第25話 静かすぎる前触れ
ここはレイアノーティア。
名は人を座らせ、役目は人を歩かせる。
だが本当に厄介なものは、
名がつくより先に忍び寄る。
音もなく。
形もなく。
ただ、何かがおかしいという感覚だけを、
先に置いていく。
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三日目の街道は、ひどく静かだった。
静かすぎる、と言った方が近い。
風は吹いて、鳥の声が遠くで聞こえる
馬も歩く。歩く鍋とおたまがぶつかってカチャカチャ鳴る。
それなのに、道の空気は静まり返っていた。
昨日までと同じように進んでいるはずなのに、昨日までとは違う。
トンヌラには分からない。
ガルドにも、たぶん分からない。
コムギは「今日は平和ですね」と言ったが、その言い方が少しだけ不安そうだった。
フィーだけが、何も言わなかった。
道の脇を見る。
草の倒れ方を見る。
木の皮の傷を見る。
馬の耳が向く先を見て、すぐに視線を戻す。
何かを見ている。
だが、それをまだ言葉にはしていない。
「フィーさん、今日は静かですね」
コムギが鍋を抱えたまま言う。
「そうですね」
「なにか気になりますか?」
「……まだ何とも言えません」
「その返し、ちょっと怖いです」
「すみません」
コムギが慌てて両手を振る。
ガルドは前を見たまま、低く言った。
「分からないなら、できるだけ警戒していた方がいいですね」
「ガルドさん、今日もちゃんとしてますね」
「俺はいつも立っているだけですよ」
「それはそうなんですけど、ブレなくて感心する時があるんです!」
「前に立つのが役目なので」
それを聞き、フィーは少しだけ笑った。
その笑い方は、この数日でだいぶ柔らかくなっていた。
それでも、目の奥の緊張までは消えていない。
⸻
昼前、道の分岐でフィーが立ち止まった。
右は街道沿いのまま進む道。
左は少し遠回りだが、木立の深い緩やかな坂へ入る。
「左へ行きます」
「理由は?」
ガルドが聞く。
フィーは少し考えている。
コムギが即座に言う。
「そっちの方が、お腹空いてないってことですか」
フィーは困ったように言い直した。
「右は、出る位置が寄りすぎてます。左の方が
まとまっていないので」
「つまり?」
「今は左の方が、安全に抜けやすいと思います」
「急に分かりやすくなりました!」
「コムギさん向けに言い換えました」
「私向けだったんですか!?」
「半分くらいは」
「やっぱりだ!」
そんなやり取りをしながら左へ入る。
しばらくして、右手の遠くで低い唸り声がいくつか重なった。
ガルドの表情が少しだけ硬くなる。
「……いますね」
「います」
「多いですか?」
「今日は、少し」
「それ、少しで済ませる数じゃないですよね?」
「かもしれません」
フィーはそれ以上言わなかった。
ただ、唸り声のした方向を一度だけ見て、歩幅を少しだけ詰める。
白い小さな犬――ぽめは、少し後ろをついて来ていた。
呼んでも寄らない。
追っても逃げすぎない。
あいかわらず、妙な距離感だった。
「ついて来てますね」
「ええ。ついて来てます」
「可愛いので」
「可愛いですね」
「可愛いだけで、いいんですか」
「ガルドさん、可愛いは即断していいんですよ!」
「そういうものですか」
「はい。そういうものです!」
コムギは断言した。
ぽめはそんな会話など関係ない顔だった。
「ふあ」
とてもリラックスしているように見える。その横顔を見た瞬間、フィーの視線がほんの少しだけ止まる。
すぐに戻って、何も言わない。
だが、その一瞬だけは、見逃したくても見逃せない類の沈黙だった。
トンヌラはそれに気づいたが、やはり何も聞かなかった。
今聞いても、たぶんフィーは答えない。
答えられないというより、まだ答えるほど付き合いは長くないのだろう。
⸻
野営地へ入るころには、日が傾いていた。
開けた場所だった。見張りもしやすい。フィーがここを指定した。
それなのに、本人は妙に落ち着かなかった。
コムギは鍋をかけ、ガルドは立ち位置を見て、トンヌラは腕を組んで火の前に座る。
フィーは少し離れた場所で、これまでの記録を見返していた。
紙片が何枚かある。
昨日の分。
一昨日の分。
今日の分。
短い言葉。
印。
線。
数字。
並べて見て、また見返して、少し考えて、目を伏せる。
すぐに何かを書くわけではない。
ただ、頭の中で考えを張り巡らせている。そんな顔だった。
コムギがそれを見て、小声で言う。
「……ずっと考えてますね」
「そうですね」
「難しいんですか?」
「たぶん、はい」
「たぶん?」
コムギが真顔で鍋をかき回す。
フィーは少しだけ困ったように笑って、紙片をまとめた。
それでも表情は晴れない。
トンヌラは火の向こうから、その横顔を見ていた。
今日はずっと、あの顔をしている。
何かを見ている。
だが、それを言葉にして出すにはまだ足りない。
そういう顔だった。
やがて、火が少し落ち着いた頃。
フィーがようやく口を開いた。
「……団長さん」
「何だ」
「少し、いいですか」
コムギがぴくりと反応する。
ガルドも視線だけを向けた。
フィーは紙片を一度だけ見下ろし、それから静かな声で言った。
「ここ二日間見ただけでも、やはりこれまでとは魔物分布のバランスが明らかに違いすぎます」
コムギの手が止まる。
「やっぱり、なんですね」
「はい」
「増えてる、とかじゃなくて?」
「増えているのもあると思います。でも、それだけじゃないです」
「どう違うんですか?」
フィーは言葉を選ぶように少し間を置いた。
「偏り方が、不自然です」
「不自然?」
「本来もっと散るはずの種が、同じ区画に寄りすぎていたり、本来群れないものが同じ動線に重なっていたり……逆に、出ていてもおかしくない場所が妙に空いていたり」
「つまり……」
「自然に崩れた分布じゃない、ように見えます」
ガルドがゆっくり息を吐く。
「それは、かなりまずい話ですか」
「はい。少なくとも、普通ではないです」
「普通ではない、ですか」
その言い方に、トンヌラは少しだけ首を傾げた。
「断定はしないんだな」
「断定できるだけの材料は、まだないです」
「だが、変だとは言える」
「はい」
「なら、それで十分だろ」
フィーが目を上げる。
「十分、ですか?」
「お前が見て、変だと思うなら、今はそれが一番信用できる」
「そんな適当で、いいんですか?」
「分からん」
「即答ですね」
「俺はそういう専門ではないし、依頼も調査だ。報告できるならそれでいい」
フィーが少しだけ黙った。
火の音だけが鳴る。
コムギは鍋を見つめ、ガルドは前を向いたまま聞いている。
「……やっぱり、変な人ですね」
「団長は変な人です!」
「お前はいつも乗るな」
「だって本当ですし!」
「俺も思います」
「ガルド、お前までか」
「事実ですので」
不意に、フィーが小さく笑った。
その笑いは短かった。
だが、昼間までのものより少しだけ軽い。
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことはしてない」
「してますよ」
そう言って、フィーは紙片を重ねて膝の上に置いた。
「わからないのに、不安にはならないですか?」
「お前のおかげで、まだ魔物とも戦ってない」
「それはそうですけど」
トンヌラは干し肉をかじりながら、先日の補給任務のことを思い返していた。
「コムギ、食料はどうだ」
それを聞いてコムギは口角を上げ親指を上へ突き出した。
「完璧な配分です!」
「この前よりずっといい。毎日魔物に遭遇してたからな」
フィーは真顔だ。
「報告書を見ました」
3人は顔を上げる。
「この街道では、前例のない事だったので」
コムギは突然真剣な目になった。だが次の瞬間ニコリと笑う。
「今回はフィーさんがいるから安心です」
「コムギさん、その評価はどうなんですか」
「褒めてます!」
また雑な褒め方だった。
だが、その雑さが場を少しだけ軽くした。
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少し離れた場所で、ぽめが丸くなっていた。
白い毛玉みたいな体を小さく折りたたみ、火の届かない半端な場所で眠そうに目を細めている。
追っても逃げず、呼んでも寄らず、勝手に居着いている。
「……いますね」
「います!」
「いましたね」
トンヌラが呆れる。
コムギは小声で言った。
「でも、なんかもういるのが自然になってきました」
「フィーさんはどう思います?」
「……今のところ、放っておいて大丈夫だと思います」
「今のところですね」
「可愛いので」
「正義ですね……可愛いは」
フィーはそう言ってから、ほんの少しだけぽめを見た。
長くは見ない。
けれど、その一瞬の視線にだけ、何か別の温度が混じる。
トンヌラは火を見たまま思う。
この犬も変だ。
フィーもたぶん、何か引っかかっている。
街道も、どうもおかしい。
分からないものばかりだった。
分からないが、分からないまま進むしかない。
その時、遠くの藪がひとつ揺れた。
ガルドが立ち上がる。
「……来ますか」
「今夜は、来ません」
フィーの答えは静かだった。
だが、確信しているわけではないのが分かる声でもあった。
「明日もこのまま、落ち着いているといいのですが」
「その時は俺が……」
「私も全力で支えます!」
コムギの手に力がこもり、ガルドは低く息を吐き、トンヌラは腕を組み直した。
火はまだ温かい。
鍋の匂いも、生きている者の匂いだ。
ぽめは丸くなり、フィーは記録を畳み、ガルドは前を見る。
静かな夜だった。
静かなまま、何かが少しずつ近づいている夜でもあった。
ここはレイアノーティア。
厄介な異変ほど、派手に名乗らない。
ただ、気づく者にだけ、先に違和感を渡す。
そして気づいた者はたいてい、
すぐにはそれを叫ばない。
見間違いではないか。
思い込みではないか。
そうやって、一度は自分の中で抱え込む。
フィーも、たぶんそうだった。
それでも今日、火の前で言葉にした。
変だ、と。
はっきり断定できなくても、普通ではない、と。
それだけで、たぶん少しだけ前に進んだのだろう。
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第25話 了




