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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第12章 欠けた旋律は鳴り止まない

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第117話 重さのない世界

 ここはレイアノーティア。

 軽さは、必ずしも救いではない。


 物事が滞らない。

 揉め事が広がらない。

 誰かの失敗が、大きな傷にならない。


 それは、よいことのはずだった。


 だが。


 重さを失った世界では、選んだ手応えまで薄くなることがある。



 エリシアは、朝から走っていた。


 メルグラフの市場。


 復興支援の分配所。


 孤児院。


 仮設の診療所。


 巡回騎士の詰所。


 行く場所は、いくらでもある。


 アルディウス・ヴァン=メルグラフの娘としてではない。


 助けられた者として。


 そして今度は、誰かを立たせる側として。


 エリシアは、自分の足で街を回っていた。



「エリシア様、東区画の資材ですが」


「先に屋根材を回してください。雨が来る前に」


「はい」


「孤児院の食料は?」


「予定通り届いています」


「野菜は傷みやすいものから使って。乾物は少し残しておいてください」


「分かりました」


 会話は、滑らかに進む。


 誰も声を荒げない。


 誰も強く反発しない。


 伝えれば、通る。


 頼めば、回る。


 以前なら、少しは揉めた。


 誰の家を先に直すのか。

 どの通りへ物資を回すのか。

 どの子どもにどれだけ食べさせるのか。


 誰かが不満を口にし、誰かが泣き、誰かが怒った。


 だからこそ、話し合った。


 だからこそ、選んでいた。


 今は違う。


 大きく揉める前に、なぜか収まる。



「最近、ほんと助かるよ」


 市場の商人が、笑いながら言った。


「何をしても、計画通りにいくんだ」


 計画通り。


 その言葉が、エリシアの胸に小さく刺さった。


「それは、よかったです」


 笑って返す。


 商人は気づかない。


 気づかなくていい。


 ただ、エリシアだけが、その言葉の軽さを感じていた。



 昼前。


 孤児院の庭。


 子どもたちは走っていた。


 誰かが転びそうになる。


 エリシアは反射的に手を伸ばした。


 けれど、その子は転ばなかった。


 足元の小石が、ちょうど横へ転がる。


 子どもの身体は傾いたまま、うまく持ち直す。


「危ないよ」


「大丈夫!」


 子どもは笑って走っていく。


 別の場所では、二人の子が木の玩具を取り合っていた。


 泣くかと思った。


 叩くかと思った。


 けれど、年上の子が近づき、何かを言う。


 すると、二人は少しだけ頬を膨らませて、それでも玩具を分けた。


 喧嘩にならない。


 怪我にならない。


 泣き声にもならない。


 エリシアは立ち尽くす。


 いいことだ。


 子どもが怪我をしないのはいい。


 喧嘩が大きくならないのもいい。


 それなのに。


(……変だな)


 胸の奥が、ざわついた。



 午後。


 巡回騎士との連携も、滞りなく終わった。


 以前なら、騎士と商人の間で揉めることがあった。


 復興を急ぐ者。

 安全確認を優先する者。

 物資を動かしたい者。

 通路を封鎖したい者。


 立場が違えば、衝突する。


 それは自然なことだった。


 だが今日は、誰も強くぶつからない。


 言葉は穏やかで、折り合いは早い。


「それでは、この案で」


「異論ありません」


「助かります」


 書類はすぐにまとまる。


 不自然なくらいに。



 夕方。


 エリシアは、丘の上へ向かった。


 アンタイトルの外れにある古びた空き家。


 トンヌラが住んでいる家。


 道の途中で、風が吹いた。


 穏やかな風だった。


 あまりにも穏やかだった。


 草は静かに揺れ、空は薄く澄み、街は夕暮れの光の中に収まっている。


 綺麗だった。


 整っていた。


 でも、胸が重い。


 重いのに。


 世界だけが、軽い。



 家の前に着くと、トンヌラは縁側にいた。


 何をするでもなく、丘の下を見ている。


 隣では、ぽめが丸くなって眠っていた。


 深い眠り。


 呼吸は穏やかだが、妙に深い。


「トンヌラさん」


 エリシアが呼ぶ。


「来たのか」


「来ました」


「最近よく来るな」


「来たいので」


「そうか」


 短い会話。


 以前より、トンヌラの言葉は薄い。


 けれど、完全に空っぽではない。


 エリシアには、そう思えた。



 しばらく二人で街を見下ろした。


 煙が上がっている。


 人が歩いている。


 灯りがともり始めている。


 平和な景色だった。


「トンヌラさん」


「なんだ」


「重さが、ないんです」


 トンヌラが首を傾げる。


「重さ?」


「街が」


 エリシアは自分でも、うまく言えていないと思った。


 それでも、続ける。


「みんな頑張っています」


「物資も回っています」


「子どもたちも笑っています」


「怪我も少ないです」


「喧嘩も、ほとんど大きくなりません」


「いいことだろ」


「そうです」


 エリシアは頷く。


 そして、すぐに首を振った。


「でも、違うんです」



 風が吹く。


 丘の草が、静かに波打つ。


「失敗しないんです」


 エリシアは言った。


「誰かが失敗しそうになると、その前に収まる」


「誰かが怒りそうになると、その前に冷める」


「誰かが泣きそうになると、その前に別のことが起きる」


 言葉にしていくうちに、違和感が形を持っていく。


「誰かが強くなったわけじゃない」


「誰かが我慢したわけでもない」


「誰かが選び取ったわけでもない」


 ただ。


「収まるんです」



 トンヌラは黙っている。


 その目が、少しだけ動いた。


 エリシアは、ぽめを見る。


 ぽめは寝ている。


 深い。


 あまりにも深い。


「私、最近思うんです」


 声が、少し震えた。


「この世界、誰かに撫でられてませんか?」


 静かな言葉だった。


 だが、口にした瞬間、胸の奥にあった違和感がはっきりする。


 撫でられている。


 尖ったところを丸くされている。


 泣き声も、怒りも、失敗も、傷も。


 大きくなる前に、なだめられている。


 優しく。


 丁寧に。


 それが、怖い。



 トンヌラは目を閉じた。


「撫でられる世界、か」


 小さく呟く。


「尖りを丸くされる世界」


「はい」


 エリシアは頷く。


「トンヌラさんが動いていた時」


 言葉を選ぶ。


「街は、もっと揺れていました」


「大変でした」


「怖かったです」


「でも、熱がありました」


 トンヌラは小さく笑った。


「俺のせいでな」


「違います」


 即答だった。


「トンヌラさんがいたから、みんな自分で選んだんです」


 その言葉に、トンヌラは何も返さなかった。


 返せないようにも見えた。



 エリシアの胸が、重くなる。


(私は、なぜ動いているんだろう)


 感謝か。


 恩返しか。


 父のためか。


 街のためか。


 どれもある。


 でも、それだけではない。


 もっと根っこのところにあるもの。


 天蓋の下で、ただ生きていた頃には持てなかったもの。


 自分の足で立ったあとに、ようやく分かったもの。



「私は」


 エリシアは小さく言う。


「世界がどうなっても」


「自分で選びたいです」


 風が、ほんの少しだけ強くなった。


「トンヌラさんが何もしなくても」


「私は動きます」


「それが、私の役割かもしれない」


 言ったあとで、少しだけ迷う。


 役割。


 その言葉が、今は少し怖かった。


 トンヌラはゆっくり首を振る。


「役割じゃない」


 静かな声だった。


「選んでるだけだろ」



 エリシアの目が、わずかに潤んだ。


 それは慰めではない。


 大きな宣言でもない。


 ただ、トンヌラが今言える範囲の言葉だった。


 でも、それで十分だった。


「……そうですね」


 エリシアは頷く。


「私は、選んでいます」



 その瞬間。


 遠くで鐘が鳴った。


 予定より、ほんの少し早い。


 だが、街の誰も気づかない。


 いつものように聞き流し、いつものように歩いていく。


 エリシアだけが、顔を上げた。


「今の……」


「どうした」


「いえ」


 確かな異常ではない。


 でも、少しだけずれていた。


 整いすぎた世界の中で、ほんの小さく早まった鐘。


 それは、不自然で。


 少しだけ、人間らしかった。



 丘の家の影が、わずかに揺れる。


 ぽめの耳が、ぴくりと動いた。


 だが、目は開かない。


 眠りはまだ深い。


 深すぎるほどに。



 エリシアは立ち上がる。


「また来ます」


「来なくていい」


「来ます」


「そうか」


 トンヌラは、もう止めなかった。


 エリシアは振り返り、街へ向かって歩き出す。


 足取りは軽くない。


 でも、確かだった。


 世界が撫でられていても。


 誰かに丸くされていても。


 自分の足で歩く。


 そう決めたから。



 トンヌラは、しばらくその背中を見ていた。


「選んでるだけ、か」


 自分で言った言葉を、小さく繰り返す。


 胸の奥に、わずかな痛みが残る。


 その痛みは、嫌なものではなかった。



 ここはレイアノーティア。


 世界は整っている。


 だが。


 整いすぎた世界は、選択を奪う。



 第117話 了

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