第117話 重さのない世界
ここはレイアノーティア。
軽さは、必ずしも救いではない。
物事が滞らない。
揉め事が広がらない。
誰かの失敗が、大きな傷にならない。
それは、よいことのはずだった。
だが。
重さを失った世界では、選んだ手応えまで薄くなることがある。
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エリシアは、朝から走っていた。
メルグラフの市場。
復興支援の分配所。
孤児院。
仮設の診療所。
巡回騎士の詰所。
行く場所は、いくらでもある。
アルディウス・ヴァン=メルグラフの娘としてではない。
助けられた者として。
そして今度は、誰かを立たせる側として。
エリシアは、自分の足で街を回っていた。
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「エリシア様、東区画の資材ですが」
「先に屋根材を回してください。雨が来る前に」
「はい」
「孤児院の食料は?」
「予定通り届いています」
「野菜は傷みやすいものから使って。乾物は少し残しておいてください」
「分かりました」
会話は、滑らかに進む。
誰も声を荒げない。
誰も強く反発しない。
伝えれば、通る。
頼めば、回る。
以前なら、少しは揉めた。
誰の家を先に直すのか。
どの通りへ物資を回すのか。
どの子どもにどれだけ食べさせるのか。
誰かが不満を口にし、誰かが泣き、誰かが怒った。
だからこそ、話し合った。
だからこそ、選んでいた。
今は違う。
大きく揉める前に、なぜか収まる。
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「最近、ほんと助かるよ」
市場の商人が、笑いながら言った。
「何をしても、計画通りにいくんだ」
計画通り。
その言葉が、エリシアの胸に小さく刺さった。
「それは、よかったです」
笑って返す。
商人は気づかない。
気づかなくていい。
ただ、エリシアだけが、その言葉の軽さを感じていた。
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昼前。
孤児院の庭。
子どもたちは走っていた。
誰かが転びそうになる。
エリシアは反射的に手を伸ばした。
けれど、その子は転ばなかった。
足元の小石が、ちょうど横へ転がる。
子どもの身体は傾いたまま、うまく持ち直す。
「危ないよ」
「大丈夫!」
子どもは笑って走っていく。
別の場所では、二人の子が木の玩具を取り合っていた。
泣くかと思った。
叩くかと思った。
けれど、年上の子が近づき、何かを言う。
すると、二人は少しだけ頬を膨らませて、それでも玩具を分けた。
喧嘩にならない。
怪我にならない。
泣き声にもならない。
エリシアは立ち尽くす。
いいことだ。
子どもが怪我をしないのはいい。
喧嘩が大きくならないのもいい。
それなのに。
(……変だな)
胸の奥が、ざわついた。
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午後。
巡回騎士との連携も、滞りなく終わった。
以前なら、騎士と商人の間で揉めることがあった。
復興を急ぐ者。
安全確認を優先する者。
物資を動かしたい者。
通路を封鎖したい者。
立場が違えば、衝突する。
それは自然なことだった。
だが今日は、誰も強くぶつからない。
言葉は穏やかで、折り合いは早い。
「それでは、この案で」
「異論ありません」
「助かります」
書類はすぐにまとまる。
不自然なくらいに。
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夕方。
エリシアは、丘の上へ向かった。
アンタイトルの外れにある古びた空き家。
トンヌラが住んでいる家。
道の途中で、風が吹いた。
穏やかな風だった。
あまりにも穏やかだった。
草は静かに揺れ、空は薄く澄み、街は夕暮れの光の中に収まっている。
綺麗だった。
整っていた。
でも、胸が重い。
重いのに。
世界だけが、軽い。
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家の前に着くと、トンヌラは縁側にいた。
何をするでもなく、丘の下を見ている。
隣では、ぽめが丸くなって眠っていた。
深い眠り。
呼吸は穏やかだが、妙に深い。
「トンヌラさん」
エリシアが呼ぶ。
「来たのか」
「来ました」
「最近よく来るな」
「来たいので」
「そうか」
短い会話。
以前より、トンヌラの言葉は薄い。
けれど、完全に空っぽではない。
エリシアには、そう思えた。
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しばらく二人で街を見下ろした。
煙が上がっている。
人が歩いている。
灯りがともり始めている。
平和な景色だった。
「トンヌラさん」
「なんだ」
「重さが、ないんです」
トンヌラが首を傾げる。
「重さ?」
「街が」
エリシアは自分でも、うまく言えていないと思った。
それでも、続ける。
「みんな頑張っています」
「物資も回っています」
「子どもたちも笑っています」
「怪我も少ないです」
「喧嘩も、ほとんど大きくなりません」
「いいことだろ」
「そうです」
エリシアは頷く。
そして、すぐに首を振った。
「でも、違うんです」
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風が吹く。
丘の草が、静かに波打つ。
「失敗しないんです」
エリシアは言った。
「誰かが失敗しそうになると、その前に収まる」
「誰かが怒りそうになると、その前に冷める」
「誰かが泣きそうになると、その前に別のことが起きる」
言葉にしていくうちに、違和感が形を持っていく。
「誰かが強くなったわけじゃない」
「誰かが我慢したわけでもない」
「誰かが選び取ったわけでもない」
ただ。
「収まるんです」
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トンヌラは黙っている。
その目が、少しだけ動いた。
エリシアは、ぽめを見る。
ぽめは寝ている。
深い。
あまりにも深い。
「私、最近思うんです」
声が、少し震えた。
「この世界、誰かに撫でられてませんか?」
静かな言葉だった。
だが、口にした瞬間、胸の奥にあった違和感がはっきりする。
撫でられている。
尖ったところを丸くされている。
泣き声も、怒りも、失敗も、傷も。
大きくなる前に、なだめられている。
優しく。
丁寧に。
それが、怖い。
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トンヌラは目を閉じた。
「撫でられる世界、か」
小さく呟く。
「尖りを丸くされる世界」
「はい」
エリシアは頷く。
「トンヌラさんが動いていた時」
言葉を選ぶ。
「街は、もっと揺れていました」
「大変でした」
「怖かったです」
「でも、熱がありました」
トンヌラは小さく笑った。
「俺のせいでな」
「違います」
即答だった。
「トンヌラさんがいたから、みんな自分で選んだんです」
その言葉に、トンヌラは何も返さなかった。
返せないようにも見えた。
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エリシアの胸が、重くなる。
(私は、なぜ動いているんだろう)
感謝か。
恩返しか。
父のためか。
街のためか。
どれもある。
でも、それだけではない。
もっと根っこのところにあるもの。
天蓋の下で、ただ生きていた頃には持てなかったもの。
自分の足で立ったあとに、ようやく分かったもの。
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「私は」
エリシアは小さく言う。
「世界がどうなっても」
「自分で選びたいです」
風が、ほんの少しだけ強くなった。
「トンヌラさんが何もしなくても」
「私は動きます」
「それが、私の役割かもしれない」
言ったあとで、少しだけ迷う。
役割。
その言葉が、今は少し怖かった。
トンヌラはゆっくり首を振る。
「役割じゃない」
静かな声だった。
「選んでるだけだろ」
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エリシアの目が、わずかに潤んだ。
それは慰めではない。
大きな宣言でもない。
ただ、トンヌラが今言える範囲の言葉だった。
でも、それで十分だった。
「……そうですね」
エリシアは頷く。
「私は、選んでいます」
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その瞬間。
遠くで鐘が鳴った。
予定より、ほんの少し早い。
だが、街の誰も気づかない。
いつものように聞き流し、いつものように歩いていく。
エリシアだけが、顔を上げた。
「今の……」
「どうした」
「いえ」
確かな異常ではない。
でも、少しだけずれていた。
整いすぎた世界の中で、ほんの小さく早まった鐘。
それは、不自然で。
少しだけ、人間らしかった。
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丘の家の影が、わずかに揺れる。
ぽめの耳が、ぴくりと動いた。
だが、目は開かない。
眠りはまだ深い。
深すぎるほどに。
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エリシアは立ち上がる。
「また来ます」
「来なくていい」
「来ます」
「そうか」
トンヌラは、もう止めなかった。
エリシアは振り返り、街へ向かって歩き出す。
足取りは軽くない。
でも、確かだった。
世界が撫でられていても。
誰かに丸くされていても。
自分の足で歩く。
そう決めたから。
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トンヌラは、しばらくその背中を見ていた。
「選んでるだけ、か」
自分で言った言葉を、小さく繰り返す。
胸の奥に、わずかな痛みが残る。
その痛みは、嫌なものではなかった。
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ここはレイアノーティア。
世界は整っている。
だが。
整いすぎた世界は、選択を奪う。
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第117話 了




