第110話 何も起きない街
ここはレイアノーティア。
危機がないことは、幸福だ。
本来は。
誰も襲われない。
誰も倒れない。
誰も泣かない。
守るべきものが、守られたままそこにある。
それは、きっと良い世界だ。
だが。
何も起きない場所に立ち続ける者は、やがて思ってしまう。
自分は、本当に守れているのかと。
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アンタイトルは、平和だった。
魔物は現れない。
盗賊も減った。
揉め事も、小さな口論で収まる。
ギルドの掲示板は、白い。
以前なら、紙が重なり、端が破れ、誰かが奪い合うように依頼を剥がしていた。
今は違う。
討伐依頼はほとんどない。
護衛依頼も減った。
復興作業も、計画通りに進んでいる。
掲示板の前で立ち止まる者はいる。
だが、選ぶほどの依頼がない。
⸻
「最近、暇ですね」
受付嬢が苦笑しながら言った。
カウンターの上には、未処理の依頼書が数枚だけ置かれている。
隣にいた冒険者が笑う。
「いいことだろ」
「まあ、そうなんですけどね」
受付嬢も笑った。
その笑顔に嘘はない。
平和なのはいいことだ。
怪我人が少ない。
討伐隊を組まなくていい。
遺族へ報告しなくていい。
それは、間違いなく良いことだった。
ガルドは、その横で静かに立っていた。
背には、新しい盾がある。
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盾は、新調された。
メルグラフの職人が用意したものだ。
以前の盾より軽い。
重心も良い。
握りやすく、取り回しも速い。
完璧な作りだった。
傷ひとつない。
欠ける気配もない。
だからこそ、ガルドは時々、その盾を見るたびに胸の奥が静かに沈んだ。
半分以下に削られた盾の感触が、まだ腕に残っている。
守れなかったわけではない。
あの時、街は残った。
ディボイドは消えた。
だが、盾は欠けた。
守るということが、自分の中で一度、確かに壊れた。
⸻
(……何も起きない)
ガルドは、ギルドの外を見た。
通りには子どもがいる。
荷車が通る。
露店の布が風に揺れる。
誰も逃げていない。
誰も助けを呼んでいない。
剣を抜く必要もない。
それはいいことだ。
いいことのはずだった。
⸻
数日前。
森の奥で魔物が出たと聞いた。
ガルドはすぐに向かった。
盾を背負い、息を切らして木々の間を抜けた。
だが、着いた時には終わっていた。
若い冒険者たちが、魔物の死骸を囲んでいた。
「もう大丈夫です」
そのうちの一人が言った。
「たまたま近くにいたので」
笑っていた。
悪意はない。
むしろ誇らしげだった。
「タイミングが良かっただけです」
ガルドは頷いた。
「そうですか」
それだけ言った。
守られた。
被害はなかった。
なら、それでいい。
だが帰り道、盾がやけに軽く感じた。
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別の日。
南門でトラブルがあった。
荷馬車同士がぶつかりかけ、積み荷が崩れ、通行人が巻き込まれそうになったらしい。
ガルドは急いで向かった。
だが、そこでも終わっていた。
商人たちが頭を下げ合い、門番が記録を取っていた。
「あなたが来る前に解決しました」
門番が言った。
「怪我人もありません」
「そうですか」
ガルドはまた、そう答えた。
良かった。
本当に良かった。
そう思う。
思うのに。
自分の中に、何かが残る。
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何も起きない。
自分のいる場所では。
ガルドは、その違和感を言葉にできずにいた。
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夕方。
丘の上。
トンヌラの家の前に、ガルドは立っていた。
古びた家。
少し歪んだ扉。
修繕跡のある屋根。
煙突からは、細い煙が上がっている。
中にはトンヌラがいる。
ぽめもいる。
ガルドは、門番のようにその前に立っている。
魔物は来ない。
盗賊も来ない。
危険な気配もない。
風だけが、丘の草を揺らしている。
⸻
扉が開いた。
トンヌラが顔を出す。
「守ってるのか?」
「はい」
ガルドは即答した。
トンヌラは少しだけ眉を寄せる。
「ここには何も来ないぞ」
「それでも、守ります」
「暇だろ」
「暇です」
「認めるのか」
「はい」
ガルドは真面目に頷く。
「ですが、団長を守ると決めましたから」
「団長ではない」
トンヌラは、いつものように言った。
だが、その声に以前のような妙な強さはない。
ただ、訂正しただけの声だった。
ガルドは、その声を聞くたびに胸の奥が痛む。
⸻
「俺を守ってどうする」
トンヌラが言う。
「俺はもう、何もできないぞ」
「それでも、守ります」
「守る価値がないかもしれない」
「それを決めるのは、俺です」
ガルドはまっすぐ答えた。
トンヌラは少し黙った。
それから、視線を逸らす。
「……そうか」
それだけだった。
⸻
ガルドは家の前に立つ。
トンヌラは縁側へ出て、座った。
ぽめはその横で寝ている。
最近のぽめは、本当によく眠る。
丸い。
相変わらず丸い。
だが、眠りの底が見えない。
ガルドは、ふとそのことが気になった。
「ぽめさんは、最近よく眠りますね」
「前からだろ」
「そうですが」
「丸い生き物はよく寝る」
「そういうものですか」
「知らん」
トンヌラは空を見る。
その横顔は、穏やかにも見える。
だが、抜け落ちているようにも見える。
⸻
「団長」
ガルドは言った。
「俺が守りたいのは、この家だけではありません」
トンヌラは視線を向けない。
「知ってる」
「今があるのは、団長のおかげです」
静かな声だった。
「だから俺は守ります」
トンヌラは小さく笑った。
「俺、何もしてないぞ」
ガルドは首を振る。
「違います」
だが、その先の言葉が出てこなかった。
何をどう説明すればいいのか分からない。
トンヌラは剣を振っていない。
盾にもなっていない。
補給もしていない。
命も治していない。
音も鳴らしていない。
因果も縫っていない。
それでも、確かに中心にいた。
そう言いたい。
だが、今のトンヌラには、その中心がない。
言葉にすればするほど、失ったものを突きつける気がした。
⸻
トンヌラは、遠くの街を見ていた。
「守るものがあるのは、いいことだな」
「はい」
「俺には、もうよく分からん」
ガルドの胸が痛む。
「団長」
「団長ではない」
「……トンヌラさん」
「なんだ」
「俺は、あなたを守ります」
「好きにしろ」
「はい」
短い会話だった。
だが、ガルドにはそれ以上言えなかった。
⸻
夜。
トンヌラは眠る。
ぽめも眠る。
ガルドは家の外に立っていた。
風が吹く。
虫の声がする。
遠くの街の灯りが、静かに揺れている。
何も起きない。
本当に何も起きない。
ガルドは盾を背負ったまま、丘の下を見下ろす。
この場所は安全だ。
危険はない。
トンヌラは眠っている。
守れている。
そう思う。
思おうとする。
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その頃。
遠くの北の山で、小さな火が上がっていた。
ガルドの視界には入らない。
風向きも違う。
音も届かない。
だから、気づけない。
そこでは、小隊が魔物に襲われていた。
大きな被害にはならなかった。
誰も死ななかった。
だが、危なかった。
ほんの少し対応が遅れていれば、誰かが欠けていたかもしれない。
その夜、ガルドはそれを知らないまま、丘の上に立っていた。
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(守れているのか?)
その問いだけが、胸の奥に残る。
答えはない。
何も起きない場所にいる限り、答えは出ない。
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翌朝。
ギルドの片隅で、小さな話が流れていた。
「昨日、北の山で小隊が襲われたらしいぞ」
「本当か?」
「怪我人は出たが、命に別状はないって」
「危なかったらしいな」
ガルドの手が止まる。
新しい盾の革紐を締め直していた手が、そこで固まった。
「……いつですか」
声が低くなる。
冒険者の一人が振り向く。
「夜中だよ」
軽い調子だった。
「お前、丘の上だったろ?」
ガルドは何も言えなかった。
その場にいた者たちは、責めてはいない。
誰も、ガルドが悪いとは言っていない。
むしろ当然のように話している。
それが、余計に刺さった。
⸻
自分のいる場所では、何も起きない。
だが。
起きていないわけではない。
ただ、自分のいない場所で起きている。
ガルドは盾を見る。
新しい盾。
完璧な盾。
軽く、強く、欠けていない盾。
それが、やけに軽く感じた。
⸻
(俺は……守れているのか?)
誰かが笑いながら言う。
「まあ、被害が少なくてよかったな」
「最近は本当に平和だよ」
「これくらいで済むなら上出来だ」
ガルドは頷けなかった。
平和。
上出来。
被害は少ない。
それは確かだ。
だが、危機が消えたわけではない。
ただ、見えにくくなっている。
あるいは、守る者の視界から外されている。
そんな気がした。
⸻
昼過ぎ。
ガルドは再び丘へ向かった。
トンヌラの家の前に立つ。
いつもの位置。
いつもの風。
いつもの静けさ。
家の中からは、物音が少しだけ聞こえる。
トンヌラが何かを落としたらしい。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
返事がある。
ガルドは少しだけ安心する。
安心してしまう。
その自分に、また胸が沈む。
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守るとは、何だ。
目の前の一人を守ることか。
遠くの危機へ向かうことか。
誰かが傷つく前に動くことか。
それとも、何も起きない場所で立ち続けることか。
ガルドには、まだ答えが出ない。
ただ、盾を握る。
立つ。
それしかできない。
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ぽめが、家の中で寝返りを打った。
小さな音。
ガルドはふと、そちらを見る。
丸い獣は、深い眠りの中にいる。
動かない。
だが、その眠りは、どこかただの眠りではないように見えた。
何かが静かに溜まっている。
そんな気配があった。
ガルドは目を細める。
だが、すぐに首を横に振った。
気のせいかもしれない。
最近、自分は考えすぎている。
⸻
風が吹く。
丘の下の街は、今日も平和だ。
何も起きない。
けれど。
ガルドはもう、その静けさをそのまま信じられなくなっていた。
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ここはレイアノーティア。
危機がない世界は、
守る者の居場所を削る。
⸻
第110話 了




