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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第12章 欠けた旋律は鳴り止まない

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第120話 落ちる光

 ここはレイアノーティア。

 光は、ときどき牙を持つ。


 人を照らすためのもの。

 夜を少しだけ明るくするもの。

 舞台に立つ者へ、視線を集めるもの。


 けれど。


 落ちる時、光は刃よりも残酷になる。



 ミラが目を覚ました時、最初に感じたのは静けさだった。


 白い天井。


 薬草の匂い。


 乾いた布の感触。


 身体が重い。


 左側だけ、世界が遠い。


 音が、片側からしか来ない。


 光も、片側からしか届かない。


 瞬きをしようとして、左目が包帯に覆われていることに気づいた。


 喉が動く。


「……あれ。なんであたしここにいるんだっけ」


 声は、自分のものではないみたいに掠れていた。


 少し遅れて、記憶が戻ってくる。


 灯り。


 歓声。


 ギター。


 夜の広場。


 そして。


 落ちてくる光。



 前日の約束通り、ミラは翌夜も舞台に立っていた。


 ヴァルミオン領の広場には、昨日より多くの人が集まっている。


 噂が広がったのだ。


 あの歌を聴くと、少しだけ胸が軽くなる。


 明日が、少しだけ怖くなくなる。


 そんな曖昧な言葉を頼りに、人々はまた広場へ来た。


 ミラは舞台裏でギターを抱え、息を吐いた。


 指先には、昨日の熱がまだ残っている。


 喉にも少し疲れがあった。


 けれど、それは悪い疲れではなかった。


 届いた手応えのあとにくる、重くて温かい疲れ。


 ミラは、その疲れを嫌いではなかった。



「こんばんは!」


 舞台に出る。


 歓声が返ってくる。


 昨日より大きい。


 昨日より、少し熱い。


 人々の目がこちらを見ている。


 期待。


 不安。


 祈り。


 言葉にならないものが、広場全体に満ちている。


 ミラは弦に指を置いた。


「昨日より、ちょっと人が多いじゃん」


 笑いが起きる。


「いいね。じゃあ昨日より、ちょっと大きく鳴らす」


 歓声。


 ミラは笑って、弦を鳴らした。



 最初の曲は、昨日より前へ出る音だった。


 静かすぎる夜を、少しだけ押し返す音。


 人々の呼吸を拾い、揃え、少しずつ温めていく。


 兵士が目を閉じる。


 子どもが母親の手を握る。


 商人が帽子を胸に当てる。


 広場の空気が、ひとつの鼓動に近づいていく。


 ミラは感じていた。


 届いている。


 音が、人の中で動いている。


 整えられすぎた世界の中で、まだ揺れるものがある。


 まだ、誰かの胸の奥は鳴る。



 世界調停機構の塔。


 水晶の中に、ヴァルミオン領の広場が映っている。


 昨夜より、数値はさらに上がっていた。


【音響干渉:拡大】

【民衆自律値:上昇】

【感情振動:連鎖傾向】

【ネームレス残滓:微弱共鳴】


 エヴァンは無表情で見ていた。


 その隣で、ノインが記録を続けている。


 少し離れた場所では、リリカが水晶の中の舞台を眺めていた。


 吊り下げられた照明。


 熱を持ち始めた器具。


 支柱。


 金具。


 ほんのわずかな緩み。


 普通なら、事故にはならない。


 誰かが気づく。

 誰かが止める。

 誰かが一歩早く手を伸ばす。


 その程度の不備だった。


「規定値を超えた」


 エヴァンが言う。


 リリカは視線を細めた。


「本当に、落とすのね」


「音響干渉の範囲を狭める」


「はいはい」


 軽く返した声に、いつもの弾みは少なかった。


 リリカは、ゆっくり指を持ち上げる。


「じゃあ、予定通り」


 水晶の中で、舞台の灯りが小さく揺れた。



 広場では、二曲目が始まっていた。


 ミラは調子を上げていく。


 弦を強く鳴らす。


 昨日よりも、確かに深く届いている。


 救世響鳴レゾナンス・オブ・エクソダス


 音が広場を包む。


 人々の背筋が伸びる。


 泣きそうだった子どもが笑う。


 老人が、静かに涙を拭く。


 ミラはその光景を見て、胸が熱くなった。


 今日も、鳴っている。


 今日も、届いている。



 舞台の上。


 照明が熱を持つ。


 支柱が、わずかに軋む。


 金具が、細く震える。


 舞台係が一人、顔を上げかける。


 だが、観客の拍手に気を取られる。


 別の係が支柱へ近づこうとする。


 だが、足元の布が引っかかり、ほんの少し遅れる。


 誰かが異変を言葉にしようとする。


 その前に、次の音が広場を包む。


 偶然。


 小さな偶然。


 いくつもの小さな遅れが重なっていく。


 調整された事故は、悪意の顔をしていない。


 ただ、間に合うはずだった一歩を、少しだけ遠ざける。



 ミラは三曲目へ入った。


 高音へ跳ねる。


 弦が震える。


 声が伸びる。


 ステージ全体の空気が、音に合わせて震える。


 その瞬間。


 照明の根元が折れた。



 ガシャン。


 乾いた破裂音。


 次に、金属の潰れる音。


 舞台の光が崩れる。


 視界が白く弾ける。


 そして、暗くなる。



 悲鳴が上がった。


 人々の呼吸がばらばらになる。


 誰かが叫ぶ。


 誰かが走る。


 舞台係が駆け込む。


 兵士が柵を押さえる。


 子どもが泣く。


 広場の鼓動は、一瞬で砕けた。



 ミラは、何が起きたのか理解するのに時間がかかった。


(なんで……寝てるんだっけ、あたし)


 地面が冷たい。


 身体が動かない。


 左側が重い。


 いや、重いのか軽いのかも分からない。


 音が遠い。


 右側からだけ、誰かの声が届く。


 左側は、静かだった。


 静かすぎた。


(うまく……聞こえないや)


 血の匂いがする。


 木の破片。


 金属の熱。


 焦げた油の匂い。


 ミラは照明器具の下敷きになっていた。



「ミラ!」


 声がする。


 誰の声か、すぐには分からない。


 右側からだけ、音が来る。


 誰かが器具をどかそうとしている。


 誰かが布を持ってくる。


 誰かが泣いている。


 ミラは指を動かそうとした。


 動かない。


 ギターはどこだろう。


 そんなことを考えた。


 馬鹿みたいだと思った。


 でも最初に考えたのは、それだった。


(ギター……無事かな)


 視界が揺れる。


 光。


 暗闇。


 揺れる天井。


 担架で運ばれていることも、よく分からなかった。



 遠く。


 塔の水晶で、数値が動く。


【音響干渉:急減】

【民衆自律値:低下】

【救世響鳴:発動不全】

【逸脱値:修正】


 エヴァンは無言で見ている。


 リリカは、少しだけ視線を逸らした。


「死んでないわ」


「削除ではない」


「ええ」


 リリカの声は軽くない。


「でも、あの子にとっては、かなり酷いわよ」


 エヴァンは水晶から目を離さない。


「音響干渉は抑制される」


「それが必要?」


「必要だ」


 リリカは黙った。


 水晶の中では、担架に乗せられたミラが運ばれていく。


 観客たちは混乱し、泣き、叫んでいる。


 だが、その熱はもう先ほどの形ではない。


 共鳴は途切れた。


 エヴァンは静かに言う。


「調整完了」



 病室。


 白い布。


 包帯。


 薬草の匂い。


 濁った医師の声。


「左目は……」


 言葉が途中で止まる。


 沈黙。


 優しさではない。


 言葉を選ぶ時間だった。


「左耳も、損傷が深い」


 ミラは天井を見ていた。


 見ているつもりだった。


 右側だけの天井。


 左側は、包帯と暗闇。


「命に別状はありません」


 医師の声が続く。


「ですが、視力と聴力の完全な回復は……難しいかもしれません」


 その言葉が、ゆっくり落ちてくる。


 すぐには理解できなかった。


 左目。


 左耳。


 視界。


 音。


 歌。


 ギター。


 舞台。


 広場。


 明日もやります、と言った自分の声。



 ミラは右手を動かした。


「ギター……」


 近くにいた職員が、慌てて答える。


「無事です。少し傷はありますけど、直せます」


「そっか」


 それだけ言う。


 喉が痛い。


 笑おうとして、うまく笑えなかった。



 夜。


 病室は静かだった。


 片側だけの世界。


 右側から聞こえる足音。


 右側から入る月明かり。


 右側だけで感じる空間。


 左側は、遠い。


 まるで世界の半分が布の向こうへ沈んだみたいだった。


 ミラは、そばに置かれたギターへ手を伸ばす。


 職員が止めようとしたが、ミラは首を振った。


「ちょっとだけ」


 ギターを抱える。


 重い。


 いつもより、距離が掴めない。


 弦に触れる。


 一音。


 鳴る。


 右耳に、音が届く。


 左には届かない。


 二音目。


 ずれる。


 三音目。


 補正しようとして、できない。


 音の広がりが掴めない。


 自分の音が、半分しか返ってこない。



 ミラは、救世響鳴レゾナンス・オブ・エクソダスを呼ぼうとした。


 呼吸を整える。


 指に力を込める。


 戦場で鳴らした音。


 人々の鼓動と重なった音。


 生きてここを越えるための音。


 だが。


 世界は揺れない。


 空気は応えない。


 弦の音だけが、病室に小さく落ちる。


 それだけだった。



 片目から、涙が溢れた。


 右目だけが泣いている。


 それが、どうしようもなく惨めで。


 どうしようもなく悔しかった。


(……団長)


 心の中で呼ぶ。


 届いてほしいと言った翌日のことだった。


 あの人に、届けばいいと思った。


 まだ何かあると伝えたかった。


 なのに。


 自分の音が、自分にすら半分しか届かない。



 病室の窓の外は、静かすぎた。


 事故のあとの街なのに。


 混乱はすでに収まりつつある。


 広場では片づけが始まり、兵士たちは人を誘導し、職員たちは記録を取っている。


 泣いている人もいる。


 心配している人もいる。


 だが、大きな暴動にはならない。


 怒りは広がらない。


 不満は、どこかで薄れていく。


 世界はもう、事故を飲み込もうとしている。



 ミラは天井を見る。


 右側だけの天井を。


 夜は、静かすぎる。


 でも。


 ギターの弦は、まだ指の下にある。


 音は、完全には消えていない。


 鳴る。


 小さくても。


 欠けていても。


 まだ、鳴る。



 ここはレイアノーティア。


 光は、落ちる。


 だが。


 音は、まだ消えていない。



 第120話 了

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