第123話 それでも守ると言った
ここはレイアノーティア。
強さは、立ち上がる理由にはならない。
剣があっても。
盾があっても。
癒やす手があっても。
動かない心へ、力を押し込むことはできない。
それでも。
立ち上がるまで、隣にいることはできる。
⸻
風もない。
土の匂いも、街の喧騒もない。
白い空間。
ネームドの里。
世界の構造から、わずかに外れた場所。
そこへ、フィーとガルドは足を踏み入れた。
ガルドは道を知っている。
かつてサトウをここへ送り届けたからだ。
勇者ではなくなった青年を。
守る側から、守られる側へ戻った者を。
世界から削除されるかもしれなかった者を。
あの日ガルドは彼をここまで連れてきた。
そして。
この場所へ受け入れられるまで見届けた。
⸻
「……久しぶりですね」
フィーが小さく呟いた。
白い空間は、
相変わらず静かだった。
今の世界にある静けさとは違う。
ここには調整された滑らかさがない。
冷たく整えられた平和もない。
ただ余白がある。
誰かが何者であるかを、すぐには決めないための余白。
フィーはその白さの中を進んだ。
隣では、ガルドが黙って歩いている。
盾は持っていない。
それでもその背中は変わらない。
何かあれば前へ出る。
そういう背中だった。
⸻
奥の広場にサトウがいた。
以前より、ずっと静かに見える。
腰には剣がある。
だが、そこに勇者の光はない。
白い外套ももう身につけていなかった。
ただの青年が石段に座り、空のない白を見上げている。
サトウは二人に気づくと、ゆっくり立ち上がった。
「久しぶりだな」
その声も勇者のものではなかった。
世界の中心で、すべてを背負う者の声ではない。
少し疲れていて、それでも自分の足で立っている、一人の人間の声だった。
フィーは深く頭を下げた。
「勇者様」
口にしてから言葉を止める。
サトウは苦く笑った。
「その呼び方は、もうやめてくれ」
「……すみません」
「謝ることでもない。今の俺は、ただのサトウだ」
⸻
フィーは顔を上げた。
言わなければならないことがある。
ミラのこと。
トンヌラのこと。
奪われた名のこと。
何から話せばいいのか分からない。
隣でガルドが静かに口を開いた。
「ドミニオンが現れました」
サトウの目が、わずかに細くなる。
「統戒の魔王か」
「はい。五戒の魔王を統べる存在です」
フィーが続ける。
「団長の……ネームレスを奪いました」
白い空間に、
その言葉が落ちた。
「今は、何もないんです。何も呼べない。何も預かれない。本人は、何も変わっていないって笑っていました。でも……変わっています」
フィーの手が震える。
「感じているのに、それを動かせないんです」
⸻
サトウは静かに聞いていた。
驚きはある。
それでも、大きく取り乱しはしなかった。
彼もまた、一度役割を失った者だった。
「……そうか」
短い返事。
それが、フィーの胸を締めつける。
「それだけ、ですか」
思わず声が出た。
サトウは目を伏せる。
「軽く受け止めているわけじゃない。ただ、少しだけ分かるんだ」
⸻
サトウは、
自分の手を見た。
「勇者を失った時、最初は楽だった。誰かの期待も、世界の中心でいなければならない重さも、少しだけ遠くなった」
小さく息を吐く。
「でも、軽いって怖いんだ」
フィーは黙って聞いている。
「重さがあるうちは、自分がどこに立っているか分かる。苦しくても、何をすればいいかは分かる。でも役割がなくなると、急に自分の輪郭が分からなくなる」
⸻
ガルドが、
静かに目を伏せた。
フィーは、
縁側に座るトンヌラを思い出す。
怒らず。
叫ばず。
ただ、
事故だったのだから仕方がないと言った声。
感じていないわけではない。
けれど、
感じたものを動かす場所がない。
その空洞。
⸻
「団長は……また立てるでしょうか」
フィーは声を絞り出した。
サトウは、すぐには答えなかった。
白い空間に静けさが広がる。
やがて、ゆっくり口を開く。
「立つかどうかは、あいつが決めることだ」
フィーの胸が痛む。
「でも……」
「無理に立たせることはできない。役割を失った人間に、次の役割を押しつけても、たぶんまた折れる」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
サトウはまっすぐフィーを見た。
「隣にいるしかない」
⸻
あまりにも単純な言葉だった。
フィーは、すぐには受け取れなかった。
「隣に……」
「立つまで待つ。立てないなら、座っているそばにいる。怒れないなら、怒れるまで待つ。泣けないなら、泣けるまで待つ」
サトウは、
少し苦く笑った。
「俺は、それを教えられた側だからな」
⸻
勇者だから、死ななければならないわけではない。
背負うかどうかは、お前が決めろ。
檻になるな。
その言葉でサトウは役割の外へ出た。
誰かの言葉で、扉は開くかもしれない。
けれど。
そこから出るかどうかは自分で決めるしかない。
⸻
ガルドが口を開いた。
「俺は守る」
迷いのない声だった。
「団長が立てなくても、世界が静かでも、何も起きなくても守ります」
サトウはガルドを見る。
「お前は変わらないな」
「変われていないのかもしれません」
ガルドは静かに答えた。
「ですが、これは変えたくありません」
フィーは、
その横顔を見つめた。
何も起きない街で、
自分は本当に守れているのかと悩んでいた背中。
それでも。
守ると言った背中。
⸻
「私も」
フィーは拳を握った。
「私は、治せませんでした」
ミラの左目。
左耳。
時間が経ちすぎ、
波そのものが失われていた場所。
戻せなかったもの。
「一番大切な仲間を、元に戻せませんでした。でも、ミラはまだ鳴るって言いました。音が半分しか返ってこなくても、まだ音は消えていないって」
サトウの表情が変わる。
「ミラが?」
「事故で、左目と左耳を失いました。完全には戻りません」
サトウは目を伏せた。
「……そうか」
白い空間へ、
重い沈黙が落ちた。
⸻
フィーは深く息を吸った。
「団長には伝えました。でも、団長は動きませんでした。怒りもしなかった。仕方がない、誰も悪くないって。その声が、怖かったんです」
涙が滲む。
「私は、団長がもう一度立つための何かを探しています。その時が来たら……助けてください」
フィーは、
サトウへ深く頭を下げた。
⸻
サトウはしばらく何も言わなかった。
かつて勇者だった青年は、白い空間の中で静かに立っている。
そして。
ゆっくり頷いた。
「その時が来たら、行く」
フィーが顔を上げる。
「勇者としてじゃない」
サトウは言った。
「選ぶ者として」
⸻
フィーの胸が、少しだけ軽くなった。
サトウはもう勇者ではない。
それでも、選ぶことはできる。
役割を失っても、存在は残る。
存在が残るなら、選択も残る。
目の前の青年がそれを証明していた。
⸻
帰り道。
白い空間を抜けながら、フィーとガルドはしばらく無言で歩いた。
やがてガルドが口を開く。
「今は、何もできません」
「うん」
「ですが、何もしないことと、待つことは違います」
フィーは、
その言葉を胸の中で繰り返した。
何もしないこと。
待つこと。
似ているようで、まるで違う。
⸻
アンタイトルの丘。
古びた家の縁側にトンヌラは座っていた。
隣では、ぽめが丸くなって眠っている。
相変わらず、深い眠りの中にいた。
まるで、世界の底にある音を聞いているように。
フィーは遠くからその家を見上げた。
「選択は、まだ残ってる」
小さく呟く。
ガルドは頷いた。
「だから、守ります」
⸻
ここはレイアノーティア。
守れなかったとしても、守ると言う者がいる。
立ち上がれないなら、その隣に立つ。
何もできないのならできる日まで待つ。
それでも。
守ると決めた者は、もう背を向けない。
第123話 了




