第125話 欠けた旋律
ここはレイアノーティア。
欠けた音は、
消えない。
完全な音だけが、
誰かへ届くわけではない。
揺れる声。
ずれた拍。
届ききらない響き。
戻らない痛み。
それでも。
鳴らそうとする意思が残っているなら、
音はまだ終わっていない。
⸻
アークレイドの小さな広場。
夜。
簡素な舞台の周りに、
いくつもの灯りが置かれていた。
高い位置から吊るされた照明はない。
ミラが拒んだからだ。
誰も、
強く勧めようとはしなかった。
代わりに、
地面に近い場所へ小さな灯りが並べられている。
舞台全体を華やかに照らすには足りない。
けれど。
その低い光は、
今夜の舞台によく似合っていた。
⸻
広場には人が集まっていた。
多くはない。
けれど、
少なくもない。
事故の話は、
すでに各地へ広まっている。
ヴァルミオン領の舞台で、
照明が落下したこと。
歌っていたミラが巻き込まれたこと。
左目と左耳が、
もう完全には戻らないこと。
そして。
それでも今夜、
歌うらしいということ。
人々は、
それを見届けるために集まっていた。
同情だけではない。
好奇心だけでもない。
確かめたいのだ。
欠けてしまった歌い手が、
それでも何を鳴らすのかを。
⸻
舞台裏。
ミラは、
ギターを抱えて立っていた。
左目には黒い眼帯。
左耳には、
何も届かない静かな空間が残っている。
世界の半分が、
今も少し遠かった。
人のざわめきは右側から聞こえる。
灯りも右側から入ってくる。
距離も、
右目と右耳だけで測らなければならない。
身体は、
まだ新しい世界に慣れていない。
音の位置がずれる。
左側へ誰かが立つと、
気づくまで少し遅れる。
足元の板から返ってくる響きさえ、
以前とは違っていた。
⸻
「本当にやるの?」
舞台係の女性が尋ねた。
心配を隠しきれない声だった。
ミラは肩をすくめる。
「やるって言ったじゃん」
「無理しなくてもいいのよ」
「無理かどうかは、鳴らしてから決める」
「ミラさんらしいですね。無茶です」
「そこは褒めてよ」
軽口を返す。
けれど、
喉は乾いていた。
ギターを握る指も、
わずかに震えている。
恐怖がないわけではない。
舞台へ出るのが怖い。
灯りを見るのが怖い。
頭上へ視線を向けるだけで、
落ちてくる光景が蘇る。
それでも。
ミラは、
ギターを握る手を離さなかった。
⸻
(怖い)
認める。
(でも、鳴らしたい)
それも認める。
怖いまま鳴らす。
欠けたまま歌う。
今の自分にできることは、
それしかなかった。
⸻
舞台へ出る。
広場のざわめきが、
ゆっくりと薄くなった。
視線が集まる。
黒い眼帯へ。
左耳に残る傷跡へ。
ギターを握る手へ。
誰かが息を呑む。
誰かが目を伏せる。
誰かが、
泣きそうな顔をしている。
ミラは、
そのすべてを見た。
片目だけで。
それでも、
ちゃんと見た。
⸻
「こんばんは」
声は少し掠れていた。
けれど、
広場の奥まで届いた。
「見ての通り、ちょっと欠けました」
空気が固まる。
ミラは笑った。
「でも、まあ」
ギターの胴を軽く叩く。
「こいつはまだ鳴るので」
小さな笑いが起きた。
弱い。
けれど、
温かい笑いだった。
「今日は、前と同じ音は出ません。距離も広がりも、まだうまく掴めない。でも、歌います」
左側にある静けさを、
少しだけ意識する。
それから、
広場を見渡した。
「聴いていって」
⸻
弦へ触れる。
一音目。
わずかにずれた。
自分でも分かる。
以前なら、
身体がすぐに音の中心を掴んだ。
今は少し遅れる。
音が右側へ偏って聞こえる。
広場へどう広がっているのか、
感覚が追いつかない。
二音目。
少しだけ修正する。
三音目。
まだ硬い。
指が迷う。
左側にある空白が、
演奏の中へ入り込んでくる。
⸻
(大丈夫)
嘘だった。
大丈夫ではない。
けれど。
大丈夫ではなくても、
鳴らすことはできる。
ミラは息を吸った。
声を出す。
最初の歌詞は、
少し震えた。
人々も、
その震えに気づいている。
誰も笑わない。
誰も目を逸らさない。
ただ、
聴いていた。
⸻
歌は、
以前より荒かった。
声の伸びも、
完璧ではない。
音の位置も、
何度か揺れた。
ギターの弦も、
強く鳴りすぎることがある。
それでも。
音は消えなかった。
欠けた旋律は、
欠けたまま広場へ置かれていく。
完全ではない形で、
一人ずつの胸へ届いていく。
⸻
観客の中で、
老人が目を閉じた。
若い兵士が唇を噛む。
子どもが、
母親の袖を握った。
誰かが静かに泣いている。
可哀想だからではない。
きっと、
それだけではなかった。
欠けたまま鳴っている音が、
聴いている者の中にある、
欠けた場所へ触れたのだ。
⸻
ミラは歌いながら願った。
(届いて)
目の前にいる人たちへ。
ヴァルミオンの広場で泣いていた子どもへ。
事故のあと、
心配してくれた者たちへ。
そして。
(団長にも)
⸻
アンタイトルの外れ。
丘の上にある家。
トンヌラは、
縁側に座っていた。
隣では、
ぽめが丸くなって眠っている。
深く。
静かに。
ミラがいるアークレイドは遠い。
普通なら、
歌など届くはずがなかった。
それでも。
夜風が丘を渡った。
草が揺れる。
街を越え、
遠い道を越え、
かすかな旋律のようなものが流れてくる。
薄い。
ほとんど聞こえない。
音というより、
誰かが音を鳴らした記憶に近かった。
トンヌラが顔を上げる。
「……?」
風の中に、
何かが残っている。
欠けている。
揺れている。
完全ではない。
それでも。
確かに鳴っていた。
⸻
トンヌラは耳を澄ませた。
歌詞までは聞こえない。
ギターの音も、
ほとんど風に紛れている。
それでも、
なぜか分かった。
ミラだ。
あいつが鳴らしている。
欠けたまま。
怖いまま。
それでも、
止めずに。
⸻
「……欠けてるな」
小さく呟いた。
胸の奥が痛む。
失われた左目。
失われた左耳。
治らないもの。
自分には、
何もできなかったこと。
フィーが泣いていたこと。
ミラが、
まだ鳴ると言ったこと。
それらが、
風の中で静かに重なっていく。
トンヌラは目を閉じた。
遠くに残る音へ耳を澄ます。
「でも」
喉の奥が、
わずかに詰まった。
「ちゃんと鳴ってる」
⸻
ぽめが、
小さな寝息を立てた。
身体は動かない。
けれど。
耳だけが、
ほんの少し揺れた。
⸻
アークレイドの広場。
ミラは、
最後の言葉を歌い切った。
声は荒れている。
指先も痛い。
左側の世界は、
今も遠い。
それでも。
歌い終えた。
音が消える。
広場へ、
静けさが落ちた。
けれど。
今度の静けさは、
整えられたものではなかった。
誰かが言葉を探している沈黙。
泣きたいのに、
まだ息を整えている沈黙。
拍手をする前に、
受け取ったものを胸へ沈めている沈黙。
やがて。
一人の手が鳴った。
また一人。
さらに一人。
拍手が広場へ広がっていく。
大きくはない。
以前のような熱狂でもない。
それでも、
温かい。
確かに、
温かい拍手だった。
⸻
ミラは深く頭を下げた。
身体が少しふらつく。
舞台係が駆け寄ろうとする。
ミラは、
片手を上げて止めた。
自分で立つ。
今夜は、
そこまでやりたかった。
「ありがとう」
声が震える。
「明日もやります」
広場がざわつく。
心配する声。
驚く声。
けれど、
止める声はなかった。
ミラは笑う。
うまく笑えているかは、
まだ分からない。
それでも笑った。
「今日みたいに、ちゃんと届かなくても」
ギターを抱え直す。
「何度でも、届かせたいから」
⸻
拍手が、
もう一度起きた。
今度は、
少しだけ強かった。
誰かが泣きながら手を叩いている。
子どもが、
小さな声で言った。
「また来る」
ミラは、
その声へ頷いた。
右側からしか聞こえない。
それでも。
ちゃんと聞こえた。
⸻
夜が更けていく。
人々は少しずつ広場を離れ、
灯りも一つずつ消えていった。
舞台の上には、
ミラとギターだけが残る。
左側の暗さは、
今もそこにある。
失った音は戻らない。
視界も戻らない。
けれど。
今夜の拍手は聞こえた。
音は届いた。
なら。
まだ鳴らせる。
⸻
丘の上。
トンヌラは、
ゆっくり立ち上がった。
縁側の木が、
小さく軋む。
ぽめは、
変わらず眠っている。
トンヌラは遠くを見た。
風に残っていた旋律は、
もうほとんど消えている。
それでも、
胸の奥には残っていた。
「明日は」
小さく言った。
「久しぶりに、街へ降りるか」
大きな決意ではない。
世界を変える宣言でもない。
ただ、
丘の上から一歩降りるだけの言葉。
けれど。
今のトンヌラには、
それで十分だった。
⸻
ぽめの耳が、
ぴくりと動いた。
目は開かない。
それでも。
どこかで、
その声を聞いているようだった。
⸻
ここはレイアノーティア。
欠けたからこそ、
届く音がある。
戻らなくても。
揃わなくても。
鳴らす者がいる限り、
旋律は終わらない。
第125話 了




