第126話 それでも鳴る
ここはレイアノーティア。
欠けても、
終わりではない。
失ったものは戻らない。
視界の半分。
音の半分。
届いていたはずの距離。
掴めていたはずの響き。
それでも。
残ったものがあるなら、
人はそこから、
もう一度鳴らすことができる。
⸻
翌夜。
アークレイドの小さな広場には、
昨日より少し多くの人が集まっていた。
大きな宣伝があったわけではない。
派手な呼び込みがあったわけでもない。
ただ、
昨日の歌を聴いた誰かが、
別の誰かへ伝えたのだ。
欠けても歌っていた。
片目でも立っていた。
前と同じではないのに、
なぜか胸に残った。
そんな言葉が、
静かに街を巡っていた。
⸻
舞台の灯りは低い。
足元に近い場所で、
いくつもの小さな明かりが揺れている。
高く吊るされた照明はない。
夜の広場は、
少し暗かった。
けれど。
その暗さの中には、
待っている人たちがいた。
⸻
人混みの端に、
トンヌラは立っていた。
一人だった。
ぽめは、
丘の上の家へ置いてきた。
珍しく、
ついてこなかった。
というより、
起きなかった。
深く眠ったまま、
耳だけを時折動かしていた。
⸻
トンヌラは朝、
丘を下りた。
大きな理由があったわけではない。
ただ。
昨夜、
聞こえた気がした音が、
胸の奥に残っていた。
欠けているのに、
鳴っていた。
そのことが、
どうしても引っかかっていた。
街道を歩き、
途中で荷馬車に乗せてもらい、
夕暮れにはアークレイドへ着いた。
誰にも大げさなことは言わなかった。
ただ、
来た。
⸻
(何を言えばいいんだろうな)
人混みの端で、
トンヌラは腕を組もうとしてやめた。
最近は、
腕を組んでも形にならない。
以前のような、
根拠のない自信も湧いてこない。
ただ、
手持ち無沙汰な男が立っているだけになる。
それが少し情けなくて、
トンヌラは両手を下ろした。
⸻
ミラが舞台へ現れた。
左目には黒い眼帯。
左耳は、
もう音を拾わない。
それでも、
背筋は伸びていた。
昨日より、
少しだけ堂々として見える。
いや。
堂々としているのではない。
震えたまま、
立っている。
トンヌラには、
そう見えた。
⸻
ミラは、
片目だけで観客を見渡した。
それから、
少し笑う。
「昨日来た人、いる?」
何人かが手を上げた。
「物好きね」
小さな笑いが起きる。
「今日初めての人もいるでしょ」
今度は、
別の手が上がった。
「じゃあ、先に言っておく。完璧な演奏は期待しないで」
広場が静まる。
ミラは、
ギターを抱え直した。
「でも、ちゃんと鳴らすから」
その声に、
トンヌラの胸が少しだけ痛んだ。
⸻
弦が鳴る。
今日は、
最初の音から昨日より強かった。
完全ではない。
左側の空白は、
まだ演奏の中に残っている。
音の広がりも、
ところどころで揺れる。
それでも。
昨日より前へ出ていた。
欠けたまま。
その欠け方さえ、
少しずつ自分の音へ変えようとしている。
⸻
トンヌラは黙って聴いた。
歌詞は届く。
ギターの響きも届く。
けれど。
それ以上に、
音の奥から伝わってくるものがあった。
悔しさ。
怖さ。
失ったものの痛み。
それでも鳴らそうとする意地。
そのすべてが、
音の中に混じっていた。
⸻
(俺のせいかもしれない)
その考えが、
胸の奥へ浮かんだ。
消えない。
自分がネームレスだったから。
自分の周りへ仲間が集まったから。
世界へ抗ったから。
ドミニオンに目をつけられたから。
エヴァンが、
ミラの音を危険だと判断したから。
だから、
こうなったのかもしれない。
理屈は分からない。
証拠もない。
それでも、
そう思わずにはいられなかった。
⸻
ミラの声が高く伸びた。
少し荒い。
けれど、
折れてはいない。
観客の中で、
子どもが目を輝かせる。
老人が手を握る。
若い兵士が、
静かに涙を拭った。
大きな奇跡は起きない。
世界も揺れない。
救世響鳴のような、
巨大な波も生まれない。
それでも。
届いている。
確かに、
誰かへ届いていた。
⸻
歌が終わる。
静けさ。
それから、
拍手が起きた。
昨日より強い。
昨日より温かい。
一人の子どもが、
舞台の前へ出る。
「かっこよかった!」
ミラは目を瞬かせた。
それから、
笑った。
「ありがと」
声は少し震えていた。
けれど、
ちゃんと笑っていた。
⸻
人々が、
少しずつ広場を離れていく。
舞台係が片づけを始める。
ミラはギターをケースへ収めようとして、
ふと顔を上げた。
人混みの端に、
見覚えのある影がある。
腕も組まず、
妙に所在なさげに立っている。
それでも、
すぐに分かった。
ミラは動きを止めた。
それから、
いつもの調子で言った。
「団長じゃん」
トンヌラは、
少しだけ視線を逸らす。
「団長ではない」
「今それ言う?」
「言うだろ」
「言うか」
ミラが小さく笑った。
その笑いに、
トンヌラは少しだけ救われた。
⸻
言葉が続かない。
トンヌラは、
ミラの眼帯を見た。
左耳の傷跡を見た。
ギターを持つ手を見た。
謝りたい。
けれど、
何を謝ればいいのか分からない。
それでも、
口から言葉が落ちた。
「……悪いな」
ミラの表情が少し変わる。
「なにが?」
「その目と耳」
周囲の空気が静かになる。
近くにいた舞台係が、
そっと距離を取った。
⸻
ミラは肩をすくめた。
「あんたのせいじゃない。もちろん、私のせいでもない。ただの事故ってことになってる」
トンヌラが顔を上げる。
ミラは笑っていた。
けれど、
軽い笑いではなかった。
「本当にただの事故だったかは、知らないけどね」
「……分かるのか」
「分かんない。でも、照明が落ちた瞬間だけ、妙に全部が遠かった。音も、人も、空気も。誰かに、あの瞬間だけ抜かれたみたいだった」
ミラは、
左耳へ手を当てた。
トンヌラは何も言えなかった。
⸻
「俺が、いなければ」
ようやく出た言葉は、
それだった。
ミラはすぐに遮った。
「あんたがいなかったら、私はここに立ってない。歌う理由だって、たぶん途中でどこかへ置いてきてた」
静かに。
けれど、
はっきりと告げる。
「団長からもらったものは、なくならない」
「俺は何も渡してない」
「渡したよ。選べって言った。やりたいことをやれって言った。お前の音楽が好きだって言った」
トンヌラの目が揺れる。
ミラは、
自分の胸を軽く叩いた。
「あれは、まだここにある。目と耳が欠けても、ここは欠けてない」
⸻
風が吹いた。
ミラの髪が揺れる。
眼帯の端が、
わずかにはためいた。
トンヌラは、
何かを言おうとして言えなかった。
以前なら、
大げさな言葉で誤魔化したかもしれない。
今は、
それができない。
だから、
小さく答えた。
「……そうか」
「そうだよ。だから、勝手に全部背負うな」
⸻
そのあと二人は、
広場の外れにある小さな酒場へ入った。
客は少ない。
舞台を見終えた者が何人かいるだけで、
店内は落ち着いていた。
灯りは低く、
木の卓には古い傷がいくつも残っている。
ミラはギターを壁へ立てかけ、
トンヌラは向かいに座った。
久しぶりに、
二人で酒を交わした。
⸻
「耳、酒を飲んで大丈夫なのか」
「耳は飲まないでしょ」
「そうか」
「そうだよ。まあ、医者には控えめにって言われたけど」
「飲むなよ」
「今日は少しだけ」
「少しだけで済むのか」
「済ませる努力はする」
「信用できないな」
「団長に言われたくない」
「団長ではない」
「はいはい」
軽い会話だった。
それだけで、
少しだけ昔へ戻ったような気がした。
けれど。
完全には戻らない。
ミラの左目は戻らない。
左耳も戻らない。
トンヌラのネームレスも、
戻ってはいない。
戻らないものを抱えたまま、
二人は同じ卓へ座っていた。
⸻
しばらくして、
ミラが天井を見上げた。
「ねえ」
「なんだ」
「世界が何の問題もなく幸せならさ、音楽なんて生まれてないと思うんだよね」
トンヌラの胸が、
強く打った。
⸻
「不満があるから。寂しいから。何かが足りないから。言葉にできないものがあるから、鳴らすんでしょ?」
ミラは、
杯の縁を指でなぞった。
「完璧な世界なら、歌なんていらない。全部満たされているなら、誰かへ届けたいなんて思わない」
少しだけ、
苦く笑う。
「でも、そんな世界、たぶんつまんないよ」
⸻
トンヌラは黙っていた。
言葉が、
胸の奥へ沈んでいく。
完璧な世界。
何も起きない世界。
誰も傷つかず。
誰も泣かず。
誰も大きく間違えない世界。
それは、
正しいのかもしれない。
けれど。
ミラの言うとおりなら、
そこには歌がない。
怒りも。
後悔も。
憧れも。
欠けた痛みもない。
誰かが何かを鳴らしたいと願う、
その理由さえない。
⸻
「……そうかもな」
トンヌラは、
ゆっくり息を吐いた。
ネームレスはもうない。
名もない。
役割もない。
円環もない。
仲間の可能性へ触れる感覚もない。
世界へ言い張る力もない。
何もない。
けれど。
(俺は、選んできた)
山を降りた。
仲間と歩いた。
街を守ろうとした。
怖いまま、
嫌だと言った。
消えたくないと叫んだ。
ミラの音楽が好きだと言った。
それは、
役割だったのか。
それとも。
ただ、
自分がそうしたかっただけなのか。
⸻
(何もしていなかったわけじゃない)
胸の奥で、
静かに何かが繋がった。
力ではない。
名でもない。
役割でもない。
もっと小さなもの。
自分で選んだという、
ただそれだけの重さ。
⸻
「なあ」
トンヌラが言った。
「俺、ネームレスじゃなくなったけどさ」
ミラが、
にやりと笑う。
「知ってる」
「それでも」
トンヌラは言葉を探した。
うまく出てこない。
それでも、
今度は逃げずに探す。
「やること、あるかもしれない」
ミラは静かに頷いた。
「あるよ」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない。でも、ある」
ミラは、
片目だけでトンヌラを見る。
その目は、
まっすぐだった。
「団長は団長らしく、生きなよ」
「団長ではない」
「それも含めて」
ミラは笑う。
「それだけで、十分」
⸻
静かな夜。
店の外には、
もうほとんど人がいない。
舞台の灯りは消えている。
広場の板には、
演奏の熱だけがわずかに残っているように見えた。
トンヌラは空を見上げた。
完璧ではない世界。
欠けている。
歪んでいる。
誰かが傷つき。
誰かが後悔し。
誰かが泣く。
それでも。
だから動く。
だから、
届けたいと思う。
だから、
選ぶ。
⸻
「……不完全でいい」
小さく呟いた。
大きな宣言ではない。
けれど。
トンヌラの中では、
確かな一歩だった。
⸻
遠く。
アンタイトルの丘。
ぽめが寝返りを打った。
目は閉じたまま。
深い眠りの底で、
丸い身体がわずかに揺れる。
耳が、
ほんの少しだけ動いた。
まるで、
遠くの言葉を聞いたように。
⸻
ミラは杯を置いた。
「明日も歌うよ」
「無理するなよ」
「無理かどうかは、鳴らしてから決める」
「そうか」
「そう」
ミラは、
ギターケースへ視線を向けた。
「欠けたけど、鳴るから」
トンヌラは頷いた。
「ああ」
「ちゃんと聴きに来なよ」
トンヌラは、
今度は視線を逸らさなかった。
「行く」
短い返事。
けれど、
確かな声だった。
⸻
ここはレイアノーティア。
幸せではないから、
歌が生まれる。
役割が消えても、
選んだことは消えない。
欠けても。
戻らなくても。
それでも、
音は鳴る。
第126話 了
第12章 完




