第26話 不調の中心
ここはレイアノーティア。
整いすぎた世界。
整っているからこそ、
ほんの少しのズレが許されない。
ズレが生まれれば、
誰かがそれを直そうとする。
そこに生きているものの都合など、
ひとつも数えずに。
⸻
高くそびえ立つ塔。そこはまるで世界をすべて見通せるように、高く高く立っていた。
その中にある、白い光の差す部屋。
壁も、床も、机も、余計な装飾がない。
静かすぎて、衣擦れの音さえ浮いて聞こえる。
部屋の中央には、水晶卓が置かれていた。
その表面にはいくつもの線が淡く揺れている。脈のようでもあり、波のようでもある。
だがそれは生命そのものではない。生命の流れを、都合のいい結果へ寄せるための観測記録だった。
ノインは、その水晶卓を見下ろしていた。
長い指先が、ひとつの線をなぞる。
《N-LESS:ネームレス》
《G-ARD:バトル・ウォーデン》
《KMG:ミリタリー・サスティナー》
そして、そこに最近になって濃度の変わり始めた一本がある。
《FEE:要観測》
端末を抱えたリリカが、緊張した声で報告する。
「街道観測、更新です。対象パーティ、進行速度は想定範囲内。ただし、遭遇回避率が高いです」
「補給も安定している」
「はい。それに加えて、新規同行者の観測精度が高いです」
「精度」
ノインは言葉だけを返した。
「魔物の出現位置、群れの寄り方、空白区画の偏り……生態としての違和感に近づいています」
「どこまで」
「断定には至っていません。でも、自然な崩れ方ではない、というところまでは」
「近いですね」
「……はい」
ノインは机を一度だけ指先で叩いた。
軽い音だった。
だがこの部屋では、それで十分だった。
「まずいです」
「やっぱり、ですか」
「彼女は数を見ているのではない」
ノインの視線が《FEE》へ落ちる。
「呼吸、性質、偏り。生き物の側から見ている」
「だから分布の崩れ方に気づく」
「そうです」
リリカは端末を抱える手に少し力を入れた。
「でも、まだ真相は分かっていません」
「分かっていないのではない。言葉にしきれていないだけです」
「……」
「理解している者は、断定の前に止まる」
「フィーさんが、ですか」
「そういう種類の個体です」
ノインの声は平坦だった。
それは評価ではない。
好悪でもない。
ただ、観測対象の機能を正確に言い表しているだけだった。
⸻
ノインは別の記録を呼び出した。
古いログだった。
今より少し荒く、今より少しだけ精度の低い時代のもの。
それでも十分だった。
《地方獣害抑制案件》
《対象群:減耗調整》
《局所負荷:増加》
《生存個体数:予定値へ収束》
リリカの目が止まる。
その下に、さらに短い備考があった。
《同行補助個体:観測傾向あり》
《結果:自己責任傾向、増大》
「……これ」
リリカが小さく呟く。
「前の案件ですね」
「同系統です」
「この時も、魔物分布に手が入っていた」
「はい」
「じゃあ、助けられなかったのは」
「助からない数に戻しただけです」
ノインは即答した。
リリカは唇を噛んだ。
「その言い方は、やっぱり……」
「言葉の問題ではありません」
「でも」
「結果が重要です」
ノインの指先が、記録の末尾をなぞる。
「増えすぎた生存個体数、偏った回復、想定外の持続」
「それを、削った。整えた、と表現することもできます」
「……やだなあ、その言い方」
「好みの問題ではないです」
「そういうところですよ、ノイン」
リリカは少し頬をふくらませた。
だが、すぐに画面へ視線を戻す。
当時の簡易所見。
怪我人多数。
生存率低下。
同行者の精神負荷増大。
犬一頭、死亡。
たったそれだけの記録だ。
そこに痛みは書かれていない。
誰がどれだけ自分を責めたのかも。
どの命が、どれだけ大事だったのかも。
「本人は、自分の技量不足だと思っている」
「その方が次の行動は読みやすいです」
「……それ、利用してるってことですよね」
「結果としては」
ノインは否定しなかった。
リリカは端末をぎゅっと抱く。
やっぱり嫌なものは嫌だった。
⸻
部屋が静まる。
水晶卓の波形だけが、淡く揺れていた。
ノインはそこで、判断を下す。
「局所負荷を追加します」
「また、ですか」
「はい」
「でも、今でも十分に偏っています」
「だからこそ、です」
ノインの指が、水晶卓の一点に触れた。
街道。
分岐。
水場。
野営地。
目に見えない線が、そこへ向かって伸びていく。
「観測対象を飽和させます」
「飽和」
「違和感をひとつずつ見きれない程度に、遭遇率を増やす」
「有耶無耶にするために?」
「そうです」
「調査そのものを困難にする」
「その通りです」
リリカは画面を見つめた。
遭遇率の上昇。
群れの再偏向。
空白区画の圧縮。
休息地点周辺の密度変動。
紙の上では小さな補正にすぎない。
だが、現場で浴びる者にとっては、そのわずかな差が判断の遅れになる。
「倒れるほどでは、ないんですよね」
「倒れない程度に」
「でも、避けきれないくらいにはする」
「はい」
ノインの声は、どこまでも平らだった。
「成功が自然に見えない程度まで重くします」
「失敗させるんじゃなくて」
「成功を削るだけです」
「それ、聞こえ方が違うだけでは」
「結果は同じかもしれません」
「いや、やっぱり嫌ですって、その言い方……」
リリカは小さくぼやいた。
目の前の人間は冷酷なのではない。
冷酷ですらなく、整える側の論理だけで立っている。
そこに情は混じらない。
混じらないからこそ、始末が悪い。
⸻
ノインの視線が、再び《FEE》へ落ちる。
「この個体は、理解するだけなら以前からできていた」
「はい」
「だからこそ厄介です」
「理解できるのに、変えられない」
「その痛みは足を止める」
「でも今回は…」
ノインは目を細めた。
「ネームレスが近い」
「意味づけが先に走る」
「それが"覚醒"の引き金になるかもしれない」
「可能性はあります」
「じゃあ、なおさらまずい」
「はい。だから重くする」
リリカは端末を胸に抱えた。
フィーはまだ、助けられなかった過去の上に立っている。
理解できたのに、届かなかった痛みの上に。
そこへさらに同系統の負荷を重ねる。
それがどういうことか、想像できないほどリリカは鈍くなかった。
「……また、同じようなことをさせるんですか」
「同じではありません」
「何が」
「今回は観測対象が複数いる」
「そこですか」
ノインは迷わない。
「単独で背負わせるより、揺れ方が読みにくい」
「そのぶん危険も増えます」
「承知しています」
「承知してる、で済むんですか」
「済ませます」
即答だった。
リリカはむっとした顔をしたが、そこでふと、別項目へ目が止まる。
《白色小型個体:不明》
《追跡値:低》
《優先度:保留》
「……あっ」
「どうしました」
「これ、可愛いですね」
「は?」
ノインが珍しく聞き返した。
リリカは端末を少し持ち上げる。
「白色小型個体って、絶対ちっちゃくて丸いやつですよね。しかも追跡値低いって、ふらふらしてる感じですよね。可愛い……」
「何を言っているんですか」
「だって気になりますもん。白くて小さいんですよ?」
「情報量が少なすぎます」
「でも可愛いかもしれないじゃないですか」
「かもしれない、で判断しないでください」
ノインはそう返しながらも、視線だけはその項目に落ちた。
保留。
優先度は低い。
なのに、妙に引っかかる。
理由を説明しろと言われても困る。
ただ、嫌な予感がした。
「……その個体は」
「はい」
「一応、監視は継続してください」
「えっ、やっぱり気になります?」
「可愛いからではありません」
「そこは分かってます!」
リリカは言いつつ、少しだけにやっとした。
ノインが保留対象へ言葉を足す時は、だいたい本能が何かを拾っている時だ。
本人は認めないだろうが。
リリカは画面を戻し、今度は別の観測線に目を止めた。
《FEE:要観測》
その横に出ていた補足情報には、同行個体の外見特徴も含まれている。
「……フィーさん、やっぱりスタイルいいですよね」
「今、その話をする必要ありますか」
「だって気になるじゃないですか。華奢なのに胸あるタイプですよ?」
「知りません」
「コムギさんも気にしてましたけど、あれ分かりますもん」
「分からなくていいです」
「えー」
「えー、ではありません」
ノインは冷たく返したが、リリカはあまり堪えていない。
「可愛い子とか綺麗な人とか、小さい動物って、つい見ちゃうんですよね」
「職務に集中してください」
「してますよ。八割くらい」
「残りの二割が問題です」
「厳しいなあ……」
リリカは口をとがらせた。
それでも指は止めない。観測官としての手は、ちゃんと動いている。
⸻
水晶卓の上で、線がわずかに動いた。
街道の一角。
森の縁。
水場の近く。
昨日までは散っていた点が、ほんの少しだけ寄る。
あまりにも小さな変化だ。
現場の人間なら、その瞬間には気づかない。
だが積み重なれば、必ず息が乱れる。
ノインはその動きを見ながら、目を細めた。
ネームレス。
白色小型個体。
そして、理解だけで止まっていた観測個体。
どれも理屈の上では整理できる。
だが、整理できるはずのものほど、時々嫌な崩れ方をする。
「……ノイン?」
「何でもないです」
「今、嫌な顔しましたよね」
「していません」
「しましたよ」
「気のせいです」
「珍しいですね」
リリカは少しだけ真面目な声になった。
「何か、嫌な感じします?」
「……します」
「やっぱり」
「説明はできません」
「うわ、一番やなやつだ」
「はい」
「そこ即答するんですね」
「便利だったことがないので」
それもまた、即答だった。
⸻
同時刻。
街道では、風向きが少しだけ変わっていた。
草が寝る。
枝が揺れる。
馬が耳を動かす。
ほんの少し前まで、きれいに散っていた気配が、緩やかに寄り始める。
フィーは火のそばで、記録を見返していた手を止めた。
何か、とはまだ言えない。
だが、空気の密度が変わった気がする。
ガルドも顔を上げる。
「……増えますか」
「たぶん」
「やっぱりですか」
「はい」
コムギが鍋を抱き直した。
「ひえー! その“はい”、怖いやつです!」
「すみません」
「謝らないでください、余計に怖いです!」
「でも、怖いです」
「フィーさんまで言うんですか!?」
コムギが本気で顔を引きつらせる。
その横で、ぽめがのんびりと丸くなっていた。緊張感がない。
トンヌラは腕を組み直した。
話が違う。
そう言いたかった。
だが、街道は最初から何も約束していない。
勝手に静かになり、
勝手に荒れ始める。
それだけだ。
ここはレイアノーティア。
修正はいつも、派手に始まらない。
風が少し向きを変える。
群れが少し寄る。
空白だったはずの場所に、気配がひとつ増える。
それだけで、昨日までの日常は、
急に難しくなっていく。
⸻
第26話 了




