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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第11章 役割のない静寂

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第113話 不完全な朝へ

 ここはレイアノーティア。

 選ばないことも、ひとつの選択だ。


 立ち止まること。

 目を逸らすこと。

 返事をしないこと。

 今日ではなく、明日に回すこと。


 それは何もしていないように見える。


 だが。


 何もしないことを選び続けた日々も、消えてなくなるわけではない。



 朝。


 トンヌラは縁側で目を覚ました。


 昨夜、いつの間にか外で眠っていたらしい。


 背中が少し痛い。


 空は青い。


 風は穏やかで、丘の下の街からは小さな生活音が届いてくる。


 荷車の軋む音。

 誰かが戸を開ける音。

 遠くで子どもが笑う声。


 何も予定はない。


 急ぐ理由もない。


 誰かに呼ばれているわけでもない。


 トンヌラは、しばらく動かなかった。



 横では、ぽめが丸くなっている。


 やはり眠っていた。


 最近のぽめは、眠りが深い。


 以前からよく寝る生き物ではあったが、今は少し違う。


 底の見えない場所へ沈んでいるような眠り方だった。


「……お前も、起きる理由がないのか」


 呟く。


 ぽめは返事をしない。


 耳も動かない。


 ただ、丸い。



(昔も、こんな朝だったな)


 ふと、思った。


 冒険者になるよりも前。


 山にこもるよりも前。


 まだ、自分が何者でもないことを受け入れられなかった頃。


 家の奥にある、小さな部屋。


 厚い木戸。


 閉め切った窓。


 薄暗い天井。


 外から聞こえる家族の声だけが、やけに大きく響く場所。


 寝台の中で、目だけは覚めていた。


 起きていた。


 だが、起き上がらなかった。



『……起きてる?』


 母の声。


 扉越しに聞こえる、柔らかい声。


 優しい。


 優しすぎる声。


 それが、苦しかった。


 トンヌラは返事をしなかった。


 聞こえている。


 起きている。


 でも、返さない。


 返したら、何かを始めなければならない気がした。


 今日どうするのか。

 明日はどうするのか。

 これからどうするのか。


 その問いが、扉の外で待っている気がした。



 何もしていなかった。


 何もできなかった。


 でも、何も考えていなかったわけではない。


(やらなきゃ)


 何度も思った。


 起きなきゃ。

 外に出なきゃ。

 働かなきゃ。

 剣を覚えなきゃ。

 魔法のひとつくらい使えなきゃ。

 何者かにならなきゃ。


 思うだけなら、いくらでもできた。


 だが、体は動かなかった。


 動かない理由を探した。


 今日は体調が悪い。

 明日からにする。

 まだ準備ができていない。

 今さら外に出ても笑われるだけだ。


 理由を並べるたび、少しだけ楽になる。


 そして、その分だけ疲れる。



『今日は、どうするんだ』


 父の声。


 怒鳴ってはいなかった。


 ただ、困っている声だった。


 その方が、つらかった。


 怒られた方が、まだ反発できたかもしれない。


 だが、困られると何も言えない。


 自分が、誰かの生活に重く乗っていることを知ってしまうからだ。



 泣いていたのは、家族だけではなかった。


 寝台の中で、トンヌラも泣いていた。


 声は出さない。


 顔も見せない。


 ただ、布をかぶって息を殺して、泣いていた。


(俺は必要ない)


 何度も思った。


 世界は回る。


 自分がいなくても困らない。


 誰かの役に立つわけでもない。


 何かを成し遂げるわけでもない。


 いても、いなくても変わらない。


 それなのに、食事だけは出てくる。



『置いておくね』


 扉の前に、木皿の音。


 麦粥の匂い。

 豆のスープ。

 少し硬い黒パン。

 焼いた根菜。


 温かい匂いが、扉の下から入ってくる。


 何も返せなかった。


 ありがとうも。


 ごめんも。


 いただきますも。


 何ひとつ、言えなかった。



 今でも覚えている。


 皿が冷めていく匂い。


 手を伸ばすまでの時間。


 誰もいなくなった廊下。


 静かに扉を開ける自分。


 食べる。


 腹は減っていた。


 だから食べた。


 食べながら、泣きそうになった。


 生きることだけは、やめられなかった。



 そういう日々の中で、トンヌラは少しずつ、妙な言葉を覚えていった。


 誰かから教わったわけではない。


 本で読んだ英雄譚。

 旅芸人の語る伝説。

 酒場から漏れてくる冒険者の自慢話。

 そういうものを、部屋の奥で勝手につなぎ合わせた。


 本当は、まだ真の力に目覚めていないだけだ。


 今は役割がないのではない。


 封じられているだけだ。


 修行が足りないのかもしれない。


 あるいは、自分は本当は魔法に愛された存在で、火も水も風も土も、まだ眠っているだけなのかもしれない。



 全てを受け止める。


 全ての人を支える。


 全てを癒やす。


 全てを響かせる。


 全ての因果を、いつかこの手で操る。


 そんなことを、誰にも聞こえない部屋の中で考えていた。



 最初は、ただの慰めだった。


 何者でもない自分を、少しでも何者かに見せるための言葉。


 だが、言葉はだんだん大きくなった。


 壁に向かって立ち上がる。


 誰もいない部屋で、意味もなく腕を組む。


 そして、声を潜めて叫ぶ。


「全てを受ける、戦場守護者よ」


 壁は何も答えない。


 それでも続ける。


「崩れぬ盾で、前線を固定せよ」


 また別の日には、手をかざして言った。


「生命調律者よ」


「乱れた命の波を整え、死の淵から呼吸を戻せ」


 もちろん、何も起きなかった。


 火も出ない。


 水も動かない。


 傷も治らない。


 部屋の壁が少し寂しく見えるだけだった。



 それでも、トンヌラはやめなかった。


「全軍を支える補給者よ」


「最後の一口まで命を繋げ」


 腹が減っているのに、そう言った。


「音を支配する者よ」


「絶望の戦場に、生きて越える拍を鳴らせ」


 楽器も弾けないのに、そう言った。


「因果を縫う者よ」


「破れた世界の綻びを縫い止めろ」


 糸も針も持たずに、そう言った。


 恥ずかしい。


 今思えば、あまりにも恥ずかしい。


 だが、あの頃の自分には必要だった。


 何の役割もなく、家の奥に閉じこもっていた自分を、少しだけ生かすための言葉だった。


 自分はまだ終わっていない。


 まだ目覚めていないだけだ。


 いつか何者かになる。


 そう言い聞かせるための、子どもじみた呪文だった。



 トンヌラは縁側で空を見上げた。


 青い。


 何も起きない。


 あの部屋の朝と似ているようで、少し違う。


 ここには風がある。


 ぽめがいる。


 丘の下には街がある。


 ガルドがいる。

 コムギがいる。

 フィーがいる。

 ミラがいる。

 クラウスがいる。


 そして。


 あの頃、壁に向かって叫んでいた言葉が、いつの間にか誰かの中で形になっていた。



 ガルドは、全てを受ける守護者になった。


 コムギは、命を繋ぐ補給者になった。


 フィーは、命の波を整える調律者になった。


 ミラは、戦場に拍を鳴らす者になった。


 クラウスは、因果を縫う者になった。


 あれは偶然だったのか。


 誤解だったのか。


 それとも。


 あの頃の、自分を慰めるためだけの言葉が、誰かに出会って本物になったのか。


 今のトンヌラには、もう分からない。


 名を預かる力はない。


 世界へ何かを通す感覚もない。


 ただ、思い出だけが残っている。



(あの時も、俺は選ばなかった)


 外に出ることを。


 家族と向き合うことを。


 自分の人生を、自分で引き受けることを。


 選ばなかった。


 だが今なら、少しだけ分かる。


 選ばなかったのではない。


 選ばないことを、選び続けていた。


 何もしない。


 動かない。


 返事をしない。


 諦めた顔をする。


 自分には無理だと思う。


 そうすることで、今日を越えていた。



 山にこもったのも、逃げだった。


 修行という言葉で誤魔化した。


 強くなると言った。


 何者かになると言った。


 だが本当は、向き合わなくていい場所が欲しかっただけかもしれない。


 誰にも期待されず。


 誰にも責められず。


 一人でいられる場所。


 山は、静かだった。


 自分を必要としない静けさだった。



 ネームレスになったのも、偶然だと思っていた。


 仲間ができたのも、誤解だと思っていた。


 世界が動いたのも、自分ではないと思っていた。


 実際、そうなのかもしれない。


 ガルドが守った。

 コムギが支えた。

 フィーが命を繋いだ。

 ミラが音を鳴らした。

 クラウスが選んだ。


 自分は、立っていただけだ。


 名を呼んだだけだ。



 だが。


 立った。


 それだけは、確かだった。


 退かなかった日がある。


 分からないまま、前に出た日がある。


 怖いまま、嫌だと言った日がある。


 消えたくないと、声にした日がある。


 それも、選択だったのかもしれない。


 立派ではない。


 美しくもない。


 誰かに誇れるような覚悟でもない。


 ただ、嫌だと思った。


 それでも。


 あの頃の自分は、その「嫌だ」すら言えなかった。



 トンヌラは、自分の手を見る。


 普通の手だ。


 名を預かる力はない。


 世界へ何かを通す感覚もない。


 誰かの可能性へ触れる線も見えない。


 ただの手。


 水を汲み、薪を持ち、匙を握る手。


 それだけだ。


(俺は、また戻ったのか)


 あの部屋へ。


 何も選ばない日々へ。


 寝台の中で息を殺していた自分へ。


 そう思いかけて、首を振る。


 違う。


 戻ったわけではない。


 あの日々は、消えていないだけだ。



 ぽめが、小さく息を吐いた。


 まだ寝ている。


 トンヌラは、その丸い背中を見た。


「なあ」


 返事はない。


「俺は、家族に会いに行けると思うか」


 ぽめは寝ている。


 当たり前だ。


 答えるはずもない。


 それでも、言葉は出た。



 会いたいのか。


 謝りたいのか。


 生きていると伝えたいのか。


 それとも、許されたいだけなのか。


 自分でも分からない。


 ただ、いつか会わなければならない気がした。


 自分が本当に、自分の人生を選べたと思える時。


 扉の向こうに返事をしなかった日の自分を、ちゃんと連れていける時。


 その時まで。


 まだ、会いに行けない。



 それは逃げではない。


 そう言い切るには、まだ少し怖い。


 ただの先送りかもしれない。


 また、選ばないことを選んでいるだけかもしれない。


 だが。


 今は、違うと思いたかった。


 いつか会うために、今はまだ行かない。


 その言葉だけは、胸の奥で少しだけ形になった。



 トンヌラは立ち上がる。


 足取りは軽くない。


 体は少し重い。


 だが、止まってはいない。


 井戸へ向かう。


 水を汲む。


 桶を引き上げる。


 水面に、自分の顔が映る。


 疲れた顔だった。


 情けない顔だった。


 それでも、生きている顔だった。



「……飯でも作るか」


 呟く。


 うまく作れる気はしない。


 たぶん焦がす。


 たぶん味も薄い。


 だが、それでもいい。


 食べることは、生きていることだとコムギが言った。


 なら、今日は自分で作る。


 誰かが置いてくれた皿を、黙って受け取るだけではなく。


 自分で火を起こす。


 自分で水を入れる。


 自分で食べる。


 それも、たぶん選択だ。



 ぽめの耳が、ほんの少しだけ動いた。


 トンヌラは気づかない。


 台所へ向かう。


 薪を取り、鍋を置く。


 不完全な朝が始まる。



 ここはレイアノーティア。


 選ばなかった日々も、消えない。


 だが――。


 次に選ぶかどうかは、まだ残っている。



 第113話 了

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