでした」
「ぽめですね!」
「お前、そこで略すな」
トンヌラがすぐに突っ込む。
コムギは「すみません!」と肩をすくめたが、空気は少しだけ救われた。
フィーは、小さく笑った。
だがその笑いはすぐに消える。
「助けられなかったんです」
「……」
「見ていれば分かることは、たくさんありました。呼吸も、弱り方も、どうすれば少しは楽になるかも」
「でも、届かなかった」
トンヌラが言う。
フィーは、少しだけ驚いたように顔を上げた。
「はい」
「今もそう思ってる顔だ」
「……そう見えますか」
「見える」
「雑ですね」
「分かることを雑に言ってるだけだ」
「それ、すごいのか乱暴なのか、分からないですね」
「両方です!」
コムギが元気よく言った。
言ったあとで、自分の発言に少しだけ首をかしげる。
「たぶん!」
「勢いでまとめましたね」
「そういう時もあります!」
フィーはそれに、ほんの少しだけ救われたような顔をした。
ガルドが静かに言う。
「フィーさん」
「はい」
「見えていたのに助けられないのは、たぶん一番しんどいです」
「……」
「俺にはわかりません。でも分かるのに届かないのが苦しいのは、少し分かります」
「ガルドさん、あたたかい人ですね」
「そうですか。必死なだけです」
「優しいです」
コムギが力強く断言した。
フィーは火を見たまま、小さく息を吐く。
「また同じことになったら、と思うんです」
「なるかもしれんな」
トンヌラが言う。
フィーは少しだけ目を伏せた。
否定してほしかったわけではない。
でも、否定しないのか、とは少しだけ思った。
そのまま、トンヌラは続ける。
「だが、今はあの時と同じではない」
「……どうしてですか」
「お前が一人で抱えなくていいからだ」
「団長さん、それ今すごくそれっぽいです」
「今だけみたいに言うな」
「いつも本気なのが困るんですよ!」
コムギが叫び、ガルドが小さく頷く。
「俺もそう思います」
「お前まで乗るな」
「本音です」
フィーは少しだけ笑った。
今度の笑いは、昼間のものより自然だった。
自然だったからこそ、胸の奥が少しだけ痛い。
こういう空気の中にいると、過去の「足りなかった」が余計にはっきりする。
だから、まだ怖い。
誰も失いたくない。
ぽめも守りたい。
なのに、自分には見えるだけで、届かないかもしれない。
その不安が、火の向こうで静かに息をしていた。
ここはレイアノーティア。
やさしさだけでは足りない日がある。
分かるだけでも足りない日がある。
だから人は、後悔を抱えたまま次へ行く。
届かなかった手を忘れないまま、
また手を伸ばすしかない。
⸻
第27話 了




