第111話 うまくいきすぎている
ここはレイアノーティア。
傷が減ることは、祝福のはずだ。
泣く人がいない。
血を流す人がいない。
命の縁で震える人がいない。
それは、きっと良い世界だ。
けれど。
命を見続けてきた者だけが知っている。
生きているものは、本来もっと揺れる。
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冒険者ギルドの診療室は、静かだった。
白い布。
整えられた薬棚。
使われない包帯。
火の落ちた湯沸かし。
フィーは、たたみ終えた包帯を棚へ戻した。
手は止まらない。
けれど、心だけがどこかで立ち止まっている。
「……今日も、いませんね」
小さく呟く。
受付の女性が、書類をまとめながら笑った。
「いいことじゃない。最近、本当に平和よね」
「はい」
フィーは頷く。
それは間違いない。
大怪我をした冒険者はいない。
魔物に腹を裂かれた者もいない。
毒に苦しむ子どももいない。
死の手前で呼吸を失いかけている人もいない。
傷つく人がいないことは、喜ぶべきことだ。
そう分かっている。
それでも。
フィーは棚に置いた包帯を、もう一度見た。
使われていない包帯。
それが、妙に白すぎる。
⸻
昼前に、怪我人が一人だけ来た。
荷車から落ちた青年だった。
腕に擦り傷。
膝に打撲。
肩に軽い捻り。
フィーは椅子へ座らせ、状態を見る。
命の流れは乱れていない。
痛みはある。
だが、深くない。
「大丈夫です。骨は折れていません」
「よかった」
青年は安堵したように笑う。
「落ちた時、やばいと思ったんですけど」
「受け身が取れたんですね」
「いや、偶然です。変なふうに転がったら、たまたま荷袋が下にあって」
「そうですか」
フィーは手当てをしながら、青年の肩へそっと触れる。
命の波は、驚くほど整っていた。
怪我をした直後なら、もっと乱れていていいはずだった。
恐怖。
痛み。
驚き。
後から来る震え。
そういうものが、少しだけ薄い。
薄すぎる。
⸻
青年が帰ったあと、フィーは診療記録を見返した。
擦り傷。
打撲。
軽い捻挫。
火傷。
軽度の脱水。
疲労。
どれも軽い。
どれも命に関わらない。
それは良いことだ。
良いことのはずなのに、紙の上に並んだ文字は、あまりにも均一だった。
「……多すぎる」
フィーは呟いた。
受付の女性が振り返る。
「怪我人が?」
「違います」
フィーは記録を指先でなぞる。
「軽傷ばかりなんです」
「それって、いいことじゃない?」
「はい」
フィーは頷く。
「でも、軽すぎます」
擦り傷。
打撲。
かすり傷。
絶妙に、命へ届かない。
深くならない。
崩れない。
ぎりぎりで止まっている。
⸻
以前なら、違った。
誰かは重傷だった。
誰かは死にかけた。
誰かは泣きながら、誰かの手を握っていた。
フィーはその命の縁へ触れた。
怖かった。
苦しかった。
救えない日もあった。
それでも、その揺れの中に命があった。
今は違う。
命の縁に触れる前に、すべてが止まっている。
傷つききる前に、事故が小さく収まる。
泣き崩れる前に、誰かが支える。
折れる前に、折れない形へ収まっている。
まるで、命が大きく揺れることを許されていないように。
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夕方。
フィーは市場を歩いた。
人は多い。
店も開いている。
果物の山。
野菜の箱。
魚の匂い。
干し肉の吊るされた軒先。
平和な市場だった。
子どもが走る。
転びそうになる。
フィーは思わず手を伸ばした。
だが、子どもは転ばなかった。
足元の小石が、ちょうど横へ転がり、子どもの足は地面を踏み直す。
母親が笑う。
「危ないわよ」
「はーい!」
子どもは走っていく。
フィーは、伸ばした手をゆっくり下ろした。
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少し先で、男たちが言い争っていた。
荷の順番。
代金の行き違い。
商売の小さな衝突。
声は荒くなりかけた。
片方が肩を押しそうになる。
だが、近くの店主が間に入り、二人は舌打ちだけで離れた。
喧嘩にはならない。
怪我人も出ない。
さらに先では、馬車が人にぶつかりそうになった。
馬が一瞬だけ暴れる。
だが、車輪が窪みに引っかかり、速度が落ちる。
すれ違う。
誰も倒れない。
誰も怪我をしない。
よかった。
そう思うべきだった。
フィーは足を止める。
胸の奥が、ざわついていた。
⸻
偶然。
偶然だ。
一つ一つなら、そう言える。
けれど、それが続きすぎている。
完璧に、危機の手前で止まる。
世界が、誰かの怪我を恐れているように。
あるいは。
怪我になる前に、可能性ごと薄くしているように。
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夜。
丘の上の家。
古びた空き家の窓から、薄い灯りが漏れている。
フィーは少し迷ってから、扉を叩いた。
「団長」
返事は少し遅れた。
「団長ではない」
扉が開く。
トンヌラが顔を出した。
以前より痩せたように見える。
実際にはそれほど変わっていないのかもしれない。
けれど、存在の圧が薄い。
そこにいるのに、どこか遠い。
「フィーか」
「少し、いいですか?」
「好きにしろ」
中へ入る。
ぽめは床の上で丸くなっていた。
深く眠っている。
呼吸は穏やかだ。
だが、やはり深い。
深すぎる。
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トンヌラは縁側へ出た。
フィーも隣に座る。
丘の下には、アンタイトルの街灯りが広がっていた。
以前より整っている。
静かで、穏やかで、きれいだった。
「今日は?」
フィーが聞く。
「なにも」
いつもの答え。
トンヌラは空を見たまま言う。
「水を汲んで、火を起こして、少し食った。あとはぽめを見ていた」
「ぽめさん、起きました?」
「少しだけ耳が動いた」
「そうですか」
会話が途切れる。
風が吹く。
心地よい風だった。
それもまた、少しだけ整いすぎているように感じた。
⸻
「団長」
「団長ではない」
「……トンヌラさん」
「なんだ」
フィーは街を見る。
「最近、変だと思いませんか?」
「俺がか?」
「違います」
すぐに否定した。
「世界が」
トンヌラは黙る。
フィーは言葉を探す。
「怪我人が、いないんです」
「いいことだろ」
「はい」
そこは否定できない。
「でも」
フィーは自分の手を見る。
「命が、削られる手前で止まっている感じがするんです」
トンヌラは、フィーの方を見た。
「削られる?」
「うまく言えません」
フィーは目を閉じる。
「以前は、もっと揺れていました」
怪我。
恐怖。
後悔。
命の波。
人は危なっかしくて、無茶をして、間違えて、傷ついて。
でも、そのたびに誰かが手を伸ばした。
「誰かが無茶をして、誰かが泣いて、誰かが救われて」
フィーは続ける。
「今は、無茶する前に止まるんです」
「成長したんじゃないか?」
トンヌラが言う。
「違います」
フィーは即答した。
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「成長って、もっと揺れます」
⸻
風が止まる。
遠くで鳥が飛んでいた。
少し高度を落とす。
落ちそうになる。
けれど、羽ばたき直して落ちない。
フィーはその鳥を見ていた。
偶然のように。
でも、あまりに綺麗に。
「うまくいきすぎてる」
小さく言う。
それは、生命調律者の勘だった。
命は、そんなに整わない。
人は、そんなに都合よく傷つかずにいられない。
傷つくことが良いとは思わない。
痛みなんて、ない方がいい。
でも、すべての痛みが起きる前に均されている世界は、どこか命の厚みまで薄くなっている気がした。
⸻
トンヌラは何も言わなかった。
ただ、ぽめを見る。
ぽめは寝ている。
深く。
静かに。
まるで、世界の底に沈んでいるみたいに。
⸻
「トンヌラさん」
フィーは声を震わせた。
「このままだと、私は」
言葉が詰まる。
胸の奥で、ずっと言えなかった問いが形になる。
「何も守らなくてよくなります」
それは願っていた未来のはずだった。
誰も傷つかない。
誰も死にかけない。
誰も泣きながら命を握りしめない。
そんな世界が来るなら、どれほどいいかと思っていた。
なのに、怖い。
「それは……望んでいた未来のはずなのに」
フィーは手を見つめる。
この手は、命の縁に触れるためにあった。
終わりに向かう命へ、まだだと言うためにあった。
でも、触れるべき命の縁が消えていくなら。
この手は、何になるのか。
⸻
「もし」
フィーは小さく言う。
「もう誰も傷つかない世界になったら」
喉が震える。
「私は、何になりますか」
問いは、トンヌラへ向けたものだった。
だが、答えを期待していたわけではない。
今のトンヌラに、答えがあるとは思っていなかった。
それでも、聞かずにいられなかった。
⸻
トンヌラは、ゆっくり立ち上がった。
空を見上げる。
街の灯りが、下で静かに揺れている。
しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく呟く。
「世の中から怪我がなくなったら、どうなるんだろうな」
フィーは答えられない。
トンヌラも、答えを持っていない。
ただ、問いだけがそこに残る。
⸻
ほんの一瞬。
丘の上の家の窓に、紫が映った。
気のせいかもしれない。
夕暮れの名残かもしれない。
街灯りの反射かもしれない。
フィーは気づかなかった。
トンヌラも気づかなかった。
ぽめの耳だけが、わずかに動いた。
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フィーは街を見下ろす。
穏やかな灯り。
静かな道。
怪我人のいない夜。
たしかに平和だ。
たしかに祝福だ。
でも。
命は、本当にそれでいいのだろうか。
揺れない命は、生きていると言えるのだろうか。
⸻
ここはレイアノーティア。
平和は祝福。
だが。
揺れない命は、本当に生きているのか。
⸻
第111話 了




