第121話 何度でも
ここはレイアノーティア。
遅れた一歩は、戻らない。
あと少し早ければ。
あの時、そこにいれば。
手を伸ばせていれば。
そう願っても、
過ぎた時間は、命の波の外へ静かに沈んでいく。
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ヴァルミオン領のギルドに併設された診療室。
薬草の香り。
白い布。
窓から差し込む、やわらかな昼の光。
その静けさの中で、ミラは眠っていた。
左目には包帯。
左耳にも、痛々しい処置の跡が残っている。
右手は、ベッド脇に置かれたギターケースへ伸びかけたまま止まっていた。
眠っていてもなお、
そこへ触れようとしているようだった。
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フィーは椅子に腰掛けたまま、動けずにいた。
両手を膝の上で重ね、
ただ、ミラの寝顔を見つめ続ける。
(……間に合わなかった)
胸の奥へ、
何度も同じ言葉が沈んでいく。
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事故が起きた時、
フィーは別件の調査依頼で遠方にいた。
連絡は遅れた。
戻るまで、数日。
たった数日。
けれど、
命の波にとっては長すぎる時間だった。
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フィーが戻った時には、
すでに処置は終わっていた。
出血は止まり、
命に別状はない。
それだけが救いだった。
けれど、
失われたものも、確かにあった。
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「完全な回復は……難しいでしょう」
医師は静かに告げた。
冷たい言い方ではない。
ただ、
変えられない事実を伝える声だった。
「左目と左耳は、損傷してから時間が経ちすぎています」
医師はわずかに視線を落とした。
「命は助かっています」
「ですが、機能の回復は……」
そこで言葉が止まる。
続きを聞かなくても、
意味は分かった。
⸻
フィーは、そっとミラの手へ触れた。
鼓動はある。
呼吸も穏やかだ。
命の波は、
今も確かに流れている。
ミラは生きている。
けれど。
左目の奥。
左耳の奥。
そこだけは、もう静かだった。
乱れているのではない。
弱っているのでもない。
機能を支えていた波そのものが、
すでに失われている。
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「……時間が、経ちすぎてる」
フィーの声が震えた。
傷ついた身体なら整えられる。
乱れた命なら調律できる。
死へ向かう命も、
終わりきる前なら繋ぎ止められる。
サトウの時は、そうだった。
死は、
まだ完了していなかった。
だから繋ぎ止められた。
命を保留することができた。
けれど、
すでに失われた機能は違う。
合わせるべき波が、
もう、そこには存在しない。
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「治せない……」
声が落ちる。
「命はあるのに」
フィーの目に涙が滲んだ。
「ここだけ……もう戻らない」
それは諦めではなかった。
初めて、
自分の力が届かない場所を知った声だった。
⸻
遠く離れた、世界調停機構。
水晶の前には、
リリカだけが残っていた。
エヴァンは別の調整へ向かい、
ノインも記録の整理へ戻っている。
リリカは、診療室を映す水晶を静かに眺めていた。
眠るミラ。
その傍らに置かれたギター。
失われたものはある。
それでも、
まだ離そうとはしていない。
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リリカが小さく呟く。
「消えてないじゃない」
水晶の片隅で、
いくつかの数値が揺れた。
【音響残響:微弱】
【感情振動:残存】
【ネームレス残滓:微弱共鳴】
リリカは微笑んだ。
けれど、
その笑みはいつもより少しだけ薄い。
「本当に……しつこい子たちね」
⸻
診療室。
ミラの瞼が、ゆっくりと動いた。
右目だけが開く。
焦点が合うまで、
少し時間がかかった。
「……泣いてる?」
かすれた声。
フィーは首を振ろうとした。
けれど、
涙だけが先に落ちた。
「ごめん」
謝るつもりなど、
本当はなかった。
それでも、
言葉は勝手に口から出た。
⸻
ミラは右目だけで、
フィーを見つめた。
「なんで?」
「私が……いなかったから」
フィーの声が震える。
「もっと早く戻れていたら」
「事故の直後に触れられていたら」
「左目も、左耳も……」
言葉が崩れていく。
「私がもっと強ければ」
「もっと早ければ」
「もっと――」
⸻
ミラは静かに息を吐いた。
「全部、自分で背負わないで」
フィーの言葉が止まる。
ミラは少しだけ笑おうとした。
けれど、
うまく笑えてはいなかった。
「もし、あの時そこにいても」
「結果は同じだったかもしれない」
しばらく何も言わなかった。
「でも」
ミラがゆっくり息を吐く。
「悔しいよ」
右目に涙が滲んだ。
「音が半分しか返ってこない」
「距離も分からない」
「自分で出した音なのに……知らない場所から聞こえるみたいで」
指がシーツを握る。
「でもさ」
ミラはギターケースを見る。
「まだ鳴る」
フィーは、
何も言えなかった。
「だから、今は泣く」
右目から涙を流しながら、
ミラは静かに笑った。
「泣いてから……また考える」
フィーは頭を下げたまま、
ミラの手を握り続けた。
⸻
ここはレイアノーティア。
治せないものがある。
戻らないものもある。
それでも、
まだ終わったわけではない。
これまでも、すべてが上手くいったわけではなかった。
届かなければまた手を伸ばした。
聞こえなければ。
何度でも呼んだ。
音が変わってしまったのなら、変わった音で鳴らせばいい。
それでも鳴らす何度でも。
呼び直す。
第121話 了




