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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第12章 欠けた旋律は鳴り止まない

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125/133

第125話 欠けた旋律

 ここはレイアノーティア。


 欠けた音は、


 消えない。


 完全な音だけが、


 誰かへ届くわけではない。


 揺れる声。


 ずれた拍。


 届ききらない響き。


 戻らない痛み。


 それでも。


 鳴らそうとする意思が残っているなら、


 音はまだ終わっていない。



 アークレイドの小さな広場。


 夜。


 簡素な舞台の周りに、


 いくつもの灯りが置かれていた。


 高い位置から吊るされた照明はない。


 ミラが拒んだからだ。


 誰も、


 強く勧めようとはしなかった。


 代わりに、


 地面に近い場所へ小さな灯りが並べられている。


 舞台全体を華やかに照らすには足りない。


 けれど。


 その低い光は、


 今夜の舞台によく似合っていた。



 広場には人が集まっていた。


 多くはない。


 けれど、


 少なくもない。


 事故の話は、


 すでに各地へ広まっている。


 ヴァルミオン領の舞台で、


 照明が落下したこと。


 歌っていたミラが巻き込まれたこと。


 左目と左耳が、


 もう完全には戻らないこと。


 そして。


 それでも今夜、


 歌うらしいということ。


 人々は、


 それを見届けるために集まっていた。


 同情だけではない。


 好奇心だけでもない。


 確かめたいのだ。


 欠けてしまった歌い手が、


 それでも何を鳴らすのかを。



 舞台裏。


 ミラは、


 ギターを抱えて立っていた。


 左目には黒い眼帯。


 左耳には、


 何も届かない静かな空間が残っている。


 世界の半分が、


 今も少し遠かった。


 人のざわめきは右側から聞こえる。


 灯りも右側から入ってくる。


 距離も、


 右目と右耳だけで測らなければならない。


 身体は、


 まだ新しい世界に慣れていない。


 音の位置がずれる。


 左側へ誰かが立つと、


 気づくまで少し遅れる。


 足元の板から返ってくる響きさえ、


 以前とは違っていた。



「本当にやるの?」


 舞台係の女性が尋ねた。


 心配を隠しきれない声だった。


 ミラは肩をすくめる。


「やるって言ったじゃん」


「無理しなくてもいいのよ」


「無理かどうかは、鳴らしてから決める」


「ミラさんらしいですね。無茶です」


「そこは褒めてよ」


 軽口を返す。


 けれど、


 喉は乾いていた。


 ギターを握る指も、


 わずかに震えている。


 恐怖がないわけではない。


 舞台へ出るのが怖い。


 灯りを見るのが怖い。


 頭上へ視線を向けるだけで、


 落ちてくる光景が蘇る。


 それでも。


 ミラは、


 ギターを握る手を離さなかった。



(怖い)


 認める。


(でも、鳴らしたい)


 それも認める。


 怖いまま鳴らす。


 欠けたまま歌う。


 今の自分にできることは、


 それしかなかった。



 舞台へ出る。


 広場のざわめきが、


 ゆっくりと薄くなった。


 視線が集まる。


 黒い眼帯へ。


 左耳に残る傷跡へ。


 ギターを握る手へ。


 誰かが息を呑む。


 誰かが目を伏せる。


 誰かが、


 泣きそうな顔をしている。


 ミラは、


 そのすべてを見た。


 片目だけで。


 それでも、


 ちゃんと見た。



「こんばんは」


 声は少し掠れていた。


 けれど、


 広場の奥まで届いた。


「見ての通り、ちょっと欠けました」


 空気が固まる。


 ミラは笑った。


「でも、まあ」


 ギターの胴を軽く叩く。


「こいつはまだ鳴るので」


 小さな笑いが起きた。


 弱い。


 けれど、


 温かい笑いだった。


「今日は、前と同じ音は出ません。距離も広がりも、まだうまく掴めない。でも、歌います」


 左側にある静けさを、


 少しだけ意識する。


 それから、


 広場を見渡した。


「聴いていって」



 弦へ触れる。


 一音目。


 わずかにずれた。


 自分でも分かる。


 以前なら、


 身体がすぐに音の中心を掴んだ。


 今は少し遅れる。


 音が右側へ偏って聞こえる。


 広場へどう広がっているのか、


 感覚が追いつかない。


 二音目。


 少しだけ修正する。


 三音目。


 まだ硬い。


 指が迷う。


 左側にある空白が、


 演奏の中へ入り込んでくる。



(大丈夫)


 嘘だった。


 大丈夫ではない。


 けれど。


 大丈夫ではなくても、


 鳴らすことはできる。


 ミラは息を吸った。


 声を出す。


 最初の歌詞は、


 少し震えた。


 人々も、


 その震えに気づいている。


 誰も笑わない。


 誰も目を逸らさない。


 ただ、


 聴いていた。



 歌は、


 以前より荒かった。


 声の伸びも、


 完璧ではない。


 音の位置も、


 何度か揺れた。


 ギターの弦も、


 強く鳴りすぎることがある。


 それでも。


 音は消えなかった。


 欠けた旋律は、


 欠けたまま広場へ置かれていく。


 完全ではない形で、


 一人ずつの胸へ届いていく。



 観客の中で、


 老人が目を閉じた。


 若い兵士が唇を噛む。


 子どもが、


 母親の袖を握った。


 誰かが静かに泣いている。


 可哀想だからではない。


 きっと、


 それだけではなかった。


 欠けたまま鳴っている音が、


 聴いている者の中にある、


 欠けた場所へ触れたのだ。



 ミラは歌いながら願った。


(届いて)


 目の前にいる人たちへ。


 ヴァルミオンの広場で泣いていた子どもへ。


 事故のあと、


 心配してくれた者たちへ。


 そして。


(団長にも)



 アンタイトルの外れ。


 丘の上にある家。


 トンヌラは、


 縁側に座っていた。


 隣では、


 ぽめが丸くなって眠っている。


 深く。


 静かに。


 ミラがいるアークレイドは遠い。


 普通なら、


 歌など届くはずがなかった。


 それでも。


 夜風が丘を渡った。


 草が揺れる。


 街を越え、


 遠い道を越え、


 かすかな旋律のようなものが流れてくる。


 薄い。


 ほとんど聞こえない。


 音というより、


 誰かが音を鳴らした記憶に近かった。


 トンヌラが顔を上げる。


「……?」


 風の中に、


 何かが残っている。


 欠けている。


 揺れている。


 完全ではない。


 それでも。


 確かに鳴っていた。



 トンヌラは耳を澄ませた。


 歌詞までは聞こえない。


 ギターの音も、


 ほとんど風に紛れている。


 それでも、


 なぜか分かった。


 ミラだ。


 あいつが鳴らしている。


 欠けたまま。


 怖いまま。


 それでも、


 止めずに。



「……欠けてるな」


 小さく呟いた。


 胸の奥が痛む。


 失われた左目。


 失われた左耳。


 治らないもの。


 自分には、


 何もできなかったこと。


 フィーが泣いていたこと。


 ミラが、


 まだ鳴ると言ったこと。


 それらが、


 風の中で静かに重なっていく。


 トンヌラは目を閉じた。


 遠くに残る音へ耳を澄ます。


「でも」


 喉の奥が、


 わずかに詰まった。


「ちゃんと鳴ってる」



 ぽめが、


 小さな寝息を立てた。


 身体は動かない。


 けれど。


 耳だけが、


 ほんの少し揺れた。



 アークレイドの広場。


 ミラは、


 最後の言葉を歌い切った。


 声は荒れている。


 指先も痛い。


 左側の世界は、


 今も遠い。


 それでも。


 歌い終えた。


 音が消える。


 広場へ、


 静けさが落ちた。


 けれど。


 今度の静けさは、


 整えられたものではなかった。


 誰かが言葉を探している沈黙。


 泣きたいのに、


 まだ息を整えている沈黙。


 拍手をする前に、


 受け取ったものを胸へ沈めている沈黙。


 やがて。


 一人の手が鳴った。


 また一人。


 さらに一人。


 拍手が広場へ広がっていく。


 大きくはない。


 以前のような熱狂でもない。


 それでも、


 温かい。


 確かに、


 温かい拍手だった。



 ミラは深く頭を下げた。


 身体が少しふらつく。


 舞台係が駆け寄ろうとする。


 ミラは、


 片手を上げて止めた。


 自分で立つ。


 今夜は、


 そこまでやりたかった。


「ありがとう」


 声が震える。


「明日もやります」


 広場がざわつく。


 心配する声。


 驚く声。


 けれど、


 止める声はなかった。


 ミラは笑う。


 うまく笑えているかは、


 まだ分からない。


 それでも笑った。


「今日みたいに、ちゃんと届かなくても」


 ギターを抱え直す。


「何度でも、届かせたいから」



 拍手が、


 もう一度起きた。


 今度は、


 少しだけ強かった。


 誰かが泣きながら手を叩いている。


 子どもが、


 小さな声で言った。


「また来る」


 ミラは、


 その声へ頷いた。


 右側からしか聞こえない。


 それでも。


 ちゃんと聞こえた。



 夜が更けていく。


 人々は少しずつ広場を離れ、


 灯りも一つずつ消えていった。


 舞台の上には、


 ミラとギターだけが残る。


 左側の暗さは、


 今もそこにある。


 失った音は戻らない。


 視界も戻らない。


 けれど。


 今夜の拍手は聞こえた。


 音は届いた。


 なら。


 まだ鳴らせる。



 丘の上。


 トンヌラは、


 ゆっくり立ち上がった。


 縁側の木が、


 小さく軋む。


 ぽめは、


 変わらず眠っている。


 トンヌラは遠くを見た。


 風に残っていた旋律は、


 もうほとんど消えている。


 それでも、


 胸の奥には残っていた。


「明日は」


 小さく言った。


「久しぶりに、街へ降りるか」


 大きな決意ではない。


 世界を変える宣言でもない。


 ただ、


 丘の上から一歩降りるだけの言葉。


 けれど。


 今のトンヌラには、


 それで十分だった。



 ぽめの耳が、


 ぴくりと動いた。


 目は開かない。


 それでも。


 どこかで、


 その声を聞いているようだった。



 ここはレイアノーティア。


 欠けたからこそ、


 届く音がある。


 戻らなくても。


 揃わなくても。


 鳴らす者がいる限り、


 旋律は終わらない。


 第125話 了

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