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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第12章 欠けた旋律は鳴り止まない

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124/133

第124話 調整

 ここはレイアノーティア。


 静かな世界ほど、よく整えられている。


 怒りが爆発する前に。


 悲しみが広がる前に。


 誰かが立ち上がる前に。


 世界はそっと音を下げる。


 それは救いに見える。


 けれど。


 鳴るはずだった声まで消された時。


 その静けさを、平和と呼べるのだろうか。



 ヴァルミオン領の広場。


 落下した照明はすでに片づけられていた。


 折れた支柱。


 焦げた布。


 踏み荒らされた舞台板。


 昨日まで歌が響いていた場所は、朝の光の中で妙に白く見えた。


 作業員たちは淡々と板を外し、兵士は通行人を誘導した。


 ギルド職員は事故の記録をまとめている。


 誰も笑ってはいない。


 けれど、誰も叫んでもいなかった。



「本当に事故だったのか?」


 若い男が低く呟いた。


 昨日広場でミラの歌を聴いていた男だった。


 その顔には、隠しきれない怒りがある。


 当然だった。


 舞台の上へ照明が落ちた。


 歌っていたミラが巻き込まれ、左目と左耳を失った。


 ただの不運で片づけるには、あまりにも残酷だった。


「整備記録は?」


「異常なしだそうです」


「なら、なおさらおかしいだろ」


 男の声が強くなる。


 周囲にいた者たちが顔を上げた。


 怒りが形を持ちかける。


 誰かが拳を握る。


 誰かが舞台係を睨む。


 誰かが責任者を呼べと言いかける。


 その時。


 広場に風が吹いた。


 強くはない。


 ただ、少しだけ冷たい風だった。


 男の肩がわずかに下がる。


 喉まで出かかった言葉が、薄くなっていく。


「……今は、ミラさんの回復が先だ」


 別の誰かが言った。


 正しい言葉だった。


 あまりにも正しい言葉だった。


「そうだな」


「騒いでも仕方ない」


「まずは支援を集めよう」


 怒りは消えていない。


 けれど、形になる前に丸められた。


 拳は下ろされ、声は静まる。


 人々は整えられた悲しみの中へ戻っていく。



 広場の片隅で一人の少女が泣いていた。


 昨日、舞台の前で「明日も歌って」と叫んでいた子どもだった。


 母親がその小さな身体を抱きしめる。


「大丈夫よ」


 何が大丈夫なのか、母親にも分かっていない。


 それでもその言葉が口から出た。


 少女はしゃくり上げながら頷く。


 泣き声は広がらない。


 怒りにもならない。


 ただ、静かに収まっていった。



 王都の外れ。


 土地の境界を巡る争いが起きかけていた。


 古い石杭の位置。


 先代から残された記録。


 水路の使用権。


 どちらにも言い分がある。


「だから、そこはうちの土地だと言ってる!」


「勝手なことを言うな!」


 男の一人が拳を振り上げた。


 殴れば、怪我になる。


 怪我になれば、家同士の争いになる。


 争いが続けば、村は二つに割れる。


 そのはずだった。



 空気がわずかに重くなる。


 ドミニオンの姿はない。


 影も。


 翼も。


 紫の瞳も。


 ただ世界の奥にある何かが、


 ほんの少しだけ音を整えた。


 拳を上げた男の頭に、


 別の選択肢が浮かぶ。


 殴らずに済む言葉。


 明日、役人を呼ぶという案。


 いったん帰るための理由。


「……やめよう」


 男は、自分でも驚いたように言った。


 拳を下ろす。


 向かいの男も息を吐いた。


「明日、記録を持ってくる」


「そうしよう」


 争いは消えた。


 誰も傷つかない。


 正しい。


 とても正しい。


 けれど。


 そこにあった怒り。


 最後まで自分のものだったのか、誰も考えなかった。



 遠くの海。


 嵐が生まれかけていた。


 気圧が乱れ、波が高まり、沖へ出た漁船の帆が大きく鳴る。


 漁師が空を見上げた。


「まずいな」


 その声が風に紛れる。


 次の瞬間。


 乱れが整った。


 雲の流れがわずかに変わる。


 波の高さが落ちる。


 風向きが、漁船の戻る方へ少しだけ傾く。


 嵐は生まれない。


 漁師たちは無事に港へ戻った。


「今日は運がよかったな」


 誰かが笑う。


 誰も知らない。


 運と呼んだもの。


 それが、調律だったことを。



 山間の村。


 疫病の芽があった。


 一人の子どもが、夜中に熱を出した。


 咳。


 汗。


 弱い震え。


 その病は本来なら数日後に村へ広がるはずだった。


 母親が不安そうに水を飲ませ、額へ濡れた布を置く。


 翌朝熱は下がり始めていた。


 咳も軽い。


「よかった」


 母親が涙ぐむ。


 医師は首を傾げた。


「広がらなくて幸いでした」


 幸い。


 そう呼ばれた。


 病は広がる前に薄められた。


 発症するはずだった命も。


 泣くはずだった夜も。


 村が互いを支えるはずだった時間も。


 すべてが、小さな安堵へ置き換えられていく。



 世界調停機構の塔。


 白い空間でエヴァンは静かに目を閉じていた。


 水晶の上を、各地の数値が流れていく。


【局所争議:収束】


【海上災害:発生前調整】


【疫病拡大:未然収束】


【ヴァルミオン事故後暴動率:低下】


【音響干渉:抑制】


【民衆自律値:安定域へ回帰】


「ドミニオン、起動範囲拡大」


 エヴァンの声は穏やかだった。


 ドミニオンはどこにもいない。


 しかし、どこにでもいる。


 怒りが爆発する前に整える。


 災害が起きる前に均す。


 違和感が広がる前に吸収する。


 役割が逸脱する前に固定する。


 名が揺らぐ前に意味を戻す。



 それは暴力ではない。


 削除でもない。


 虚無でもない。


 調律。


 世界を、破綻しない音へ戻す行為。


 エヴァンはそう認識していた。



「完璧ですね。五戒の統合は安定しています」


 ノインが告げる。


 水晶の奥に、黒い影が静かに映った。


 統戒の魔王ドミニオン。


 その内側には、五つの記録がある。


 不協和のディソナンス。


 災衡のディザスター。


 衰退のディクライン。


 破滅のドラグノフ。


 虚無のディボイド。


 ドミニオンは、


 それらを過不足なく扱う。


 狂わせすぎない。


 壊しすぎない。


 衰えさせすぎない。


 破滅させすぎない。


 消しすぎない。


 必要な分だけ使い、必要なところで止める。


 だから世界は荒れない。



「勇者不在でも問題はない」


 エヴァンは満足そうに呟いた。


「世界は成熟した」


 ノインは、静かに記録を取る。


 リリカは少し離れた場所で、水晶の別の面を見ていた。


 そこにはヴァルミオン領の診療室が映っている。


 左目に包帯を巻いたミラ。


 ベッドの横に置かれたギター。


 そのそばを離れないフィー。


 リリカは指先で水晶の縁をなぞった。


「成熟、ね」


 小さく呟く。


 エヴァンは振り向かない。


「不満か」


「別に。ただ、あの子はまだ消えてないわよ」


「音響干渉は抑制された」


「ええ。でも、残ってる」


 エヴァンは淡々と答える。


「残響は許容範囲内だ」


「そう」


 リリカは、


 それ以上何も言わなかった。


 ただ、水晶に映るミラから目を離さない。



 メルグラフの市場。


 人々は笑っていた。


 配給は滞らず、値段も安定し、揉め事も大きくならない。


 どこか静かだった。


 以前のような無駄な言い争いがない。


 くだらない意地の張り合いもない。


 無謀な挑戦も減った。


 酒場の声量も少し落ちている。


 冒険者ギルドの依頼も減った。


 魔物が少ないからだ。


 危険が少ないからだ。


 それは良いことだった。


 誰もが、そう思っている。


 そう思うことに違和感さえ抱かなくなっていた。



 アンタイトルの丘。


 ぽめが、わずかに寝返りを打った。


 丸い身体が縁側の影の中で、少しだけ動く。


 小さく鼻を鳴らす。


 それだけだった。


 トンヌラは隣で空を見ている。


 ミラの怪我を聞いてから、言葉はさらに少なくなっていた。


 怒りも。


 悲しみも。


 胸の奥で、形になりきらない。


 ただ。


 フィーの言葉だけが残っている。


 まだ鳴る。


 ミラはそう言った。



 ぽめの呼吸が少し深くなった。


 深く。


 さらに深く。


 眠っている。


 けれど周囲の空気がわずかに張り詰める。


 誰も気づかない。


 トンヌラも、まだ気づかない。



 塔の最上階。


 エヴァンは窓の外を見つめていた。


 街の灯り。


 穏やかな夜。


 争いは少なく。


 災害も小さく。


 病も広がらない。


 勇者はいない。


 それでも、世界は回っている。


「ようやく」


 エヴァンが小さく息を吐いた。


「誤差のない世界だ」


 その声の奥に、


 かすかな震えがあった。


 事故が怖い。


 予測不能が怖い。


 だから消す。


 起きる前に。


 広がる前に。


 誰かが選ぶ前に。



 白い空間の奥で、ドミニオンは静かに目を閉じている。


 完璧に機能している。


 失敗しない。


 揺らがない。


 ただ。


 紫の瞳の奥に、


 ほんのわずかな記録不能が残っていた。


 名を奪った男。


 欠けても鳴る女。


 眠り続ける丸い獣。


 その三つだけが、完全には譜面へ収まらない。



 ここはレイアノーティア。


 均衡は保たれている。


 痛みは広がらず、争いも起きない。


 誰もが安全で、誰もが正しい。


 けれど。


 何も起きない世界は、本当に生きているのか。


 第124話 了

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