第120話 落ちる光
ここはレイアノーティア。
光は、ときどき牙を持つ。
人を照らすためのもの。
夜を少しだけ明るくするもの。
舞台に立つ者へ、視線を集めるもの。
けれど。
落ちる時、光は刃よりも残酷になる。
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ミラが目を覚ました時、最初に感じたのは静けさだった。
白い天井。
薬草の匂い。
乾いた布の感触。
身体が重い。
左側だけ、世界が遠い。
音が、片側からしか来ない。
光も、片側からしか届かない。
瞬きをしようとして、左目が包帯に覆われていることに気づいた。
喉が動く。
「……あれ。なんであたしここにいるんだっけ」
声は、自分のものではないみたいに掠れていた。
少し遅れて、記憶が戻ってくる。
灯り。
歓声。
ギター。
夜の広場。
そして。
落ちてくる光。
⸻
前日の約束通り、ミラは翌夜も舞台に立っていた。
ヴァルミオン領の広場には、昨日より多くの人が集まっている。
噂が広がったのだ。
あの歌を聴くと、少しだけ胸が軽くなる。
明日が、少しだけ怖くなくなる。
そんな曖昧な言葉を頼りに、人々はまた広場へ来た。
ミラは舞台裏でギターを抱え、息を吐いた。
指先には、昨日の熱がまだ残っている。
喉にも少し疲れがあった。
けれど、それは悪い疲れではなかった。
届いた手応えのあとにくる、重くて温かい疲れ。
ミラは、その疲れを嫌いではなかった。
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「こんばんは!」
舞台に出る。
歓声が返ってくる。
昨日より大きい。
昨日より、少し熱い。
人々の目がこちらを見ている。
期待。
不安。
祈り。
言葉にならないものが、広場全体に満ちている。
ミラは弦に指を置いた。
「昨日より、ちょっと人が多いじゃん」
笑いが起きる。
「いいね。じゃあ昨日より、ちょっと大きく鳴らす」
歓声。
ミラは笑って、弦を鳴らした。
⸻
最初の曲は、昨日より前へ出る音だった。
静かすぎる夜を、少しだけ押し返す音。
人々の呼吸を拾い、揃え、少しずつ温めていく。
兵士が目を閉じる。
子どもが母親の手を握る。
商人が帽子を胸に当てる。
広場の空気が、ひとつの鼓動に近づいていく。
ミラは感じていた。
届いている。
音が、人の中で動いている。
整えられすぎた世界の中で、まだ揺れるものがある。
まだ、誰かの胸の奥は鳴る。
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世界調停機構の塔。
水晶の中に、ヴァルミオン領の広場が映っている。
昨夜より、数値はさらに上がっていた。
【音響干渉:拡大】
【民衆自律値:上昇】
【感情振動:連鎖傾向】
【ネームレス残滓:微弱共鳴】
エヴァンは無表情で見ていた。
その隣で、ノインが記録を続けている。
少し離れた場所では、リリカが水晶の中の舞台を眺めていた。
吊り下げられた照明。
熱を持ち始めた器具。
支柱。
金具。
ほんのわずかな緩み。
普通なら、事故にはならない。
誰かが気づく。
誰かが止める。
誰かが一歩早く手を伸ばす。
その程度の不備だった。
「規定値を超えた」
エヴァンが言う。
リリカは視線を細めた。
「本当に、落とすのね」
「音響干渉の範囲を狭める」
「はいはい」
軽く返した声に、いつもの弾みは少なかった。
リリカは、ゆっくり指を持ち上げる。
「じゃあ、予定通り」
水晶の中で、舞台の灯りが小さく揺れた。
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広場では、二曲目が始まっていた。
ミラは調子を上げていく。
弦を強く鳴らす。
昨日よりも、確かに深く届いている。
救世響鳴。
音が広場を包む。
人々の背筋が伸びる。
泣きそうだった子どもが笑う。
老人が、静かに涙を拭く。
ミラはその光景を見て、胸が熱くなった。
今日も、鳴っている。
今日も、届いている。
⸻
舞台の上。
照明が熱を持つ。
支柱が、わずかに軋む。
金具が、細く震える。
舞台係が一人、顔を上げかける。
だが、観客の拍手に気を取られる。
別の係が支柱へ近づこうとする。
だが、足元の布が引っかかり、ほんの少し遅れる。
誰かが異変を言葉にしようとする。
その前に、次の音が広場を包む。
偶然。
小さな偶然。
いくつもの小さな遅れが重なっていく。
調整された事故は、悪意の顔をしていない。
ただ、間に合うはずだった一歩を、少しだけ遠ざける。
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ミラは三曲目へ入った。
高音へ跳ねる。
弦が震える。
声が伸びる。
ステージ全体の空気が、音に合わせて震える。
その瞬間。
照明の根元が折れた。
⸻
ガシャン。
乾いた破裂音。
次に、金属の潰れる音。
舞台の光が崩れる。
視界が白く弾ける。
そして、暗くなる。
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悲鳴が上がった。
人々の呼吸がばらばらになる。
誰かが叫ぶ。
誰かが走る。
舞台係が駆け込む。
兵士が柵を押さえる。
子どもが泣く。
広場の鼓動は、一瞬で砕けた。
⸻
ミラは、何が起きたのか理解するのに時間がかかった。
(なんで……寝てるんだっけ、あたし)
地面が冷たい。
身体が動かない。
左側が重い。
いや、重いのか軽いのかも分からない。
音が遠い。
右側からだけ、誰かの声が届く。
左側は、静かだった。
静かすぎた。
(うまく……聞こえないや)
血の匂いがする。
木の破片。
金属の熱。
焦げた油の匂い。
ミラは照明器具の下敷きになっていた。
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「ミラ!」
声がする。
誰の声か、すぐには分からない。
右側からだけ、音が来る。
誰かが器具をどかそうとしている。
誰かが布を持ってくる。
誰かが泣いている。
ミラは指を動かそうとした。
動かない。
ギターはどこだろう。
そんなことを考えた。
馬鹿みたいだと思った。
でも最初に考えたのは、それだった。
(ギター……無事かな)
視界が揺れる。
光。
暗闇。
揺れる天井。
担架で運ばれていることも、よく分からなかった。
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遠く。
塔の水晶で、数値が動く。
【音響干渉:急減】
【民衆自律値:低下】
【救世響鳴:発動不全】
【逸脱値:修正】
エヴァンは無言で見ている。
リリカは、少しだけ視線を逸らした。
「死んでないわ」
「削除ではない」
「ええ」
リリカの声は軽くない。
「でも、あの子にとっては、かなり酷いわよ」
エヴァンは水晶から目を離さない。
「音響干渉は抑制される」
「それが必要?」
「必要だ」
リリカは黙った。
水晶の中では、担架に乗せられたミラが運ばれていく。
観客たちは混乱し、泣き、叫んでいる。
だが、その熱はもう先ほどの形ではない。
共鳴は途切れた。
エヴァンは静かに言う。
「調整完了」
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病室。
白い布。
包帯。
薬草の匂い。
濁った医師の声。
「左目は……」
言葉が途中で止まる。
沈黙。
優しさではない。
言葉を選ぶ時間だった。
「左耳も、損傷が深い」
ミラは天井を見ていた。
見ているつもりだった。
右側だけの天井。
左側は、包帯と暗闇。
「命に別状はありません」
医師の声が続く。
「ですが、視力と聴力の完全な回復は……難しいかもしれません」
その言葉が、ゆっくり落ちてくる。
すぐには理解できなかった。
左目。
左耳。
視界。
音。
歌。
ギター。
舞台。
広場。
明日もやります、と言った自分の声。
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ミラは右手を動かした。
「ギター……」
近くにいた職員が、慌てて答える。
「無事です。少し傷はありますけど、直せます」
「そっか」
それだけ言う。
喉が痛い。
笑おうとして、うまく笑えなかった。
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夜。
病室は静かだった。
片側だけの世界。
右側から聞こえる足音。
右側から入る月明かり。
右側だけで感じる空間。
左側は、遠い。
まるで世界の半分が布の向こうへ沈んだみたいだった。
ミラは、そばに置かれたギターへ手を伸ばす。
職員が止めようとしたが、ミラは首を振った。
「ちょっとだけ」
ギターを抱える。
重い。
いつもより、距離が掴めない。
弦に触れる。
一音。
鳴る。
右耳に、音が届く。
左には届かない。
二音目。
ずれる。
三音目。
補正しようとして、できない。
音の広がりが掴めない。
自分の音が、半分しか返ってこない。
⸻
ミラは、救世響鳴を呼ぼうとした。
呼吸を整える。
指に力を込める。
戦場で鳴らした音。
人々の鼓動と重なった音。
生きてここを越えるための音。
だが。
世界は揺れない。
空気は応えない。
弦の音だけが、病室に小さく落ちる。
それだけだった。
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片目から、涙が溢れた。
右目だけが泣いている。
それが、どうしようもなく惨めで。
どうしようもなく悔しかった。
(……団長)
心の中で呼ぶ。
届いてほしいと言った翌日のことだった。
あの人に、届けばいいと思った。
まだ何かあると伝えたかった。
なのに。
自分の音が、自分にすら半分しか届かない。
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病室の窓の外は、静かすぎた。
事故のあとの街なのに。
混乱はすでに収まりつつある。
広場では片づけが始まり、兵士たちは人を誘導し、職員たちは記録を取っている。
泣いている人もいる。
心配している人もいる。
だが、大きな暴動にはならない。
怒りは広がらない。
不満は、どこかで薄れていく。
世界はもう、事故を飲み込もうとしている。
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ミラは天井を見る。
右側だけの天井を。
夜は、静かすぎる。
でも。
ギターの弦は、まだ指の下にある。
音は、完全には消えていない。
鳴る。
小さくても。
欠けていても。
まだ、鳴る。
⸻
ここはレイアノーティア。
光は、落ちる。
だが。
音は、まだ消えていない。
⸻
第120話 了




