第113話 不完全な朝へ
ここはレイアノーティア。
選ばないことも、ひとつの選択だ。
立ち止まること。
目を逸らすこと。
返事をしないこと。
今日ではなく、明日に回すこと。
それは何もしていないように見える。
だが。
何もしないことを選び続けた日々も、消えてなくなるわけではない。
⸻
朝。
トンヌラは縁側で目を覚ました。
昨夜、いつの間にか外で眠っていたらしい。
背中が少し痛い。
空は青い。
風は穏やかで、丘の下の街からは小さな生活音が届いてくる。
荷車の軋む音。
誰かが戸を開ける音。
遠くで子どもが笑う声。
何も予定はない。
急ぐ理由もない。
誰かに呼ばれているわけでもない。
トンヌラは、しばらく動かなかった。
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横では、ぽめが丸くなっている。
やはり眠っていた。
最近のぽめは、眠りが深い。
以前からよく寝る生き物ではあったが、今は少し違う。
底の見えない場所へ沈んでいるような眠り方だった。
「……お前も、起きる理由がないのか」
呟く。
ぽめは返事をしない。
耳も動かない。
ただ、丸い。
⸻
(昔も、こんな朝だったな)
ふと、思った。
冒険者になるよりも前。
山にこもるよりも前。
まだ、自分が何者でもないことを受け入れられなかった頃。
家の奥にある、小さな部屋。
厚い木戸。
閉め切った窓。
薄暗い天井。
外から聞こえる家族の声だけが、やけに大きく響く場所。
寝台の中で、目だけは覚めていた。
起きていた。
だが、起き上がらなかった。
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『……起きてる?』
母の声。
扉越しに聞こえる、柔らかい声。
優しい。
優しすぎる声。
それが、苦しかった。
トンヌラは返事をしなかった。
聞こえている。
起きている。
でも、返さない。
返したら、何かを始めなければならない気がした。
今日どうするのか。
明日はどうするのか。
これからどうするのか。
その問いが、扉の外で待っている気がした。
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何もしていなかった。
何もできなかった。
でも、何も考えていなかったわけではない。
(やらなきゃ)
何度も思った。
起きなきゃ。
外に出なきゃ。
働かなきゃ。
剣を覚えなきゃ。
魔法のひとつくらい使えなきゃ。
何者かにならなきゃ。
思うだけなら、いくらでもできた。
だが、体は動かなかった。
動かない理由を探した。
今日は体調が悪い。
明日からにする。
まだ準備ができていない。
今さら外に出ても笑われるだけだ。
理由を並べるたび、少しだけ楽になる。
そして、その分だけ疲れる。
⸻
『今日は、どうするんだ』
父の声。
怒鳴ってはいなかった。
ただ、困っている声だった。
その方が、つらかった。
怒られた方が、まだ反発できたかもしれない。
だが、困られると何も言えない。
自分が、誰かの生活に重く乗っていることを知ってしまうからだ。
⸻
泣いていたのは、家族だけではなかった。
寝台の中で、トンヌラも泣いていた。
声は出さない。
顔も見せない。
ただ、布をかぶって息を殺して、泣いていた。
(俺は必要ない)
何度も思った。
世界は回る。
自分がいなくても困らない。
誰かの役に立つわけでもない。
何かを成し遂げるわけでもない。
いても、いなくても変わらない。
それなのに、食事だけは出てくる。
⸻
『置いておくね』
扉の前に、木皿の音。
麦粥の匂い。
豆のスープ。
少し硬い黒パン。
焼いた根菜。
温かい匂いが、扉の下から入ってくる。
何も返せなかった。
ありがとうも。
ごめんも。
いただきますも。
何ひとつ、言えなかった。
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今でも覚えている。
皿が冷めていく匂い。
手を伸ばすまでの時間。
誰もいなくなった廊下。
静かに扉を開ける自分。
食べる。
腹は減っていた。
だから食べた。
食べながら、泣きそうになった。
生きることだけは、やめられなかった。
⸻
そういう日々の中で、トンヌラは少しずつ、妙な言葉を覚えていった。
誰かから教わったわけではない。
本で読んだ英雄譚。
旅芸人の語る伝説。
酒場から漏れてくる冒険者の自慢話。
そういうものを、部屋の奥で勝手につなぎ合わせた。
本当は、まだ真の力に目覚めていないだけだ。
今は役割がないのではない。
封じられているだけだ。
修行が足りないのかもしれない。
あるいは、自分は本当は魔法に愛された存在で、火も水も風も土も、まだ眠っているだけなのかもしれない。
全てを受け止める。
全ての人を支える。
全てを癒やす。
全てを響かせる。
全ての因果を、いつかこの手で操る。
そんなことを、誰にも聞こえない部屋の中で考えていた。
⸻
最初は、ただの慰めだった。
何者でもない自分を、少しでも何者かに見せるための言葉。
だが、言葉はだんだん大きくなった。
壁に向かって立ち上がる。
誰もいない部屋で、意味もなく腕を組む。
そして、声を潜めて叫ぶ。
「全てを受ける、戦場守護者よ」
壁は何も答えない。
それでも続ける。
「崩れぬ盾で、前線を固定せよ」
また別の日には、手をかざして言った。
「生命調律者よ」
「乱れた命の波を整え、死の淵から呼吸を戻せ」
もちろん、何も起きなかった。
火も出ない。
水も動かない。
傷も治らない。
部屋の壁が少し寂しく見えるだけだった。
⸻
それでも、トンヌラはやめなかった。
「全軍を支える補給者よ」
「最後の一口まで命を繋げ」
腹が減っているのに、そう言った。
「音を支配する者よ」
「絶望の戦場に、生きて越える拍を鳴らせ」
楽器も弾けないのに、そう言った。
「因果を縫う者よ」
「破れた世界の綻びを縫い止めろ」
糸も針も持たずに、そう言った。
恥ずかしい。
今思えば、あまりにも恥ずかしい。
だが、あの頃の自分には必要だった。
何の役割もなく、家の奥に閉じこもっていた自分を、少しだけ生かすための言葉だった。
自分はまだ終わっていない。
まだ目覚めていないだけだ。
いつか何者かになる。
そう言い聞かせるための、子どもじみた呪文だった。
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トンヌラは縁側で空を見上げた。
青い。
何も起きない。
あの部屋の朝と似ているようで、少し違う。
ここには風がある。
ぽめがいる。
丘の下には街がある。
ガルドがいる。
コムギがいる。
フィーがいる。
ミラがいる。
クラウスがいる。
そして。
あの頃、壁に向かって叫んでいた言葉が、いつの間にか誰かの中で形になっていた。
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ガルドは、全てを受ける守護者になった。
コムギは、命を繋ぐ補給者になった。
フィーは、命の波を整える調律者になった。
ミラは、戦場に拍を鳴らす者になった。
クラウスは、因果を縫う者になった。
あれは偶然だったのか。
誤解だったのか。
それとも。
あの頃の、自分を慰めるためだけの言葉が、誰かに出会って本物になったのか。
今のトンヌラには、もう分からない。
名を預かる力はない。
世界へ何かを通す感覚もない。
ただ、思い出だけが残っている。
⸻
(あの時も、俺は選ばなかった)
外に出ることを。
家族と向き合うことを。
自分の人生を、自分で引き受けることを。
選ばなかった。
だが今なら、少しだけ分かる。
選ばなかったのではない。
選ばないことを、選び続けていた。
何もしない。
動かない。
返事をしない。
諦めた顔をする。
自分には無理だと思う。
そうすることで、今日を越えていた。
⸻
山にこもったのも、逃げだった。
修行という言葉で誤魔化した。
強くなると言った。
何者かになると言った。
だが本当は、向き合わなくていい場所が欲しかっただけかもしれない。
誰にも期待されず。
誰にも責められず。
一人でいられる場所。
山は、静かだった。
自分を必要としない静けさだった。
⸻
ネームレスになったのも、偶然だと思っていた。
仲間ができたのも、誤解だと思っていた。
世界が動いたのも、自分ではないと思っていた。
実際、そうなのかもしれない。
ガルドが守った。
コムギが支えた。
フィーが命を繋いだ。
ミラが音を鳴らした。
クラウスが選んだ。
自分は、立っていただけだ。
名を呼んだだけだ。
⸻
だが。
立った。
それだけは、確かだった。
退かなかった日がある。
分からないまま、前に出た日がある。
怖いまま、嫌だと言った日がある。
消えたくないと、声にした日がある。
それも、選択だったのかもしれない。
立派ではない。
美しくもない。
誰かに誇れるような覚悟でもない。
ただ、嫌だと思った。
それでも。
あの頃の自分は、その「嫌だ」すら言えなかった。
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トンヌラは、自分の手を見る。
普通の手だ。
名を預かる力はない。
世界へ何かを通す感覚もない。
誰かの可能性へ触れる線も見えない。
ただの手。
水を汲み、薪を持ち、匙を握る手。
それだけだ。
(俺は、また戻ったのか)
あの部屋へ。
何も選ばない日々へ。
寝台の中で息を殺していた自分へ。
そう思いかけて、首を振る。
違う。
戻ったわけではない。
あの日々は、消えていないだけだ。
⸻
ぽめが、小さく息を吐いた。
まだ寝ている。
トンヌラは、その丸い背中を見た。
「なあ」
返事はない。
「俺は、家族に会いに行けると思うか」
ぽめは寝ている。
当たり前だ。
答えるはずもない。
それでも、言葉は出た。
⸻
会いたいのか。
謝りたいのか。
生きていると伝えたいのか。
それとも、許されたいだけなのか。
自分でも分からない。
ただ、いつか会わなければならない気がした。
自分が本当に、自分の人生を選べたと思える時。
扉の向こうに返事をしなかった日の自分を、ちゃんと連れていける時。
その時まで。
まだ、会いに行けない。
⸻
それは逃げではない。
そう言い切るには、まだ少し怖い。
ただの先送りかもしれない。
また、選ばないことを選んでいるだけかもしれない。
だが。
今は、違うと思いたかった。
いつか会うために、今はまだ行かない。
その言葉だけは、胸の奥で少しだけ形になった。
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トンヌラは立ち上がる。
足取りは軽くない。
体は少し重い。
だが、止まってはいない。
井戸へ向かう。
水を汲む。
桶を引き上げる。
水面に、自分の顔が映る。
疲れた顔だった。
情けない顔だった。
それでも、生きている顔だった。
⸻
「……飯でも作るか」
呟く。
うまく作れる気はしない。
たぶん焦がす。
たぶん味も薄い。
だが、それでもいい。
食べることは、生きていることだとコムギが言った。
なら、今日は自分で作る。
誰かが置いてくれた皿を、黙って受け取るだけではなく。
自分で火を起こす。
自分で水を入れる。
自分で食べる。
それも、たぶん選択だ。
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ぽめの耳が、ほんの少しだけ動いた。
トンヌラは気づかない。
台所へ向かう。
薪を取り、鍋を置く。
不完全な朝が始まる。
⸻
ここはレイアノーティア。
選ばなかった日々も、消えない。
だが――。
次に選ぶかどうかは、まだ残っている。
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第113話 了




