第119話 届いてほしい人
第119話 届いてほしい人
ここはレイアノーティア。
夜は、誰かのために灯る。
昼のあいだは、みんな平気な顔をしている。
仕事をして、食べて、笑って、明日の予定を話す。
でも夜になると。
何も起きない静けさの奥で、
自分の胸の中に残っていた不安の音が聞こえてくることがある。
だから、歌が必要になる夜がある。
⸻
ヴァルミオン領の広場。
仮設の舞台が組まれていた。
大きなものではない。
木材を組み、布を張り、吊り下げた灯りで照らしただけの簡素な舞台。
それでも、人は集まっていた。
商人。
兵士。
工房の職人。
小さな子ども。
疲れた顔の母親。
酒場の椅子を持ち出してきた老人。
みんな、ひどく困っているわけではない。
飢えているわけでもない。
魔物に追われているわけでもない。
大きな戦が起きているわけでもない。
この三ヶ月、世界は平和だった。
平和すぎるほどに。
それでも、人々は広場に来ていた。
何かを待つように。
何かを思い出したいように。
⸻
舞台裏で、ミラはギターを抱えていた。
指先で、弦を軽く弾く。
音は少しだけ硬い。
「……緊張してる?」
近くの職員が聞いた。
ミラは笑う。
「してないって言ったら嘘ね」
「珍しいですね」
「珍しくないでしょ。あたし、けっこう繊細だから」
「そうでしたっけ」
「そこは否定しないでよ」
軽口を返す。
でも、胸の奥は少しだけ重かった。
⸻
世界は整っている。
それは、分かる。
最近の街は、以前よりずっと穏やかだ。
大きな争いはない。
魔物の襲撃も少ない。
人々は、予定通りに働き、予定通りに眠る。
それは、悪いことではない。
でも。
広場に集まった人々の顔には、どこか薄い膜がかかっているように見えた。
泣くほどではない。
怒るほどでもない。
叫ぶほどでもない。
けれど、何かが足りない。
そんな顔だった。
⸻
(大丈夫)
ミラは息を吸う。
(今日も、ちゃんと鳴らす)
そして、ふと丘の上の家を思い出した。
アンタイトルの外れ。
古びた空き家。
縁側に座っている、何もできなくなったと言う男。
ぽめと一緒に、ただ空を見ている男。
(団長)
心の中で呼ぶ。
本人が聞いたら、団長ではないと言うだろう。
でも、ミラの中ではまだそうだった。
(見てないかな)
そんなことを思う。
もちろん、ここにはいない。
この広場にトンヌラはいない。
でも。
(届いてほしいな)
ミラは、ギターの胴をそっと撫でた。
(あんたに)
⸻
舞台へ出る。
灯りが眩しい。
広場のざわめきが、少しずつ静まる。
ミラは笑った。
「こんばんはー!」
歓声が返る。
大きすぎない。
でも、確かに待っていた人たちの声だった。
「今日は、ちゃんと夜を鳴らしに来ました」
少し笑いが起きる。
ミラは弦に指を置く。
「眠れない人も」
「明日が怖い人も」
「なんか分からないけど、胸のあたりが重い人も」
広場が静かになる。
「まあ、座って聴いてって」
そして、弾いた。
⸻
最初の音は、低かった。
強く押す音ではない。
誰かを立たせるために急かす音でもない。
ただ、夜の底に置くような音。
広場に、波が広がっていく。
人々の呼吸が、少しずつ変わる。
誰かが腕を組む。
誰かが目を伏せる。
子どもが母親の袖を握る。
ミラは歌い出した。
⸻
勝利の歌ではない。
勇者の歌でもない。
完全な世界を称える歌でもない。
足りないものがある人の歌。
なくしたものを抱えたまま、それでも明日の朝へ向かう人の歌。
何も起きない夜に、
何かを忘れそうになっている人の歌。
⸻
(不完全だから、音がある)
ミラはそう思いながら弾く。
世界が何の問題もなく幸せなら、きっと歌なんて必要ない。
寂しいから鳴らす。
足りないから歌う。
言えないものがあるから、音にする。
誰かに届いてほしいから、声を出す。
それが音楽だ。
少なくとも、ミラにとってはそうだった。
⸻
広場の空気が、少しずつ熱を持つ。
兵士が目を閉じる。
老人が静かに頷く。
泣きそうな顔をしていた子どもが、ほんの少し笑う。
母親が、その頭を撫でる。
ミラは、その全部を見ていた。
届いている。
たぶん。
全部ではない。
誰もが明日から強くなるわけではない。
問題が消えるわけでもない。
でも、少しだけ。
胸の奥に置かれた何かが、震えている。
⸻
ミラは弦を強く鳴らした。
救世響鳴。
戦場の時のような爆発ではない。
魔物の拍を崩すためでもない。
けれど、確かにその残響がある。
人々の呼吸が重なる。
足元にあった不安が、少しだけ形を変える。
逃げるためではない。
戦うためでもない。
ただ、まだ自分で立っていることを思い出すための音。
⸻
(団長)
ミラは歌いながら、空を見る。
星がひとつ見えた。
(届いてる?)
届くはずがない。
距離がある。
場所も違う。
トンヌラは、きっと丘の上でぽめと一緒にぼんやりしている。
でも。
(あんたに、届けばいい)
何もできないと言うなら。
何もないと言うなら。
せめて、音だけでも。
あの人が自分の中にまだ何かあると思えるように。
ミラは、さらに強く歌った。
⸻
曲が終わる。
広場に、静寂が落ちた。
すぐに拍手は起こらなかった。
人々は、少しだけ遅れて息をした。
それから、一人が手を叩く。
別の一人が続く。
拍手が広がる。
歓声が上がる。
大きな熱が、夜の広場へ戻ってくる。
ミラは、深く頭を下げた。
「ありがとう」
声が少し震えた。
でも、笑えていた。
⸻
舞台の前にいた子どもが叫ぶ。
「明日も歌って!」
ミラは顔を上げる。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「明日もやります!」
自然に言葉が出た。
「今日みたいに、ちゃんと届けたいから!」
歓声が上がる。
夜風が、やわらかく広場を抜けていく。
⸻
舞台裏。
ミラは汗を拭いた。
指先は少し熱い。
弦を撫でる。
鳴った。
ちゃんと鳴った。
誰かに届いた。
そう思えた。
⸻
世界には、不都合がある。
思い通りにはいかない。
欠けることもある。
傷つくこともある。
失うこともある。
でも、だから音が生まれる。
トンヌラと出会って、それを知った。
完璧ではないから、歌う。
欠けているから、響く。
誰かが足りないと思っているから、そこへ届きたいと思う。
⸻
「明日も、歌おう」
小さく言う。
今日のように。
ちゃんと届くように。
あの人にも。
届くように。
⸻
遠く。
世界調停機構の塔。
水晶の表面に、小さな数値が跳ねた。
【音響干渉:再拡大】
【民衆自律値:上昇】
【感情振動:局所的増幅】
【ネームレス残滓:微弱反応】
エヴァンはその表示を見ていた。
無表情だった。
だが、視線は冷たい。
「……まだ鳴るのか」
水晶には、舞台裏でギターを抱えるミラの姿が映っている。
ノインが静かに言う。
「影響範囲は限定的です」
「限定的ではない」
エヴァンは即座に否定した。
「音は、名を介さず届く」
水晶の中で、ミラが笑っている。
「ネームレスを失っても、音響干渉は民衆の自律値を押し上げる」
指先が、わずかに動く。
「危険だ」
⸻
少し離れた場所で、リリカが水晶を覗き込んでいた。
興味深そうに目を細める。
「綺麗な音ね」
軽い声。
だが、笑いきってはいない。
「消すの?」
「削除ではない」
エヴァンは答える。
「調整する」
リリカは、水晶の中のミラを見る。
夜の灯り。
ギター。
汗を拭う横顔。
まだ何も知らない顔。
「残酷ね」
「必要だ」
エヴァンの声は揺れなかった。
リリカはしばらく黙り、それから小さく肩をすくめた。
「じゃあ、落とすのは光にしましょうか」
水晶の奥で、舞台の灯りが小さく揺れた。
⸻
ミラはまだ、それを知らない。
明日も歌うつもりでいる。
今日みたいに。
ちゃんと、届くように。
⸻
ここはレイアノーティア。
不完全だから、音が生まれる。
だが。
整いすぎた世界は、その音を恐れる。
⸻
第119話 了




