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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第11章 役割のない静寂

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115/126

第115話 想定内の世界

 ここはレイアノーティア。

 均衡は、崩れていない。


 暴動は起きない。

 魔物の侵攻は、軽微。

 復興は、順調。

 勇者の不在による混乱も、許容範囲内。


 すべて、想定内。


 それは、正しさの証明だった。


 少なくとも、エヴァンはそう信じている。



 白い空間。


 音はない。


 だが、無音ではない。


 円環の回転音。

 水晶の微細な振動。

 遠くの都市から流れ込む生活値。

 各地の魔物発生率。

 民衆不安値。

 英雄値。

 経済流動。


 世界は、細い音の集まりとして流れている。


 エヴァンは静かに目を閉じていた。


 報告は、すでに確認している。


 大規模な乱れはない。

 過剰な希望もない。

 過剰な絶望もない。

 選択者の発生率も低下している。


 想定範囲内。


 すべて、想定内だった。



「……よし」


 エヴァンは小さく息を吐いた。


 あの誤差は、無力化された。


 ネームレス。


 均衡を破壊する中心。


 削除ではない。


 機能停止。


 理想的な処理だった。


 殺す必要はなかった。

 存在を消す必要もなかった。

 ただ、役割を奪えばよかった。


 名を預かる者から、名を奪う。


 それだけで、世界は静かになった。



 幼い日の声が、かすかに蘇る。


『削除は、最後の手段です』


 母の声。


 やわらかく、だが厳しい声だった。


『調整できるなら、削除は避けなさい』


 あの頃、エヴァンはまだ、世界を音のように見ていた。


 ひとつの音がずれれば、直す。

 強すぎる音は抑える。

 足りない音は足す。

 響きすぎる音は、壁を置く。


 壊すのではない。


 整える。


 それが美しいのだと教わった。



 完璧に整えれば、削る必要はない。


 誰かを消さなくて済む。


 誰かを大きく泣かせる必要もない。


 世界は、痛みを最小にして進める。


 それが理想だった。


 そのはずだった。



 若い頃の記録が、勝手に脳裏へ上がる。


 勇者が勝ちすぎた。


 魔王が倒されすぎた。


 人々は、過剰に安心した。


 開拓は進み、人口は増え、英雄値は肥大化し、信仰は一方向へ傾いた。


 恐怖が消えすぎた。


 不安が薄れすぎた。


 人は、安心しすぎると前へ進みすぎる。


 前へ進みすぎた世界は、別の形で壊れる。


 人口は増え、食料は足りず、経済は偏り、辺境では小さな争いが急増した。


 魔物という圧が消えたことで、人間同士の圧が増えた。


 均衡が崩れた。


 想定外。


 その言葉が、すべてだった。



『なぜ予測できなかった』


 冷たい視線。


 叱責。


 沈黙。


 期待されていたからこそ、失敗は大きかった。


 できるはずだと言われていた。


 見えるはずだと言われていた。


 整えられるはずだと言われていた。


 なのに、予測できなかった。


 エヴァンの拳が、わずかに固まる。


 想定外は、怖い。


 先が読めない世界は、恐ろしい。


 調整できない未来は、耐えがたい。



 その夜から、エヴァンは眠れなくなった。


 目を閉じると、失敗した未来ばかりが見えた。


 魔王が消えた世界。

 増えすぎる人口。

 食料の不足。

 膨れ上がる勇者信仰。

 開拓地で起きる争い。

 小さな判断ミスが、別の場所で大きな破綻へ繋がっていく。


 なぜ、読めなかった。


 その問いだけが、頭の中で鳴り続けた。


 だから、読もうとした。


 次の一手を。

 その先の反応を。

 反応の先に生まれる分岐を。

 分岐の先で崩れる場所を。


 恐怖が、視界を広げた。


 失敗への恐怖。

 叱責への恐怖。

 もう二度と、想定外を起こしてはならないという強迫。


 その果てに、エヴァンは覚醒した。


 ルック・アヘッド《演奏の先読み》。


 因果の先を、誰よりも早く読む力。


 ひとつの音が、どの不協和へ繋がるか。

 ひとつの選択が、どの破綻を呼ぶか。

 ひとつの英雄が、どこで世界を傾けるか。


 それが見えるようになった。


 見えすぎるようになった。


 そして、エヴァンは世界調停機構の長官になった。


 未来を読める者。


 失敗を恐れる者。


 だからこそ、世界を整える権限を与えられた。



 だから、止める。


 起きる前に。


 広がる前に。


 痛みになる前に。


 そうすれば、誰も責めなくて済む。


 誰も大きく壊れなくて済む。


 世界は静かに続く。



 白い空間の奥に、黒い影が立っている。


 統戒の魔王、ドミニオン。


 巨大な翼を畳み、動かない。


 紫の瞳は閉じられている。


 五戒すべてを内包した、完成体。


 不協和。

 災衡。

 衰退。

 破滅。

 虚無。


 名と役割の構造を把握し、必要ならば固定し、必要ならば奪う。


 これで。


 これで大丈夫だ。



 ノインが現れる。


 白い外套が、無機質な光の中でほとんど色を持たない。


「第五調整後の安定化処理、継続中」


 淡々とした声。


「誤差は収束傾向です」


 エヴァンは頷く。


「良い」


 短い言葉。


 ノインはそのまま報告を続ける。


「ただし」


 エヴァンの視線が動く。


「一部の個体が、自律的に選択を継続しています」


「どの程度だ」


「影響は軽微」


 ノインは即答した。


「現時点では、均衡へ重大な影響はありません」


 問題ない。


 想定内。


 エヴァンはそう判断する。


 それでも、胸の奥に細い引っかかりが残った。



「対象は」


「ガルド、コムギ、フィー、ミラ、クラウス」


 ノインは水晶を展開する。


 それぞれの姿が、淡く映し出された。


 何も起きない丘に立つガルド。

 配給表の前で、笑顔を作るコムギ。

 誰も重傷にならない診療室で、包帯をたたむフィー。

 遠い場所で、歌を鳴らす準備をするミラ。

 森の奥から、世界の糸を見るクラウス。


 彼らは、まだ完全には止まっていない。


 だが、以前ほど世界を揺らしてはいない。


 中心がないからだ。


 名を預かる者がいない。


 ならば、連鎖は起きない。


「監視を継続」


 エヴァンは言う。


「干渉は不要だ」


「了解しました」



 白い空間に、水晶の振動だけが流れる。


 エヴァンはドミニオンを見る。


 巨大な影。


 万能。


 完全。


 完璧。


「……このままいける」


 小さく呟く。


 永続的な平和。


 過度な絶望もない。


 過度な希望もない。


 勇者が必要以上に称えられることもない。


 魔王が必要以上に暴れることもない。


 冒険者が無秩序に名を上げることもない。


 人々は、ほどよく不安を持ち、ほどよく安心し、ほどよく働き、ほどよく眠る。


 安定。


 調律。


 均衡。



 だが。


 ほんの一瞬。


 視界の端で、揺らぎが走る。


 数値ではない。


 構造でもない。


 感覚。


 丘の上の家。


 縁側に座る、何もない男。


 役割を失った存在。


 トンヌラ。


 かつてネームレスだった者。



 エヴァンは目を閉じる。


「無力化済みだ」


 自分に言い聞かせるように。


「もう、誤差ではない」


 名はない。


 役割もない。


 名称干渉は発生していない。


 周囲の覚醒値も低下している。


 彼はもう、中心ではない。


 ただの個体。


 ただの生活者。


 調整対象ではあっても、危険因子ではない。


 そう判断できる。


 そう判断すべきだ。



 だが。


 なぜか。


 完全に安心できない。



「……なぜだ」


 声には出さず、思う。


 削除ではない。


 無力化。


 役割剥奪。


 理想的処理。


 それなのに、胸の奥が完全には静まらない。


 あの男は、何もしていない。


 今度こそ、本当に何もしていない。


 水を汲み、火を起こし、時々食べ、眠るだけ。


 それなのに、観測から外した瞬間、何かを見落とす気がする。


 意味が分からない。


 根拠がない。


 根拠のない不安など、処理すべき誤差にすぎない。



 ドミニオンの翼が、わずかに震えた。


 ほんのわずか。


 ノイズのように。


 ノインが気づく。


「何か検知しましたか」


 エヴァンはドミニオンを見る。


 紫の瞳は閉じられている。


 反応は微小。


 記録するほどではない。


「いいえ」


 少し間を置く。


「収束しています」


 ノインは頷く。


「それなら、いい」


 エヴァンは言う。


「しばらく監視を続けてください」


「了解しました」


 ノインは静かに作業へ戻る。



 エヴァンはゆっくりと立ち上がる。


 白い空間に、足音が響いた。


 その音さえ、少し大きく感じるほど静かだった。


「世界は」


 静かに言う。


「完璧であるべきだ」


 誰に聞かせる言葉でもない。


 自分に刻むための言葉だった。


 完璧でなければ、破綻する。


 予測不能は事故を生む。


 事故は痛みを生む。


 痛みは、誰かを壊す。


 なら、最初から予測すればいい。


 最初から整えればいい。


 最初から、想定内に収めればいい。



 遠く。


 丘の上。


 ぽめが、小さく寝返りを打つ。


 目は閉じたまま。


 深い眠りの底で、丸い身体がわずかに沈む。


 トンヌラはそれに気づかない。


 台所で、焦げかけた鍋を見ている。


 ただの朝。


 ただの生活。


 ただの何もない男。



 エヴァンは、水晶の表示を閉じる。


「何も起きるはずがない」


 そう言った。


 世界は今、完璧に予測できる範疇にいる。


 そのはずだった。



 ここはレイアノーティア。


 均衡は、維持されている。


 だが。


 恐怖は、消えていない。



 第115話 了

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