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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第11章 役割のない静寂

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110/122

第110話 何も起きない街

 ここはレイアノーティア。

 危機がないことは、幸福だ。


 本来は。


 誰も襲われない。

 誰も倒れない。

 誰も泣かない。

 守るべきものが、守られたままそこにある。


 それは、きっと良い世界だ。


 だが。


 何も起きない場所に立ち続ける者は、やがて思ってしまう。


 自分は、本当に守れているのかと。



 アンタイトルは、平和だった。


 魔物は現れない。

 盗賊も減った。

 揉め事も、小さな口論で収まる。


 ギルドの掲示板は、白い。


 以前なら、紙が重なり、端が破れ、誰かが奪い合うように依頼を剥がしていた。


 今は違う。


 討伐依頼はほとんどない。

 護衛依頼も減った。

 復興作業も、計画通りに進んでいる。


 掲示板の前で立ち止まる者はいる。


 だが、選ぶほどの依頼がない。



「最近、暇ですね」


 受付嬢が苦笑しながら言った。


 カウンターの上には、未処理の依頼書が数枚だけ置かれている。


 隣にいた冒険者が笑う。


「いいことだろ」


「まあ、そうなんですけどね」


 受付嬢も笑った。


 その笑顔に嘘はない。


 平和なのはいいことだ。


 怪我人が少ない。

 討伐隊を組まなくていい。

 遺族へ報告しなくていい。


 それは、間違いなく良いことだった。


 ガルドは、その横で静かに立っていた。


 背には、新しい盾がある。



 盾は、新調された。


 メルグラフの職人が用意したものだ。


 以前の盾より軽い。

 重心も良い。

 握りやすく、取り回しも速い。


 完璧な作りだった。


 傷ひとつない。


 欠ける気配もない。


 だからこそ、ガルドは時々、その盾を見るたびに胸の奥が静かに沈んだ。


 半分以下に削られた盾の感触が、まだ腕に残っている。


 守れなかったわけではない。


 あの時、街は残った。


 ディボイドは消えた。


 だが、盾は欠けた。


 守るということが、自分の中で一度、確かに壊れた。



(……何も起きない)


 ガルドは、ギルドの外を見た。


 通りには子どもがいる。


 荷車が通る。


 露店の布が風に揺れる。


 誰も逃げていない。


 誰も助けを呼んでいない。


 剣を抜く必要もない。


 それはいいことだ。


 いいことのはずだった。



 数日前。


 森の奥で魔物が出たと聞いた。


 ガルドはすぐに向かった。


 盾を背負い、息を切らして木々の間を抜けた。


 だが、着いた時には終わっていた。


 若い冒険者たちが、魔物の死骸を囲んでいた。


「もう大丈夫です」


 そのうちの一人が言った。


「たまたま近くにいたので」


 笑っていた。


 悪意はない。


 むしろ誇らしげだった。


「タイミングが良かっただけです」


 ガルドは頷いた。


「そうですか」


 それだけ言った。


 守られた。


 被害はなかった。


 なら、それでいい。


 だが帰り道、盾がやけに軽く感じた。



 別の日。


 南門でトラブルがあった。


 荷馬車同士がぶつかりかけ、積み荷が崩れ、通行人が巻き込まれそうになったらしい。


 ガルドは急いで向かった。


 だが、そこでも終わっていた。


 商人たちが頭を下げ合い、門番が記録を取っていた。


「あなたが来る前に解決しました」


 門番が言った。


「怪我人もありません」


「そうですか」


 ガルドはまた、そう答えた。


 良かった。


 本当に良かった。


 そう思う。


 思うのに。


 自分の中に、何かが残る。



 何も起きない。


 自分のいる場所では。


 ガルドは、その違和感を言葉にできずにいた。



 夕方。


 丘の上。


 トンヌラの家の前に、ガルドは立っていた。


 古びた家。


 少し歪んだ扉。


 修繕跡のある屋根。


 煙突からは、細い煙が上がっている。


 中にはトンヌラがいる。


 ぽめもいる。


 ガルドは、門番のようにその前に立っている。


 魔物は来ない。


 盗賊も来ない。


 危険な気配もない。


 風だけが、丘の草を揺らしている。



 扉が開いた。


 トンヌラが顔を出す。


「守ってるのか?」


「はい」


 ガルドは即答した。


 トンヌラは少しだけ眉を寄せる。


「ここには何も来ないぞ」


「それでも、守ります」


「暇だろ」


「暇です」


「認めるのか」


「はい」


 ガルドは真面目に頷く。


「ですが、団長を守ると決めましたから」


「団長ではない」


 トンヌラは、いつものように言った。


 だが、その声に以前のような妙な強さはない。


 ただ、訂正しただけの声だった。


 ガルドは、その声を聞くたびに胸の奥が痛む。



「俺を守ってどうする」


 トンヌラが言う。


「俺はもう、何もできないぞ」


「それでも、守ります」


「守る価値がないかもしれない」


「それを決めるのは、俺です」


 ガルドはまっすぐ答えた。


 トンヌラは少し黙った。


 それから、視線を逸らす。


「……そうか」


 それだけだった。



 ガルドは家の前に立つ。


 トンヌラは縁側へ出て、座った。


 ぽめはその横で寝ている。


 最近のぽめは、本当によく眠る。


 丸い。


 相変わらず丸い。


 だが、眠りの底が見えない。


 ガルドは、ふとそのことが気になった。


「ぽめさんは、最近よく眠りますね」


「前からだろ」


「そうですが」


「丸い生き物はよく寝る」


「そういうものですか」


「知らん」


 トンヌラは空を見る。


 その横顔は、穏やかにも見える。


 だが、抜け落ちているようにも見える。



「団長」


 ガルドは言った。


「俺が守りたいのは、この家だけではありません」


 トンヌラは視線を向けない。


「知ってる」


「今があるのは、団長のおかげです」


 静かな声だった。


「だから俺は守ります」


 トンヌラは小さく笑った。


「俺、何もしてないぞ」


 ガルドは首を振る。


「違います」


 だが、その先の言葉が出てこなかった。


 何をどう説明すればいいのか分からない。


 トンヌラは剣を振っていない。

 盾にもなっていない。

 補給もしていない。

 命も治していない。

 音も鳴らしていない。

 因果も縫っていない。


 それでも、確かに中心にいた。


 そう言いたい。


 だが、今のトンヌラには、その中心がない。


 言葉にすればするほど、失ったものを突きつける気がした。



 トンヌラは、遠くの街を見ていた。


「守るものがあるのは、いいことだな」


「はい」


「俺には、もうよく分からん」


 ガルドの胸が痛む。


「団長」


「団長ではない」


「……トンヌラさん」


「なんだ」


「俺は、あなたを守ります」


「好きにしろ」


「はい」


 短い会話だった。


 だが、ガルドにはそれ以上言えなかった。



 夜。


 トンヌラは眠る。


 ぽめも眠る。


 ガルドは家の外に立っていた。


 風が吹く。


 虫の声がする。


 遠くの街の灯りが、静かに揺れている。


 何も起きない。


 本当に何も起きない。


 ガルドは盾を背負ったまま、丘の下を見下ろす。


 この場所は安全だ。


 危険はない。


 トンヌラは眠っている。


 守れている。


 そう思う。


 思おうとする。



 その頃。


 遠くの北の山で、小さな火が上がっていた。


 ガルドの視界には入らない。


 風向きも違う。


 音も届かない。


 だから、気づけない。


 そこでは、小隊が魔物に襲われていた。


 大きな被害にはならなかった。


 誰も死ななかった。


 だが、危なかった。


 ほんの少し対応が遅れていれば、誰かが欠けていたかもしれない。


 その夜、ガルドはそれを知らないまま、丘の上に立っていた。



(守れているのか?)


 その問いだけが、胸の奥に残る。


 答えはない。


 何も起きない場所にいる限り、答えは出ない。



 翌朝。


 ギルドの片隅で、小さな話が流れていた。


「昨日、北の山で小隊が襲われたらしいぞ」


「本当か?」


「怪我人は出たが、命に別状はないって」


「危なかったらしいな」


 ガルドの手が止まる。


 新しい盾の革紐を締め直していた手が、そこで固まった。


「……いつですか」


 声が低くなる。


 冒険者の一人が振り向く。


「夜中だよ」


 軽い調子だった。


「お前、丘の上だったろ?」


 ガルドは何も言えなかった。


 その場にいた者たちは、責めてはいない。


 誰も、ガルドが悪いとは言っていない。


 むしろ当然のように話している。


 それが、余計に刺さった。



 自分のいる場所では、何も起きない。


 だが。


 起きていないわけではない。


 ただ、自分のいない場所で起きている。


 ガルドは盾を見る。


 新しい盾。


 完璧な盾。


 軽く、強く、欠けていない盾。


 それが、やけに軽く感じた。



(俺は……守れているのか?)


 誰かが笑いながら言う。


「まあ、被害が少なくてよかったな」


「最近は本当に平和だよ」


「これくらいで済むなら上出来だ」


 ガルドは頷けなかった。


 平和。


 上出来。


 被害は少ない。


 それは確かだ。


 だが、危機が消えたわけではない。


 ただ、見えにくくなっている。


 あるいは、守る者の視界から外されている。


 そんな気がした。



 昼過ぎ。


 ガルドは再び丘へ向かった。


 トンヌラの家の前に立つ。


 いつもの位置。


 いつもの風。


 いつもの静けさ。


 家の中からは、物音が少しだけ聞こえる。


 トンヌラが何かを落としたらしい。


「……大丈夫ですか」


「大丈夫だ」


 返事がある。


 ガルドは少しだけ安心する。


 安心してしまう。


 その自分に、また胸が沈む。



 守るとは、何だ。


 目の前の一人を守ることか。


 遠くの危機へ向かうことか。


 誰かが傷つく前に動くことか。


 それとも、何も起きない場所で立ち続けることか。


 ガルドには、まだ答えが出ない。


 ただ、盾を握る。


 立つ。


 それしかできない。



 ぽめが、家の中で寝返りを打った。


 小さな音。


 ガルドはふと、そちらを見る。


 丸い獣は、深い眠りの中にいる。


 動かない。


 だが、その眠りは、どこかただの眠りではないように見えた。


 何かが静かに溜まっている。


 そんな気配があった。


 ガルドは目を細める。


 だが、すぐに首を横に振った。


 気のせいかもしれない。


 最近、自分は考えすぎている。



 風が吹く。


 丘の下の街は、今日も平和だ。


 何も起きない。


 けれど。


 ガルドはもう、その静けさをそのまま信じられなくなっていた。



 ここはレイアノーティア。


 危機がない世界は、


 守る者の居場所を削る。



 第110話 了

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