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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第11章 役割のない静寂

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111/123

第111話 うまくいきすぎている

 ここはレイアノーティア。

 傷が減ることは、祝福のはずだ。


 泣く人がいない。

 血を流す人がいない。

 命の縁で震える人がいない。


 それは、きっと良い世界だ。


 けれど。


 命を見続けてきた者だけが知っている。


 生きているものは、本来もっと揺れる。



 冒険者ギルドの診療室は、静かだった。


 白い布。

 整えられた薬棚。

 使われない包帯。

 火の落ちた湯沸かし。


 フィーは、たたみ終えた包帯を棚へ戻した。


 手は止まらない。


 けれど、心だけがどこかで立ち止まっている。


「……今日も、いませんね」


 小さく呟く。


 受付の女性が、書類をまとめながら笑った。


「いいことじゃない。最近、本当に平和よね」


「はい」


 フィーは頷く。


 それは間違いない。


 大怪我をした冒険者はいない。

 魔物に腹を裂かれた者もいない。

 毒に苦しむ子どももいない。

 死の手前で呼吸を失いかけている人もいない。


 傷つく人がいないことは、喜ぶべきことだ。


 そう分かっている。


 それでも。


 フィーは棚に置いた包帯を、もう一度見た。


 使われていない包帯。


 それが、妙に白すぎる。



 昼前に、怪我人が一人だけ来た。


 荷車から落ちた青年だった。


 腕に擦り傷。

 膝に打撲。

 肩に軽い捻り。


 フィーは椅子へ座らせ、状態を見る。


 命の流れは乱れていない。


 痛みはある。


 だが、深くない。


「大丈夫です。骨は折れていません」


「よかった」


 青年は安堵したように笑う。


「落ちた時、やばいと思ったんですけど」


「受け身が取れたんですね」


「いや、偶然です。変なふうに転がったら、たまたま荷袋が下にあって」


「そうですか」


 フィーは手当てをしながら、青年の肩へそっと触れる。


 命の波は、驚くほど整っていた。


 怪我をした直後なら、もっと乱れていていいはずだった。


 恐怖。

 痛み。

 驚き。

 後から来る震え。


 そういうものが、少しだけ薄い。


 薄すぎる。



 青年が帰ったあと、フィーは診療記録を見返した。


 擦り傷。

 打撲。

 軽い捻挫。

 火傷。

 軽度の脱水。

 疲労。


 どれも軽い。


 どれも命に関わらない。


 それは良いことだ。


 良いことのはずなのに、紙の上に並んだ文字は、あまりにも均一だった。


「……多すぎる」


 フィーは呟いた。


 受付の女性が振り返る。


「怪我人が?」


「違います」


 フィーは記録を指先でなぞる。


「軽傷ばかりなんです」


「それって、いいことじゃない?」


「はい」


 フィーは頷く。


「でも、軽すぎます」


 擦り傷。

 打撲。

 かすり傷。


 絶妙に、命へ届かない。


 深くならない。


 崩れない。


 ぎりぎりで止まっている。



 以前なら、違った。


 誰かは重傷だった。


 誰かは死にかけた。


 誰かは泣きながら、誰かの手を握っていた。


 フィーはその命の縁へ触れた。


 怖かった。


 苦しかった。


 救えない日もあった。


 それでも、その揺れの中に命があった。


 今は違う。


 命の縁に触れる前に、すべてが止まっている。


 傷つききる前に、事故が小さく収まる。


 泣き崩れる前に、誰かが支える。


 折れる前に、折れない形へ収まっている。


 まるで、命が大きく揺れることを許されていないように。



 夕方。


 フィーは市場を歩いた。


 人は多い。


 店も開いている。


 果物の山。

 野菜の箱。

 魚の匂い。

 干し肉の吊るされた軒先。


 平和な市場だった。


 子どもが走る。


 転びそうになる。


 フィーは思わず手を伸ばした。


 だが、子どもは転ばなかった。


 足元の小石が、ちょうど横へ転がり、子どもの足は地面を踏み直す。


 母親が笑う。


「危ないわよ」


「はーい!」


 子どもは走っていく。


 フィーは、伸ばした手をゆっくり下ろした。



 少し先で、男たちが言い争っていた。


 荷の順番。

 代金の行き違い。

 商売の小さな衝突。


 声は荒くなりかけた。


 片方が肩を押しそうになる。


 だが、近くの店主が間に入り、二人は舌打ちだけで離れた。


 喧嘩にはならない。


 怪我人も出ない。


 さらに先では、馬車が人にぶつかりそうになった。


 馬が一瞬だけ暴れる。


 だが、車輪が窪みに引っかかり、速度が落ちる。


 すれ違う。


 誰も倒れない。


 誰も怪我をしない。


 よかった。


 そう思うべきだった。


 フィーは足を止める。


 胸の奥が、ざわついていた。



 偶然。


 偶然だ。


 一つ一つなら、そう言える。


 けれど、それが続きすぎている。


 完璧に、危機の手前で止まる。


 世界が、誰かの怪我を恐れているように。


 あるいは。


 怪我になる前に、可能性ごと薄くしているように。



 夜。


 丘の上の家。


 古びた空き家の窓から、薄い灯りが漏れている。


 フィーは少し迷ってから、扉を叩いた。


「団長」


 返事は少し遅れた。


「団長ではない」


 扉が開く。


 トンヌラが顔を出した。


 以前より痩せたように見える。


 実際にはそれほど変わっていないのかもしれない。


 けれど、存在の圧が薄い。


 そこにいるのに、どこか遠い。


「フィーか」


「少し、いいですか?」


「好きにしろ」


 中へ入る。


 ぽめは床の上で丸くなっていた。


 深く眠っている。


 呼吸は穏やかだ。


 だが、やはり深い。


 深すぎる。



 トンヌラは縁側へ出た。


 フィーも隣に座る。


 丘の下には、アンタイトルの街灯りが広がっていた。


 以前より整っている。


 静かで、穏やかで、きれいだった。


「今日は?」


 フィーが聞く。


「なにも」


 いつもの答え。


 トンヌラは空を見たまま言う。


「水を汲んで、火を起こして、少し食った。あとはぽめを見ていた」


「ぽめさん、起きました?」


「少しだけ耳が動いた」


「そうですか」


 会話が途切れる。


 風が吹く。


 心地よい風だった。


 それもまた、少しだけ整いすぎているように感じた。



「団長」


「団長ではない」


「……トンヌラさん」


「なんだ」


 フィーは街を見る。


「最近、変だと思いませんか?」


「俺がか?」


「違います」


 すぐに否定した。


「世界が」


 トンヌラは黙る。


 フィーは言葉を探す。


「怪我人が、いないんです」


「いいことだろ」


「はい」


 そこは否定できない。


「でも」


 フィーは自分の手を見る。


「命が、削られる手前で止まっている感じがするんです」


 トンヌラは、フィーの方を見た。


「削られる?」


「うまく言えません」


 フィーは目を閉じる。


「以前は、もっと揺れていました」


 怪我。

 恐怖。

 後悔。

 命の波。


 人は危なっかしくて、無茶をして、間違えて、傷ついて。


 でも、そのたびに誰かが手を伸ばした。


「誰かが無茶をして、誰かが泣いて、誰かが救われて」


 フィーは続ける。


「今は、無茶する前に止まるんです」


「成長したんじゃないか?」


 トンヌラが言う。


「違います」


 フィーは即答した。


 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。


「成長って、もっと揺れます」



 風が止まる。


 遠くで鳥が飛んでいた。


 少し高度を落とす。


 落ちそうになる。


 けれど、羽ばたき直して落ちない。


 フィーはその鳥を見ていた。


 偶然のように。


 でも、あまりに綺麗に。


「うまくいきすぎてる」


 小さく言う。


 それは、生命調律者バイオチューナーの勘だった。


 命は、そんなに整わない。


 人は、そんなに都合よく傷つかずにいられない。


 傷つくことが良いとは思わない。


 痛みなんて、ない方がいい。


 でも、すべての痛みが起きる前に均されている世界は、どこか命の厚みまで薄くなっている気がした。



 トンヌラは何も言わなかった。


 ただ、ぽめを見る。


 ぽめは寝ている。


 深く。


 静かに。


 まるで、世界の底に沈んでいるみたいに。



「トンヌラさん」


 フィーは声を震わせた。


「このままだと、私は」


 言葉が詰まる。


 胸の奥で、ずっと言えなかった問いが形になる。


「何も守らなくてよくなります」


 それは願っていた未来のはずだった。


 誰も傷つかない。


 誰も死にかけない。


 誰も泣きながら命を握りしめない。


 そんな世界が来るなら、どれほどいいかと思っていた。


 なのに、怖い。


「それは……望んでいた未来のはずなのに」


 フィーは手を見つめる。


 この手は、命の縁に触れるためにあった。


 終わりに向かう命へ、まだだと言うためにあった。


 でも、触れるべき命の縁が消えていくなら。


 この手は、何になるのか。



「もし」


 フィーは小さく言う。


「もう誰も傷つかない世界になったら」


 喉が震える。


「私は、何になりますか」


 問いは、トンヌラへ向けたものだった。


 だが、答えを期待していたわけではない。


 今のトンヌラに、答えがあるとは思っていなかった。


 それでも、聞かずにいられなかった。



 トンヌラは、ゆっくり立ち上がった。


 空を見上げる。


 街の灯りが、下で静かに揺れている。


 しばらく何も言わなかった。


 やがて、小さく呟く。


「世の中から怪我がなくなったら、どうなるんだろうな」


 フィーは答えられない。


 トンヌラも、答えを持っていない。


 ただ、問いだけがそこに残る。



 ほんの一瞬。


 丘の上の家の窓に、紫が映った。


 気のせいかもしれない。


 夕暮れの名残かもしれない。


 街灯りの反射かもしれない。


 フィーは気づかなかった。


 トンヌラも気づかなかった。


 ぽめの耳だけが、わずかに動いた。



 フィーは街を見下ろす。


 穏やかな灯り。


 静かな道。


 怪我人のいない夜。


 たしかに平和だ。


 たしかに祝福だ。


 でも。


 命は、本当にそれでいいのだろうか。


 揺れない命は、生きていると言えるのだろうか。



 ここはレイアノーティア。


 平和は祝福。


 だが。


 揺れない命は、本当に生きているのか。



 第111話 了

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