桐津羽衣児9
そしてやがて激情は去り、虚しさだけが残る。
泣き疲れて寝てしまった母親の顔は相変わらず綺麗で儚げだったが、俺はもはやそのことに何の意味も見出さなかった。
母親の部屋に通うことを止め、無理に明るく振る舞いもせず、必要最低限の会話しか交わさない。
突然がらりと態度を変えた俺に弟は戸惑っていたが、フォローする気にもならなかった。俺は家族ってものに一切の幻想を抱けなくなっていたのだ。
当然のことながら母親は何も聞いてこなかった。あの人は元々俺なんかに興味はない。こちらから出向かなければ、一週間顔を見ないなんてざらだ。
最初からこうすれば良かったんだ。無駄な努力なんてせず、楽に生きる。適度に飾って、適度に手を抜いて。割り切って要点だけ抑え、裏を読んで網を張り巡らせれば、世界はこんなにも簡単に思い通りになる。
父親は人間性は最悪だったが社会的地位は相当良く、母親は世間知らずだったが御家柄の関係で上流の知り合いには事欠かなかった。
考えてみれば相当恵まれた環境だ。一々金の心配をしなくてもいいし後ろ指さされたりもしない。俺は大多数の人間に羨ましがられるような生活を送っている。
辛いことなど何もない。
何一つ、ありはしない。
「……くっ」
枕に染みを作る涙が腹立たしかった。布団をぎりぎりと握り締めて目に力を入れ、これ以上泣かないように堪える。こんなのただの分泌液だ。埃が目に入ったわけでもないのに、泣く必要なんてない。
二、三回深呼吸して、感傷を追いやった。冷静になれよ、なぁ。俺は自分を可哀想がって蹲ってるようなつまんねぇ奴じゃねぇだろ。
心が凪いでいくに従って、目の奥に溜まっていた熱い塊はすっと引いていった。サイドボードに置いてあったティッシュを引っ掴んで、目元に当てる。
こんなめんどくさい状態になったのはいつ以来だろう。地味男くん相手だからって油断しすぎたか、とため息をつき、俺は立ち上がった。喉渇いたな。水でも飲むか。スリッパをつっかけて、台所に向かう。……が、既に先客がいた。
冷蔵庫から麦茶のボトルを出している静弥と目が合い、嫌な予感がしてすぐに逸らすが遅かった。静弥は怪訝そうな顔で俺に近づいてくる。
「兄さん、なんかあったの」
「なんもねぇよ」
鋭すぎねぇかこいつ、さすが俺の弟。内心舌打ちしながらその場を離れようとしたら、静弥は俺の前に回り込む。
「でも目の周り赤い……」
「気のせいじゃねぇの? 疲れてっから用がないなら話しかけんなよ」
「待って! あ、あのさ、あんた、なんで変わっちゃったんだよ」
「……は?」
「俺は前の兄さんの方が好きだよ」
またそれか。小さい頃静弥を守ってやれるのは俺しかいなかったから、こいつはだいぶ当時の俺に幻想を抱いている。あの時だって別に俺は麗しい兄弟愛とかを発揮してたわけじゃない。ただ母さんに褒められたい一心で、余裕のあるふりしてお兄ちゃんぶっていたのだ、
「兄さんは優しくて、賢くて大人でいつも頼りになって……一番尊敬してたよ。俺もいつか兄さんみたいになろうって。なのになんで……」
「知るかよ。うぜぇ」
「そんな乱暴な口調もしなかったっ……!」
そうだな。むしろ俺は諫めてた方だった。テレビとか周りの友達の影響で静弥が下品な言葉を使った時に、頭のいい人間はそんな言い方しないんだよって。こいつがいつまでもいい子ちゃんぽいのは、馬鹿正直にその教えを守ってるせいもある。
「今のが賢いぜ、俺は。お前もいい加減わかれよ」
静弥から麦茶のボトルを奪い取り、近くにあったグラスについで一気に飲み干した。あーうっま。染みわたる。酒ならもっと良かったけどな。ボトルとグラスを押し付けるように渡し、踵を返す。
「兄さん、あの……」
「開き直れば楽になるぜ?」
口の端を釣り上げてにやりと皮肉げな笑みを浮かべ、すれ違いざま静弥の耳に囁いた。
「――お前だっていずれ俺になる」
なって欲しいとは、けして思わないけどな。目を見開く静弥に奇妙な嗜虐心を覚えながら、俺は苦笑した。
俺は俺と仲良くできる気がしない。




