第29話 戻りなさい
ここはレイアノーティア。
名は人を座らせ、役目は人を歩かせる。
だが、ときどき世界は順番を間違える。
倒れるはずのところで踏みとどまり、
届かないはずのところで、手が届く。
そういう瞬間だけは、
世界の方が少し遅れる。
⸻
朝の空気は、最初からおかしかった。
昨日の夜の“保留”は、何ひとつ解決していない。
それを全員が、言葉にしなくても知っていた。
馬は落ち着かない。
コムギはキョロキョロする回数が多い。
ガルドは常に立っているみたいな顔をしている。
トンヌラは腕を組んだまま、かなり本気で考えていた。
フィーだけが静かだった。
静かであることが、逆に危うい。
「……フィーさん」
コムギが少し遠慮して呼ぶ。
「はい」
「大丈夫、ではないですよね」
「はい」
「ひえ…」
「でも、動けます」
「補給は任せてください……」
コムギはそう言って少しだけ頷いた。
ガルドが低く言う。
「俺も、今日は最初から嫌な感じがしています」
「分かるんですか?」
「理屈ではないです。でも止まらないやつです」
トンヌラは前を見たまま言った。
「なら今日は、最初から迎え打つ前提で動くぞ」
「団長さん、それっぽいです」
「今日は、じゃない。わりと本気だ」
「本気なんですね……」
「俺はいつも本気だ」
「そこが怖いんですよ」
そのやり取りの最中、ぽめが小さくあくびをした。
のんきだった。
のんきすぎて、逆に不穏ですらある。
フィーの視線が一瞬ぽめへ向く。
すぐに戻る。
守りたい。
その感情だけが先に立つ。
それが怖い。
守りたいものがあるほど、自分の“届かなさ”を思い知るからだ。
⸻
進んで一時間もしないうちに、気配は濃くなった。
昨日より早く、より気配が近い。
遠慮はない。
左手の藪が揺れる。
正面の茂みで草が倒れる。
後方にも、足音が重なる。
フィーが息を止めた。
「……来ます」
「何匹です?」
ガルドが聞く。
「多いです」
「今日はもう、その言葉だけで十分です」
「ありがとうございます」
「褒めてないです!」
コムギが反射で返した瞬間、前方の茂みから一体目が飛び出した。
狼型。
昨日の群れと同じ系統だ。
だが、その後ろにさらに二、三。
散っていない。まとまっている。
「下がってください」
ガルドが前へ出る。
赤い境界が生まれる。
魔物が飛びかかろうとして、ほんのわずかに迷う。
ガルドは動かない。
押し返さない。
ただ、ここから先へは行かせない覇気が、魔物をたじろがせる。
「コムギさん、右です」
「わ、分かりました!」
コムギが荷を抱えてずれる。
トンヌラは半歩だけ位置を変える。
何もしていないのに、やたらと中心に見える位置へ。
(無事に帰れたら、美味しい肉を食べよう。いや魚か?)
内心だけが忙しい。
フィーは、呼吸を読む。
前の一体が浅い。
左の一体は焦れている。
後ろの気配はまだ様子見。
「え……」
声が漏れた。
おかしい。
見えているのに、読んだ通りに来ない。
その瞬間、胸の奥の古傷がひどく冷たく疼いた。
⸻
その後は、あっという間だった。
前から来る。
横から寄る。
少し下がれば、別の個体が詰める。
大きな一撃はない。
だが、小さい判断を何度も強要される。
それが一番すり減る。
ガルドが立ち続ける。
一体が嫌がって退けば、別の一体がくる。
それでも立つ。
コムギは「ちょっと待ってください!」「多いですって!」「これ聞いてないです!」と叫びながら、水と簡易補給を配る。
トンヌラは腕を組み、偉そうなまま前を見ている。
何もできないことを、表情に出さないために。
フィーは、読み続ける。
呼吸。
視線。
踏み込み。
性質。
興奮。
だが今日は、その先が足りない。
まただ。
理解できるのに、届かない。
多すぎる。
ずれすぎている。
間に合わない。
昔もそうだった。
怪我をした人がいた。
傷ついた生き物がいた。
犬が震えていた。
大丈夫。
落ち着いて。
今見るから。
そう言って、自分は“見る”ことしかできなかった。
治せなかった。
助けられなかった。
「フィーさん!」
コムギの声で、今に戻る。
コムギは泣きそうな顔のまま、でも鍋を離していない。
ガルドは呼吸を乱しながらも立っている。
トンヌラは、何もしていないくせに、妙にここにいる。
一人じゃない。
それは分かる。
でも、自分の手はまた届かないかもしれない。
⸻
魔物の一体が、ぽめの方へ視線を向けた。
その瞬間、フィーの中で何かが切れた。
「だめ……!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
全員が一瞬、そちらを見る。
ぽめは小さい。
白い。
丸い。
昨日と同じように眠そうな顔をしている。
守れなかったあの子。
助けられなかった。
何が起きているかも、どこから崩れるかも、見えていたのに。
また同じ。
(誰も失いたくない)
この子も。
もう、ああいう顔は見たくない。
でも、自分は――
⸻
トンヌラが、そこで一歩だけ前へ出た。
何もできない。
でも、今ここで引くわけにはいかない。
腕を組み直し、声を落とす。
「覚悟、完了……!」
低く、はっきりと。
空気が一瞬だけ止まる。
フィーは目を見開き振り向いた。
その言葉は命令ではなかった。
「今ここで選べ」
背を押す声だった。
フィーの喉が震える。
怖い。
自信もない。
また届かないかもしれない。
見えているだけで終わるかもしれない。
それでも。
それでも、今ここで手を伸ばさなければ、
自分はまた“理解できただけ”で終わる。
「……覚悟、完了……!」
小さな声。
だが、折れない声だった。
トンヌラの目が、まっすぐフィーへ落ちる。
「お前は、命の呼吸を知る者」
「……」
「理解するだけで終わる者ではない」
「……っ」
「乱れた生を、律動へ戻す者」
風が鳴る。
魔物の呼吸が、一瞬だけ揺らぐ。
息を吐き、静かに告げる。
「お前は《バイオ・チューナー》――フィーだ」
⸻
一瞬の硬直。そしてゆっくり、手を広げた。
やさしく手を伸ばす。
「元のあなたたちに――戻りなさい」
その声は静かだった。
命令ではなく、祈りに近い。
けれど祈りで終わらない、届く声だった。
フィーは舞うように、周囲の空気へ触れる。
指先がなぞった場所から、空気がやわらかな音を持つ。
張りつめていたものが、少しずつほどけていくような音だった。
魔物たちの呼吸が整う。
荒く、浅く、攻撃的に波打っていた息が、少しずつ静まっていく。
目の赤みが引く。
逆立っていた毛並みが、わずかに落ち着く。
踏み込むために固めていた前脚が、平静のために止まる。
魔物が一匹、低く息を吐いた。
威嚇ではない。
張りつめていたものが抜ける音だった。
次の一匹が後ずさる。
その次も、唸りをやめる。
群れ全体の興奮が、連鎖するように静まっていく。
ガルドが目を見開く。
「体が……軽い」
前に立ち続けていた肩から、ほんの少しだけ余計な力が抜けていた。
コムギが鍋を握りしめたまま、ぽかんと呟く。
「心が……ほどけてる」
自分でも驚くほど、胸の内側のこわばりが和らいでいた。
怖さが消えたわけじゃない。
でも、怖さだけで全部が埋まる感じではなくなっている。
ぽめは――寝た。
「……すぴ」
最強の無責任だった。
トンヌラは腕を組んだまま、内心だけで呟く。
(何かした)
(いや、フィーがした)
(でも今の、すごかったな……)
魔物たちは一匹ずつ、森の奥へ引いていく。
昨日の“保留”とは違う。
今度は明らかに、落ち着きを取り戻して離れていく。
静寂が戻った。
⸻
誰も、すぐには喋れなかった。
最初に口を開いたのは、やはりコムギだった。
「……え、え、え?」
それしか出ない。
「分かるように言ってください!」
「私も分からないです! でもすごかったです!」
「雑だな」
トンヌラが言う。
「団長が言わないでください!」
ガルドがゆっくり息を吐く。
「……引きました」
「はい」
フィーが答える。
「落ち着いたように見えました」
「そう、だと思います」
「できたんですね」
「……はい」
フィーは、自分の手を見た。
震えている。
でも、届いた。
全部ではない。
何でも治せるわけでもない。
失った命が戻るわけでもない。
あの時の犬が帰ってくるわけでもない。
それでも今、自分は、理解した上で触れられた。
トンヌラがぼそりと言った。
「見えていただけじゃ、なくなったな」
「……」
「それで十分だろ」
「そうでしょうか」
「本質だ」
「それを雑に言うんです」
「団長さん、今日はちょっとだけずるいです」
「今日は、とは何だ」
フィーが、そこで初めて少しだけ笑った。
泣きそうな笑い方だった。
でも、笑っていた。
⸻
その夜。
遠く離れたギルドの水晶が、かすかに遅れて揺れる。
《FEE:バイオ・チューナー》
記録係が目を瞬かせる。
まただ。
また、“後から”だった。
白い部屋の水晶卓でも、線がわずかに形を変える。
ノインが、それを見て目を細めた。
「……確定しましたか」
リリカが息を呑む。
「はい」
「うわあ、まただ……」
「そうですね」
「そこは否定してほしかったです」
だがノインは、否定しなかった。
嫌な予感は、だいたい当たる。
そして当たった時には、もう遅い。
⸻
野営地では、コムギが鍋を抱えてまだ興奮していた。
「いや、でも、今のすごかったですよ!? すごかったですよね!?」
「すごかったです」
ガルドが頷く。
「ですよね!?」
「はい」
「フィーさん、すごいです!」
「……まだ、全部じゃないです」
フィーが小さく言う。
「でも届きました」
「はい」
「じゃあ今日はそれでいいです!」
コムギのその言葉が、妙にまっすぐ胸に入る。
今日はそれでいい。
全部じゃなくていい。
完璧じゃなくていい。
届いた分だけでいい。
それは、フィーが一番自分に言えなかった言葉だった。
ぽめは少し離れた場所で、また丸くなっている。
眠そうだ。
何事もなかったみたいな顔で。
フィーはその姿を見て、小さく息を吐いた。
「……守れた」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
トンヌラは何も返さなかった。
返さないまま、火を見た。
ここはレイアノーティア。
役目は、最初から与えられるものではない。
折れかけた時、
もう駄目かもしれないと思った時、
それでも何かを守りたいと選んだ瞬間に、
後から追いついてくるものだ。
理解できたのに、届かなかった後悔。
その痛みと想いが“届く力”へ変わる夜もある。
⸻
第29話 了




