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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第12章 欠けた旋律は鳴り止まない

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第123話 それでも守ると言った

 ここはレイアノーティア。


 強さは、立ち上がる理由にはならない。


 剣があっても。


 盾があっても。


 癒やす手があっても。


 動かない心へ、力を押し込むことはできない。


 それでも。


 立ち上がるまで、隣にいることはできる。



 風もない。


 土の匂いも、街の喧騒もない。


 白い空間。


 ネームドの里。


 世界の構造から、わずかに外れた場所。


 そこへ、フィーとガルドは足を踏み入れた。


 ガルドは道を知っている。


 かつてサトウをここへ送り届けたからだ。


 勇者ではなくなった青年を。


 守る側から、守られる側へ戻った者を。


 世界から削除されるかもしれなかった者を。


 あの日ガルドは彼をここまで連れてきた。


 そして。


 この場所へ受け入れられるまで見届けた。



「……久しぶりですね」


 フィーが小さく呟いた。


 白い空間は、


 相変わらず静かだった。


 今の世界にある静けさとは違う。


 ここには調整された滑らかさがない。


 冷たく整えられた平和もない。


 ただ余白がある。


 誰かが何者であるかを、すぐには決めないための余白。


 フィーはその白さの中を進んだ。


 隣では、ガルドが黙って歩いている。


 盾は持っていない。


 それでもその背中は変わらない。


 何かあれば前へ出る。


 そういう背中だった。



 奥の広場にサトウがいた。


 以前より、ずっと静かに見える。


 腰には剣がある。


 だが、そこに勇者の光はない。


 白い外套ももう身につけていなかった。


 ただの青年が石段に座り、空のない白を見上げている。


 サトウは二人に気づくと、ゆっくり立ち上がった。


「久しぶりだな」


 その声も勇者のものではなかった。


 世界の中心で、すべてを背負う者の声ではない。


 少し疲れていて、それでも自分の足で立っている、一人の人間の声だった。


 フィーは深く頭を下げた。


「勇者様」


 口にしてから言葉を止める。


 サトウは苦く笑った。


「その呼び方は、もうやめてくれ」


「……すみません」


「謝ることでもない。今の俺は、ただのサトウだ」



 フィーは顔を上げた。


 言わなければならないことがある。


 ミラのこと。


 トンヌラのこと。


 奪われた名のこと。


 何から話せばいいのか分からない。


 隣でガルドが静かに口を開いた。


「ドミニオンが現れました」


 サトウの目が、わずかに細くなる。


「統戒の魔王か」


「はい。五戒の魔王を統べる存在です」


 フィーが続ける。


「団長の……ネームレスを奪いました」


 白い空間に、


 その言葉が落ちた。


「今は、何もないんです。何も呼べない。何も預かれない。本人は、何も変わっていないって笑っていました。でも……変わっています」


 フィーの手が震える。


「感じているのに、それを動かせないんです」



 サトウは静かに聞いていた。


 驚きはある。


 それでも、大きく取り乱しはしなかった。


 彼もまた、一度役割を失った者だった。


「……そうか」


 短い返事。


 それが、フィーの胸を締めつける。


「それだけ、ですか」


 思わず声が出た。


 サトウは目を伏せる。


「軽く受け止めているわけじゃない。ただ、少しだけ分かるんだ」



 サトウは、


 自分の手を見た。


「勇者を失った時、最初は楽だった。誰かの期待も、世界の中心でいなければならない重さも、少しだけ遠くなった」


 小さく息を吐く。


「でも、軽いって怖いんだ」


 フィーは黙って聞いている。


「重さがあるうちは、自分がどこに立っているか分かる。苦しくても、何をすればいいかは分かる。でも役割がなくなると、急に自分の輪郭が分からなくなる」



 ガルドが、


 静かに目を伏せた。


 フィーは、


 縁側に座るトンヌラを思い出す。


 怒らず。


 叫ばず。


 ただ、


 事故だったのだから仕方がないと言った声。


 感じていないわけではない。


 けれど、


 感じたものを動かす場所がない。


 その空洞。



「団長は……また立てるでしょうか」


 フィーは声を絞り出した。


 サトウは、すぐには答えなかった。


 白い空間に静けさが広がる。


 やがて、ゆっくり口を開く。


「立つかどうかは、あいつが決めることだ」


 フィーの胸が痛む。


「でも……」


「無理に立たせることはできない。役割を失った人間に、次の役割を押しつけても、たぶんまた折れる」


「じゃあ、どうすればいいんですか」


 サトウはまっすぐフィーを見た。


「隣にいるしかない」



 あまりにも単純な言葉だった。


 フィーは、すぐには受け取れなかった。


「隣に……」


「立つまで待つ。立てないなら、座っているそばにいる。怒れないなら、怒れるまで待つ。泣けないなら、泣けるまで待つ」


 サトウは、


 少し苦く笑った。


「俺は、それを教えられた側だからな」



 勇者だから、死ななければならないわけではない。


 背負うかどうかは、お前が決めろ。


 檻になるな。


 その言葉でサトウは役割の外へ出た。


 誰かの言葉で、扉は開くかもしれない。


 けれど。


 そこから出るかどうかは自分で決めるしかない。



 ガルドが口を開いた。


「俺は守る」


 迷いのない声だった。


「団長が立てなくても、世界が静かでも、何も起きなくても守ります」


 サトウはガルドを見る。


「お前は変わらないな」


「変われていないのかもしれません」


 ガルドは静かに答えた。


「ですが、これは変えたくありません」


 フィーは、


 その横顔を見つめた。


 何も起きない街で、


 自分は本当に守れているのかと悩んでいた背中。


 それでも。


 守ると言った背中。



「私も」


 フィーは拳を握った。


「私は、治せませんでした」


 ミラの左目。


 左耳。


 時間が経ちすぎ、


 波そのものが失われていた場所。


 戻せなかったもの。


「一番大切な仲間を、元に戻せませんでした。でも、ミラはまだ鳴るって言いました。音が半分しか返ってこなくても、まだ音は消えていないって」


 サトウの表情が変わる。


「ミラが?」


「事故で、左目と左耳を失いました。完全には戻りません」


 サトウは目を伏せた。


「……そうか」


 白い空間へ、


 重い沈黙が落ちた。



 フィーは深く息を吸った。


「団長には伝えました。でも、団長は動きませんでした。怒りもしなかった。仕方がない、誰も悪くないって。その声が、怖かったんです」


 涙が滲む。


「私は、団長がもう一度立つための何かを探しています。その時が来たら……助けてください」


 フィーは、


 サトウへ深く頭を下げた。



 サトウはしばらく何も言わなかった。


 かつて勇者だった青年は、白い空間の中で静かに立っている。


 そして。


 ゆっくり頷いた。


「その時が来たら、行く」


 フィーが顔を上げる。


「勇者としてじゃない」


 サトウは言った。


「選ぶ者として」



 フィーの胸が、少しだけ軽くなった。


 サトウはもう勇者ではない。


 それでも、選ぶことはできる。


 役割を失っても、存在は残る。


 存在が残るなら、選択も残る。


 目の前の青年がそれを証明していた。



 帰り道。


 白い空間を抜けながら、フィーとガルドはしばらく無言で歩いた。


 やがてガルドが口を開く。


「今は、何もできません」


「うん」


「ですが、何もしないことと、待つことは違います」


 フィーは、


 その言葉を胸の中で繰り返した。


 何もしないこと。


 待つこと。


 似ているようで、まるで違う。



 アンタイトルの丘。


 古びた家の縁側にトンヌラは座っていた。


 隣では、ぽめが丸くなって眠っている。


 相変わらず、深い眠りの中にいた。


 まるで、世界の底にある音を聞いているように。


 フィーは遠くからその家を見上げた。


「選択は、まだ残ってる」


 小さく呟く。


 ガルドは頷いた。


「だから、守ります」



 ここはレイアノーティア。


 守れなかったとしても、守ると言う者がいる。


 立ち上がれないなら、その隣に立つ。


 何もできないのならできる日まで待つ。


 それでも。


 守ると決めた者は、もう背を向けない。


 第123話 了

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