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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第11章 役割のない静寂

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112/124

第112話 縫えない糸

 ここはレイアノーティア。

 見えることは、救いではない。


 糸が見える。

 流れが見える。

 綻びが見える。


 だからこそ、分かってしまう。


 縫う場所がない世界では、手を伸ばすことすら許されない。



 丘の下の森。


 クラウスは、木陰に立っていた。


 姿は見せない。


 見つかってはいけない。


 ディボイドに一本の揺らぎを通したのは、自分だ。

 虚無へ大縫合グランドステッチを刻んだのも、自分だ。


 調停機構から見れば、それは明確な干渉記録だった。


 そして、統戒の魔王ドミニオンがトンヌラから《ネームレス》を奪った今、次に観測されるべき異常は誰か。


 考えるまでもない。


 クラウス自身だ。



 森の奥から、街を見る。


 アンタイトルは、穏やかだった。


 人は歩いている。

 荷車も通っている。

 子どもが走り、店の前で女たちが話している。


 魔物の気配は薄い。


 争いの気配も薄い。


 復興は進んでいる。


 平和だ。


 そのはずだった。



 クラウスは目を細める。


 糸が見える。


 世界の因果の糸。


 人の歩み。

 物の流れ。

 偶然の衝突。

 危機の芽。

 選択の分岐。


 それらは以前よりも、ずっと整っていた。


 薄く、滑らかに、無駄なく流れている。


 綻びが少ない。


 揺らぎが少ない。


 誰かがつまずく前に、道が整えられている。

 誰かが怒る前に、言葉が柔らかくなる。

 誰かが危機へ踏み出す前に、別の用事が差し込まれる。


 事故は小さくなる。


 衝突は浅くなる。


 失敗は、失敗になる前に薄められる。



(……調整が進んでいる)


 クラウスは息を潜める。


 魔物の発生確率。

 人の衝突。

 偶然の事故。

 小さな決断。

 後悔へ繋がるはずだった選択。


 すべてが、きれいに処理されている。


 歪みは、小さいうちに消える。


 綻びは、裂ける前に塞がれる。


 世界は壊れない。


 だが。


 縫う必要もなくなっていく。



 クラウスは指を伸ばした。


 目の前にある細い糸。


 道端で転びかける子どもと、それに気づく青年の糸。


 以前なら、少しずれれば怪我に繋がった。

 誰かが手を伸ばし、誰かが礼を言い、そこから小さな関係が生まれたかもしれない。


 今は違う。


 子どもは転ばない。


 青年も気づかない。


 小石が偶然、子どもの足元から外れている。


 危機は起きない。


 出会いも起きない。


 糸は、滑らかに流れていく。


 クラウスは触れようとして――やめた。


 縫えば、気づかれる。


 調停機構は縫い跡を見る。


 とくに今の自分の糸は、以前よりも目立つ。


 選択者として一度、世界へ傷をつけた。


 その痕跡は、もう消せない。



 今は、生き延びることが優先だった。


 そして、見ること。


 何が起きているのか。


 どこが削られているのか。


 誰がまだ選べるのか。


 それを見なければならない。


 観測者ではない。


 だが、見ないわけにはいかない。



 クラウスは視線を、丘の上へ向ける。


 古びた家。


 煙は出ていない。


 窓は少し開いている。


 縁側に、トンヌラが座っていた。


 何をするでもない。


 腕も組んでいない。


 ただ、ぼんやりと街を見下ろしている。


 その横で、ぽめが丸くなっていた。


 相変わらず眠っている。


 深く。


 静かに。



 クラウスは、トンヌラの周囲の糸を見た。


 何もない。


 いや、正確にはある。


 生活の糸はある。


 水を汲む。

 眠る。

 食べる。

 誰かの訪問を受ける。

 また眠る。


 ただの生活線。


 細く、淡く、どこにでもあるような人の流れ。


 以前は違った。


 トンヌラの周囲には、空白の糸があった。


 見えないのに、確かにそこにある中心。


 意味を引き寄せ、名を預かり、仲間たちの可能性へ触れる、不可思議な空白。


 誤差の核。


 世界が見落とす中心。


 今は、ない。


 ただの人間の輪郭だけが、そこにある。



(団長……)


 胸が痛む。


 トンヌラは生きている。


 怪我もしていない。


 街も残っている。


 仲間もいる。


 だが、確かに何かがない。


 あの男の周囲にあった、世界を少しだけ困らせる余白が消えている。


 クラウスは拳を握った。


 見える。


 だからこそ、残酷だった。



 夕方。


 クラウスは姿を現した。


 森の影から、ゆっくりと丘へ上がる。


 近づきすぎない。


 だが、逃げるほど遠くもない。


 縁側のトンヌラが、顔を上げた。


「……久しぶりだな」


「ええ」


 クラウスは静かに答える。


「少し、間が空きました」


「隠れてたのか」


「はい」


「正直だな」


「今さら取り繕っても、意味がありませんから」


 トンヌラは少しだけ笑った。


 乾いた笑いだった。



「糸は?」


 トンヌラが聞く。


 冗談のように。


 だが、その声は軽くない。


 クラウスは答えなかった。


 答えれば、傷つける。


 答えなくても、伝わる。


 トンヌラは、自分の手を見た。


「俺は何もできない」


 静かに言う。


「元々何もしてなかったがな」


 笑う。


 やはり、乾いた笑いだった。



「あなたは、何もしていないわけではありません」


 クラウスは即座に返した。


 自分でも驚くほど、声が強く出た。


 トンヌラは少しだけ目を細める。


「お前たちが勝手にやってくれただけだ」


「違います」


「違わないだろ」


「違います」


 クラウスは、もう一度言った。


「少なくとも、私にとっては」



 風が吹く。


 丘の草が揺れる。


 ぽめが寝返りを打つ。


「……すぴ」


 緊張感のない寝息だった。


 それでも、クラウスはその音に少しだけ救われた。



「私は」


 クラウスは言葉を探す。


 いつものように整った文ではない。


 論理的でもない。


 ただ、胸の奥に残っているものを出すしかなかった。


「あなたに並びたいと、思ったのです」


 ぽつりと。


 トンヌラは黙る。


「私は、ずっと見ていました」


 クラウスは続ける。


「理解して、整理して、必要な場所だけを縫う。それが自分の役割だと思っていました」


 路地裏の子どもの影が、脳裏をよぎる。


「観測に至れば、痛みは遠くなる。そう思っていました」


 喉が渇く。


「でも、あなたは理解していないのに、選んでいた」


 トンヌラの眉が動く。


「褒めてるのか、それ」


「分かりません」


「分からないのか」


「はい」


 クラウスは少しだけ笑う。


「ですが、羨ましかったのだと思います」



 トンヌラは空を見る。


「並んでただろ」


「違います」


 クラウスは強く否定した。


「私は、あなたの隣にいたつもりで、少し後ろから見ていました」


 言葉にすると、痛みが増した。


「理解しているだけでした」


「あなたは、選んでいた」



 沈黙が落ちる。


 遠くで、街の鐘が鳴った。


 夕方を告げる音。


 穏やかな音だった。


 世界は、今日もきれいに整っている。



「こんな結末を、望んだわけではない」


 クラウスは小さく言うが、声が震えていた。


「あなたから名が奪われることを、望んだわけではありません」


 トンヌラは何も言わない。


「ディボイドに一本の糸を通した時、私は選んだつもりでした」


 指先を見る。


 あの時の血はもう乾いている。


 傷も塞がっている。


 だが、感覚は残っている。


「でも、その結果がこれなら」


 クラウスは拳を握る。


「……なんとかしたい」



 トンヌラは、少しだけ息を吐いた。


「何とかしなくていい」


 その言葉は、軽くなかった。


 重かった。


 クラウスの胸に、ずしりと落ちる。


「俺は生きてる」


 トンヌラは言う。


「街も残ってる」


「仲間もいる」


「それで十分だろ」


 そう言っている声が、少しも十分そうではない。


 だから余計に痛かった。



「生き延びろ」


 トンヌラは続けた。


「お前が消えたら困る」


 クラウスは目を伏せる。


(消えたのは、あなたの方だ)


 声には出せなかった。


 トンヌラはそこにいる。


 生きている。


 だが、あの中心はもうない。


 その喪失を、本人だけが一番軽く扱おうとしている。


 それが、耐えがたかった。



 クラウスは、もう一度糸を見る。


 丘の下の街。


 整っている。


 魔物の流れは穏やかだ。


 事故の芽は小さい。


 人々の選択も、滑らかに流れている。


 勇者の軌跡も、きれいに収まっている。


 世界は安定している。


 何も起きない。


 何も選ばれない。


 大きな後悔も生まれない。


 大きな覚悟も生まれない。



(このままでは)


 クラウスは歯を食いしばる。


 世界は静かになる。


 あまりにも静かに。


 傷も、衝突も、無茶も、救いも。


 すべてが起きる前に均されていく。


 縫う場所がなくなる。


 選ぶ余地がなくなる。


 そして誰も、それに気づかない。



「団長」


 クラウスは言った。


「団長ではない」


「……トンヌラさん」


「なんだ」


「まだ、終わっていません」


 また声が少しだけ震えていた。


 トンヌラは答えない。


 空を見る。


 夕焼けが、丘の上を薄く染めている。


「そうか」


 しばらくして、トンヌラはそう言った。


 肯定ではない。


 否定でもない。


 ただ、言葉を受け取っただけの声だった。



 クラウスは踵を返す。


 森へ向かって歩き出す。


「どこへ行く」


 トンヌラが聞いた。


「見に行きます」


「何を」


「縫えない場所を」


 クラウスは振り返らない。


「縫えないからこそ、見なければならない」


 そう言って、森の影へ消えていく。



 縫えない。


 だが、見える。


 見えてしまう。


 それは救いではない。


 それでも、目を逸らせば、また観測者へ戻る。


 クラウスはもう、そこへ戻りたくなかった。



 丘の上。


 トンヌラは縁側に座ったまま、森の方を見ている。


 ぽめは眠っている。


 だが、その耳だけが、ほんの少し動いた。



 ここはレイアノーティア。


 整いすぎた世界は、


 揺らぎを許さない。



 第112話 了

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