桐津羽衣児8
何をしても、何年たっても、家族の関係が変わることはなかった。いや、むしろ悪化していたかもしれない。
父親はますます家に寄り付かなくなり、母親はちょっとした散歩にさえ出かけることはなくなった。運動らしい運動をほとんどしないわりに細かったのは、小鳥がついばむほどしか食べなかったせいだ。俺と弟は心配してもっと食べさせようとしたが、母親が無理に食べると吐いてしまうと知ってからは、為すすべなく見守るしかなかった。
家事は、母親の代わりに二人の使用人が交代でしていた。ごく普通の人たちで、ごく普通に仕事をこなし、俺達とはいたって事務的な関係を築いていた。
二つ年下の弟の面倒は俺がみた。といっても母親が全くなにもしなかったわけではないし、弟も俺と同じく手のかからない子供だったからたいした負担ではなかったが、例えば弟を殴って泣かせた奴に注意しに行くとか、あるいは弟が遊びに行った先の家でうっかり花瓶を壊してしまったのを謝りに行くとか、そういうつきあいは俺がこなした。俺だって年齢的には子供だったが、周りの誰も頼りにならないとなれば自分がやるしかないのだ。
最新の空気清浄機を設置し、高い天井からシャンデリアが下がっていても、家の中の空気は常に暗く重い。
俺は日課のように母親の部屋に通っておもしろい話をしようとした。あの先生がこんなことを言った、うちの学校にはこんな伝説があるらしい、さっきニュースでこんな事件を伝えていた――途切れなく喋る俺の話には、当然嘘も含まれている。まぁでも真偽なんかどうだっていいのだ、それで母親が笑ってくれるならば。
けれど中学一年の五月、俺を迎え入れた母親は、珍しく最初から機嫌が良かった。たまぁにだが、それまでもそういうことはあった。大抵、父親が気まぐれで比較的優しめな言葉をかけた時だ。
「お母さん、今日いつもより綺麗だね。調子良さそう」
真新しい学ランの上着を脱ぎながら言うと、母親は嬉しそうに笑った。
「そうね、今日はとっても楽しいわ。お天気もいいし、いいこともあったし」
あ、やっぱりそうなんだ。お父さん来たんだ。
俺は腹立たしいような悔しいような気持ちになったが、そんなのは母親が笑っている事実に比べればささいなことだった。
そして、そうだ、と思い立って手に提げていた鞄を漁る。
「あ、あのさ」
俺は躊躇いながら、でもせっかくだし、と勢いに任せて言う。
「授業参観、あるみたいなんだ。来てくれるかな?」
今まではそういうことはあまり言わないできた。母親は外に出るとすぐに風邪をひいたり体力切れで倒れたりしてしまうから無理だし、父親が来るなんて天地がひっくりかえってもありえない。
百メートル走で一等をとった運動会も、準主役を張った学芸会も、俺の前に当てられた二人が答えられなかった問題をすらすらと解いて見せた授業参観も、一度として両親が見にくることはなかった。
けれど今なら、言ってもいいんじゃないかな。もしかしたら来られるんじゃないかな。
淡い期待を胸に、授業参観お知らせのプリントを見せてみる。
「まぁ、そうなの……」
母親はおっとり微笑んだ。
「いいわね。羽衣児さんが授業を受けているところ、見てみたいわ。あなたがしっかりしているからお母さんつい甘えてしまっていたけど、本当は行けない事を心苦しく思ってたのよ。最近は体調がいいからきっと行けるわ」
「ほんと!? わぁ、ありがとうお母さん!」
思ってもみない返事に俺は喜んだ。……けどまぁ、結果として母親は来なかった。
そうなることはなんとなく予想していたので、俺は落ち込みはしたものの、立ち直れないほどではなかった。そのころにはもう、大体のことはしょうがないと諦められるようになっていた。
要するに期待をしなければいいのだ。期待が大きければその分落胆も大きい。俺は半分は母親が来ることを楽しみにしていたが、半分は駄目になるんじゃないかなと予防線を張っていた。
だから文句を言ったりはしない。母親だって本当は来たかったのだ。でも体が弱いから無理なのだ。仕方ない。わかってたことだ。
そう思って自分を納得させて、でもちょっと、ほんの少しだけ、ちくりと言うぐらいはいいんじゃないかなと、思いながら母親の部屋のドアをノックする。
「……?」
返事がない。どうかし――
「どけ!」
バァン、と凄い勢いでドアが開かれた。険しい顔の父親が俺を押しのけ、猛然と去っていく。なんだあれ。またお母さんになんか言ったのか!? 慌てて中を見ると、案の定、母親はフローリングの上に横座りになっており傍に倒れた椅子が転がっていた。多分突き飛ばされるかなんかしたんだろう。
俺はちくりと言いたいなんて気持ちは途端に忘れて、なんとか母親を慰めようと頭をフル回転させる。
そうだ、そう言えば今日の授業参観で一人凄く変な回答をした奴がいたんだった、そいつはあんまり頭がよくなくて、いつもとんちんかんなことを言ってみんなを笑わせてるけど、でもひょうきんなところが憎めなくて好かれていた。その話をしよう。きっと笑ってもらえる。
俺は母親を立たせるために手を差し出して話しだそうとした。
「お母さん、あの……授業、参観――」
――あ。
目の前が真っ暗になるような衝撃に、俺は思わず手を引っ込める。
母親は、怯えていた。
あなたも私を責めるの、私に酷いことを言うの、私を苛めるの。
そんな眼をして、傷ついた少女のように、体を縮こまらせて震えている。
――ぶつ、と何かの糸が切れた。
やめてくれよ。
やめろよ。そんな眼で見るな。どうしてどうしてどうしてどうして……!
どうしてあなたは……俺は……こんな。
――どうして。
体中が絶望で覆いつくされた気がした。どろどろした黒い膜に捕らわれて、一歩も前に動けない。
俺は多分ずっと求めていた。自分を守ってくれる人、愛してくれる人を。無償の愛を、優しさを、慈しみを。
それはほとんどの子供が多少なりとも親から与えられるもので、当然求めてしかるべきもので、でも俺は我慢した。
自分よりずっと弱い人が近くにいたから。母親に『親』を期待してはいけない。守る側は俺なのだ。あの冷酷で無慈悲な父親から、か弱い母を守らねばならない。
ずっと、そうやって俺は、自分を殺して、強く在ろうと踏ん張って、母親を慰めて労わって、けれどそれの状態がいつまでも持つはずはなかった。
今まで溜めてきた寂しさや悲しみや怒りや我儘が全て凝縮され、一気に目の奥から溢れ出る。音もなく熱い液体が止めどなく流れてゆき、顎をつたって襟を汚した。
母親は、相変わらず被害者の顔をして、途方に暮れたように俺を見た。
十二歳の我が子が号泣しているというのに、心配の言葉一つかけなかった。俺と母親は向かい合って、お互いの心はまったく通わせないまま、ひたすら涙を流し続けた。
2012/02/25一行だけ加筆。既読の方は読まなくてもまったく差しさわりありません。




